公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『RENT』 / ブロードウェイミュージカル来日公演

enterstage.jp

2 日後に観る 『アラジン』 と共に、ミュージカルであり、かつ 『スーパーストライク』 のパロディパート元ネタでもあります。

ブロードウェイミュージカルの来日公演ということで当然、台詞は全編にわたって英語。ステージの両脇に字幕表示用ディスプレイがあり、何らかの同期によってリアルタイムに日本語字幕が表示されるため、言語の壁は問題ありませんでした。

レント (ミュージカル) - Wikipediaja.wikipedia.org

ニューヨークはイースト・ヴィレッジにおいて、家賃(Rent)を払えず物件からの退去を迫られるほどに困窮する社会的弱者たちを描いた物語です。ただし舞台背景は本作が執筆された 1990 年代に基づいているため、LGBT を取り巻く世相やエイズに対する認識(特に近年の見解とは異なって劇中では未だ「即、死に至る病」であるという点)、あるいはイースト・ヴィレッジという街そのものが、四半世紀前という“そうそう最近でもない”世代のもの。ヘッズ(RENT-Heads)と呼ばれる熱狂的ファン層を擁する点や、役者が登場するだけで拍手喝采(なんか新喜劇みたいだなあと思ってしまいました)といった反応からも、日本だから(ニューヨークを知らないから)今なお“現代”を捉えた演劇として評価されている、なんてことはなさそう。むしろ、ある種の懐古趣味を内包した伝統芸能の色味が強いように感じられました。

もちろん当時としては画期的な社会/世相や劇中歌ジャンルの取材だったことには違いないでしょう。クライマックスが主要人物のエイズによる死であることも、深刻なリアル“だった”のかもしれない。だからこそ、2010 年代も終わる今日において、古典とも今現在ともつかない立ち位置となっている本作を観客はどのような対象として捉え、何を受容しようとしているのか、というのが気になってしまいます。テイクホームメッセージを得るための題材として、古典でも今日でもないこの限定された過去の世相を提示されても、その時代その状況に生きていたとはいえない自分には割り切りも現実感も湧き得ないのかなと思いました。

『Seasons of Love』は第 2 幕の冒頭だけでなく、第 2 幕の全編にわたってモティーフが変奏される、かなり重要なナンバーでした。

劇伴は舞台下手側、“賃貸”1 階の小部屋に半ば詰め込まれたような形で陣取るコンボ(バンド)による生演奏で、彼らは非常に良いパフォーマーでした。劇中歌のジャンルも、ヒップホップ以外はほぼ網羅していたのではないかというくらい多岐にわたっていて、いずれもオルガンが最大限活躍できるようなアレンジだったのが彼らのバンド編成に刺さっていました。これがブロードウェイの座組であることをダイレクトに堪能できた、個人的には最大の醍醐味だったかな。

日時

『消えていくなら朝』 / 演出: 宮田慶子

副題: Morning Disappearance

www.nntt.jac.go.jp

きつかった。

作家というのはある程度、自身の人生を切り売りしながら生きていくものかもしれない。ましてや、そうでもしないと書けないような話を蓬莱の戯曲ではいくつか観た。要素で言えば数知れない。切り売りの中で最後に残ったのが、自身の家族のことだったと。その上でこれは、「これからあなたたち家族を、次の作品の題材にすることを決めた」と彼らに告白した場合をシミュレーションした話だと思った。

2 時間という枠で物語に起承転結をつける、あるいはそのために虚構とケレン味を交えた、あくまで“芝居”ではある。それにしても、新興宗教にのめり込む母親[演:梅沢昌代]。そんな母親に敷かれた団体幹部のレールに乗せられ、挫折し、一般企業の営業職として生活するもどこかで劇作家という職業の弟を蔑むことで心の安定を得ようとしている兄[山中崇]。上の息子 2 人を宗教に持っていかれ、仕事や増築にしか意義を見出せない父親[高橋長英]。その父親に合わせるようにして自身が男であるかのように家族の一員を演じ続けて、取り返しのつかない年齢まで来てしまった妹[高野志穂]。芝居とはいえ、自身の家族を取材したと公言している以上は、相当の覚悟が無いと書けないような錚々たる内訳。

蓬莱の分身であるサダオ1鈴木浩介]も、その家族から距離を置いたために、5 年以上あいた帰省ではよそよそしく、へらへらと会話するほかない。そんな間合いの作家が“普通ではない”「家族」に、場違いともタブーとも取れる話を持ち掛けたことをきっかけに、家族全員が目を背けていたひずみが少しずつ、終章『崩壊』に向かってずれ始める。

鑑賞の最中から、何か蓋をしたかったものをこじ開けられほじくりだされているような心地の悪さと、近しい境遇の人間を見知ったときに感じるような安心との狭間をずっと行き来させられているような感覚で、揺さぶられるかのように消耗した。でも、不思議と後味は悪くないのだ。何かを通した代弁を受け取ったときの「言ってくれた」という安堵感は、想像以上に大きいのかもしれない。

サダオの家族不信の根本は、幼少の頃の夜中の記憶に端を発する。兄弟が川の字になって寝ている中で一人だけ目を覚ましていた彼は、両親の離婚話と、それに伴う子どもの親権の話を耳にしてしまう。母親は兄を、父親は妹を迷わず取ったが、サダオに関してはついに、どちらも引き取るという言葉を出そうとしなかった。やがてそれは、それ以前にもあったという喧嘩のひとつとして夜の中に霧散し、朝、何事もなかったかのようにいつもの「家族」が戻ってくる。そういった「朝」に、サダオはずっと気味の悪さを感じながら数十年を生きてきたというが、劇中において彼は、激しく口論し泣かせまでした兄との関係性を、場面転換した次の瞬間にはかなり修復できてしまっているような具合なのだ。一方で自身の告白によって取り返しのつかないまでに綻びた今回の帰省においても、また朝になればいつものような食卓が始まるであろうことに、変わらない恐怖を抱いてもいる。

例えば「家族だから」の一言で何かが収まろうとするとき、人は本当は一体なにを拠りどころとしている/できるのだろう。あるいは、サダオの婚約者[吉野美紗]が言うように「普通の家族なんて存在しない」のかもしれない。散々サダオの実家の悶着を見せつけられた終盤、この台詞と共に彼女は自身がフィリピン人のハーフであるという婚約者にも伝えていなかった事実を、その場で初めて打ち明けることになる。この「フィリピン」という単語ひとつで何かが弾けたように笑い続けられる観客は、この芝居に入り込むことなく俯瞰できる数少ない人のひとりなのだろうか。そのような育ちも決して、人並みであるとは思えないのだけど。

蓬莱はサダオと異なり、家族には相談しないという選択を以ってこの戯曲を上梓した。去ろうとする婚約者に「(この家族を題材とするかどうかを改めて)考える」とだけ返答し、朝焼けの空に目を泳がせるサダオが最後にどちら側に振れたのか。観客に解釈をゆだねるラストシーンは数多あれど、ここだけはずっと答えが出てこない。

  • 演出 宮田慶子
  • 作 蓬莱竜太
  • 開演 2018-07-29 13:00
  • 新国立劇場 小劇場

  1. 同じく私戯曲の香りを漂わせる 『回転する夜』 においても、同名の人物が主人公の兄として出てくる。劇中の家族構成は異なるが、海沿いの町の一軒家が実家であるという部分などに共通点がみられる。

『睾丸』 / ナイロン100℃ 46th SESSION

全共闘おじさんのタイムスリップもの、あるいは

www.cinra.net

  • 日本が舞台の(と明示された)ナイロンは初めて観た気がする。

  • タイムスリップものだな、と思った。

    • SF のようなトンデモテクノロジーを使わずに登場人物をタイムスリップさせるならば、昏睡させるという手法は現実的だ。また舞台を 50 年前の全共闘時代をメインにする以上、50 年(1968 年 → 2018 年)昏睡させてしまうと、タイムスリップする人物も関係者も、全員死んでいるか、あるいは物語の進行に必要となる心身を喪失している可能性がある。ちょうど半分の 25 年すなわち 1993 年を「現代編」としたのは、自然な落としどころであると思う。
  • 25 年の昏睡から目覚めた学生運動の指揮格、七ツ森[演:安井順平]は、身体は年を取ったものの、精神および時代性は当然、全共闘当時のまま。流石に 25 年も経てば、当時の部下だった人間たちも好奇とも気まずさともつかない態度で応対するしかない。また七ツ森は光吉[赤堀雅秋]と結託して、直前に自身を死んだことにもしていたため、その動機の幼稚さも相まってかつての部下の赤本夫妻[三宅弘城、坂井真紀]や立石[みのすけ]に袋叩き1にあう。

    • キンタマぶら下げてんなら!」ってのが良い。ゲバ棒(男根)よりもパッシブな男性性みたいな感じがよく表れていると思った。そしてこの罵倒を浴びせるのが坂井真紀という。
  • 七ツ森も七ツ森だけれども、彼の昏睡中に普通に 25 年を生きてきた赤本と立石も全共闘の呪いのようなものに苦しめられて(?)いる。赤本家では崩壊した 2 世帯(しかも片方は一方的に居候)の歪な夫婦、あるいは元夫婦の生活が同居している。立石に至ってはその赤本家に(さらに)居候をぶちかまそうと決めて自宅を燃やし、あげく失火に仕立て上げることで下りてくる保険金ウン千万で演劇を一本やろうという、奇人を通り越した異常者。

    • なんだけど、三宅とみのすけが大真面目に取り組むと、本当にいそうなギリギリの異常者感が出てくるからすごい。特にみのすけのこういう役はたまらなく良い…決してサイコではなく、絶妙に間が抜けているというか。なんなんだろうなあれ。

    • そんな赤本家の娘として生まれてしまった桃子[根本宗子]も、父親である赤本やその友人の立石に冷めた目を向けているようでありながら、裏では江戸[大石将弘]という男と結託して歌田愛美[菊池明明]という娘から搾取しまくったり、あるいは母親と共に愛美の父親[吉増裕士]を揺すったりと、全共闘世代の呪いを引き継いでいるような悪辣な女に仕上がっている。

      • この 1990 年世代においては、やはり七ツ森と同じように搾取側に立っていた江戸が、最終的にキンタマをぶら下げているが故のチョンボをやらかして桃子の目の前で愛美に惨殺されるというラスト2。あれで終わるのがめちゃくちゃケラだなあと思ったけど、全くもって救いようのない血の呪いの話だ。2018 年、桃子はいったいどのように生きているのだろうか。

      • 父親の思いつきで自宅燃やしに加担させられた立石の息子[森田甘路]も 2018 年は何やってんだろうなあ。

    • 新谷真弓の痴女(光吉の元嫁)役が強度あった。赤堀雅秋の汚いオッサン役も、年始に観た 『流山ブルーバード』 の脚本からは考え難い汚さだった。

  • 赤本や立石は学生運動プロパガンダのために演劇を使った宣伝を試みていた時期があり、これが 25 年後の「演劇をやる」という動機にもつながっている。赤本は 1993 年時点でも芝居を見に行っているようで、1993 年前後といえば第三舞台の全盛期3のちょうど終わりごろ。「シアターアプルでコーカミナンチャラの芝居を観に行ったらさあ」という台詞4からニヤニヤしてたんだけど、「コーカミナンチャラ」がいつのまにかはっきりと「鴻上尚史」に切り替ってから「話がチンプンカンプンでさ」というディス5が始まり、最後に三宅が劇中の『ハンマー』のダンスの振付けを真似するあたりまでが悪意に満ちていて6、劇中でいちばん笑ってしまった。

    • 鴻上がラジオ番組を介して赤本と立石の極悪左翼運動に加担してしまっていることになっているストーリー作りもむごたらしい。この時代設定じゃないとやる機会も無いからか、やたら気合の入った 90 年代鴻上いじりは本当にひどかった。
  • 開演 2018-07-28 13:30

  • 東京芸術劇場 シアターウエス

  1. 「総括」だな。

  2. 「総括」だ。

  3. いわゆる「第 2 期」。

  4. 1992 年、シアターアプルでの第三舞台の公演『THE ANGELS WITH CLOSED EYES』すなわち『天使は瞳を閉じて インターナショナル・ヴァージョン』に違いない。

  5. 『天閉じ』はまだストーリーラインしっかりしてると思うけどな…。

  6. 『ハッシャ・バイ』で鴻上は有頂天の音楽を使うくらいだし、決してお互いに本物の悪意があるのではないのだろうけど。

『死ンデ、イル。』 / モダンスイマーズ 句読点三部作連続上演

音楽を聞きながら。

句読点三部作

『死ンデ、イル。』
『悲しみよ、消えないでくれ』
『嗚呼いま、だから愛。』
句読点三部作連続上演
『嗚呼いま、だから愛。』
  • 2018-04-19 → 2018-04-29
『悲しみよ、消えないでくれ』
  • 2018-06-07 → 2018-06-17
『死ンデ、イル。』
  • 2018-07-20 → 2018-07-29

死ンデ、イル。 東京芸術劇場www.geigeki.jp

ポスト 3.11

フィクションよりも奇なるものが起きてしまったことで、創作をする人間は否が応でもそれに向き合わざるをえなくなってしまった。

映像作品、特に映画やアニメは比較的に、大災害を劇中で表現しやすい媒体かもしれない。演劇はそうもいかない。では、演劇はそういったものを描けないのか?いろんな作家が考えたと思う。劇中での表現に敢えて挑戦した芝居も勿論ある1。しかしそもそも、大災害そのものを劇中で描写する必要があるのか。災害によって何が起きるかというと、人の生活が変わってしまう。極端な例では人の生命そのものがそこで絶たれるわけだけれど、そうでなくとも死や破壊に直面した人の生活を不可逆的に変容させてしまう。『句読点三部作』は、災害そのものを描くことなく、そういう人たちの生活を描いている。

「私たちの町は、突然住めない町になった」

福島県浪江町を巻き込んだ“災害”で、女子高生の七海[演:片山友希]は姉夫婦の咲[成田亜佑美]・幹男[津村知与支]と共に、二本松のユウコおばさん[千葉雅子]の下へと疎開することになる。“災害”そのものでは怪我もなかった七海は、その疎開生活をはじめて一年以上たった後に、失踪する。

本編の時間軸に七海は出てこない。咲、幹男、ユウコおばさんをはじめ、疎開生活における彼女の関係者が一堂召集された部屋で、あるルポライター[小椋毅2]の取材により語りだされる回想の風景として、七海を中心とする疎開生活が描かれる。回想の手掛かりは、関係者から語られるインタビューの内容と、疎開生活中に七海が片時も手放さなかったはずの、そして何故か今はルポライターの手元にある一冊のスケッチブック。

保護者が必要な子供が保護されなくなるときに、起きること

本作における「“災害”が人に及ぼすもの」は、端的に表せばこういうことかなと思った。

両親とは“災害”に関係なく数年前に離別または死別。七海は姉夫婦ひいては叔母の下に身を寄せるしかないのだが、既に家庭がある姉にとっても、突然同居することになってしまった叔母にとっても、決して歓迎される存在ではない。手狭な三世帯住宅のようになった叔母の家で、幹男は酔った勢いで七海にちょっかいを出そうとするが、どういうわけか姉の不興を大いに買うのは七海の役回りになってしまう。

かねてから付き合っていた翔[松尾潤]は二本松への転校を機に軽薄な男に変貌し、七海のことを気にかけてくれていた丸山先生[西條義将]もユウコおばさんと…そこに七海が偶然いあわせてしまうことで…。

“災害”を機に変わってしまった環境の中で、七海はあらゆる人間関係の貧乏くじを引いてしまう。決して悪くないはずの人間が、成行きで不興を買い、忌まれ妬まれるスケープゴートのようになっていく積み重ね。身も心も貧しくなると大人はこんなものだし、大人を通してでないと世界の見えてこない子供にとって、それは…。

今日から私は、
廊下の押し入れで
寝ることにする。
ドラえもんだ。

うずくまる七海。スケッチブックに書いた言葉が、背後のスクリーンに投影される。

追いつめられる少女

natalie.mu

劇中もっとも鮮烈に残った景色が取材写真に残っていた。

都会から帰省してきた気前の良い兄貴肌の親戚、セイタにいちゃん[古山憲太郎3]。困ったら面倒見てやるよ、と何気なく発したその言葉に、二本松にはもう居場所のない七海は必死の SOS を発するが、姉や叔母からは、まだ子供なのに、都合が悪くなったら逃げるのか、といった嫌味が飛んでくる。セイタにいちゃんも手のひらを反すように、まだ若いんだから選択肢は無限にあるだろうよ、と宥める。

やっぱり選べない。

観客の視点からは表情が伺えないこのシークエンスで、彼女は完全に毀れる。息苦しくなる、芝居のハイライト。

転落、怒涛の終盤

もうどうでもいい、お母さんに会いたい。お母さんお母さんお母さんお母さんお母さん…背後のスクリーンを埋めつぶす七海の文字。

暗転した舞台が再び明るくなった時、その七海の独白を唱えているのはルポライターの古賀。手には七海のスケッチブック。それが七海にとっての何なのか、どこから手に入れたのか分かりかねて混乱する被取材陣を前に、懐からウィスキーの瓶を取り出してかっくらい始める古賀こと小椋さん。ここからラストシーンまで凄まじい勢いで話が展開するんだけど、この酒のんでからの小椋さんが凄くいいんだ。

ルポライターとセイタにいちゃんが W キャストだったのは 2013 年の初演から。ただ当時は小椋さんがルポライターだったバージョン4が演出の仕上がりの質を理由に、上演期間中に中止になってしまい、もうひとつのバージョンのみになってしまったのだそうだ。古山の回顧5によれば、今回の再演にあたって B バージョンのリベンジを提案してきたのは紛れもない小椋さん。できれば両バージョン観たかったのは当然だけれども、回想中に七海を見つめる表情や、酒のんでからの感情の発露は、本当に小椋さんで観られて良かった。客出しのときに伝えたかった。

そして、失意のうちにたどり着いた浪江の家をこんな酔っ払いのよくわかんないおじさんに雨宿りに使われて、最悪の家と言われて、腹の底から怒りを絞り出す七海ちゃん。一言に集約される、そこに本来あった生活を奪われた人の感情。

あるいは、行き先に関する妹の書置きを知りながら、最後まで関係者全員に黙っていた姉。理由を詰問され、一度も海を見たことがない妹が最期に海をみにいくだなんて、そんなの綺麗すぎるから、といって泣き出す。ほんとに嫌になるくらい底意地の悪い台詞だけれど、肉親だっておかしくなってしまえば、こういう感情は持ちうるし、この台詞の隣で並行している別の展開との組み合わせによって、その言葉と場景を焼きつけられ、それらが意味するところを考えつづけながら劇場を出ることになる。

祈りの躍動

この芝居には、セイタにいちゃんだけではなくもう一人、インタビューには現れないビーマン[野口卓磨]という登場人物がいる。中高生のコミュニティなんかに、もしかするといたかもしれない、地域の変質者。都合が悪くなると叫ぶから、叫「ビーマン」6。“災害”が起きる前はある種の被害者的な役回りであった彼(ら)は、大量に生じた新たな“被害者層”によって、その立場さえも奪われて何者でもなくなってしまう。こういった犠牲の上(あるいは下)の犠牲を描いているからこそ、うわべだけではない本当の被災による変容が生々しく板の上に出てくる。

七海ちゃんの異変を察知でき、彼女に本当に共感できたのはビーマンひとりだけなのだ。失踪の日、そんなビーマンに七海は自分のスマートフォンを託す。浪江町津島まで 34.7 キロ、母親の下へ行こうと海辺にたどり着いた彼女は、最後にビーマンに電話をかける。「帰ってくるのか?」という電話口からの彼の問いに、こう答える。

帰らない。そっちに、向かう。

板の上に青白く伸びる一本の照明が、そう応える少女を照らす。逆光。ヘッドフォンを耳にかけた彼女は舞台の奥に向き直り、足踏みを始める。ビートが流れる。奔流の赴くままに躍り続ける少女を上手から見つめる姉は「綺麗すぎる」光景を前に慟哭している。U2 の "California" が大音量で鳴る。『失われた日々は戻ってこない。でも、それでいいじゃないか』

スクリーンに浮かび上がった「死ンデ、イル。」のタイトルが、「生キテ、イル。」に書き換わる。

「新生」に相応しかった片山友希の立ち姿

薄味の貌に陰影が刻まれる瞬間。前下がりの髪で表情が隠れる場面。最後、鼻の下に血糊をべっとりとつけた7ままカーテンコールに出てきた時の、さっぱりとしながらエネルギーに満ち満ちた目。

片山友希、どんな客演だよ。

『死ンデ、イル。』初演は元々、それまで男 5 人だった劇団に心機一転、若手女優を向かえての「新生」モダンスイマーズの旗揚げにあたる公演。その女優は公演終了後に脱退してしまい、再びの模索を経て迎えた生越を加えての 5+1 編成になって、モダンは今に至る。ある意味では新生の出鼻をくじかれた恰好でありながら、当初の公演順とは逆転させた連続再演の総括に、生越ではない全く新しい客演女優を据えた上で、ほぼ新演出でもってきたのが今回の『死ンデ、イル。』だ(他 2 作は細部を除けば普通の“再演”)。

涙が出るとかそういうのではなく、鑑賞後、最後の“躍動”に中てられたかのようにしばらく座席から立ち上がれなかった。3.11 から 7 年、あるいは初演から 5 年を経て、ここで句読点を再演する意義も、外へ向ける彼らの祈りも、ぜんぶここに持ってきたんだな。「死ンデ、イル。」の文字が書き換わった瞬間に、総括ではなく、本当の新生が見えた気がした。

だからこそ、ここで終わってほしくない。3 ヶ月連続でフル尺の、密度の濃い芝居を 3 本も上演すれば、どんな集団でもこうなってしまうだろうことは想像がつく。だけど、この先こそが観たいと強く思った。何年かかってもいい。再びモダンスイマーズで彼らの芝居が観られる日を、ずっと待ち続けます。


日時

  • 開演 2018-07-27 19:00
    • アフターイベントあり
      • 演出家 蓬莱竜太と本編未出演の劇団員 生越千晴による絵本の読み聞かせを下地に展開される、ユウコおばさんの視点から見たサイレントな後日譚。読み聞かせ題材はそれぞれ、蓬莱『くぎのスープ8』、生越『まじょのルマニオさん9』。被災を経た人々への蓬莱の祈りが垣間みえる、あたたかい二つの短編。
  • 東京芸術劇場 シアターイース

  1. 劇団鹿殺し 『キルミーアゲイン』 など。

  2. B バージョン。A バージョンでは古山憲太郎が演じる。

  3. B バージョン。A バージョンでは小椋が演じる。写真中央の金髪のにいちゃんが古山演じるセイタにいちゃん B。

  4. 「こってり小椋」バージョン。

  5. http://www.modernswimmers.com/nextstage/index.html#greeting_furuyama

  6. 私の中学生時代には、握手してくるから「にぎり」と呼ばれている変質者がいた。みなさんのコミュニティにはローカル変質者、いましたか。

  7. 浪江の家でルポライターと取っ組み合ったときに出た血。念のため。

  8. おはなしのたからばこワイド愛蔵版(12) くぎのスープ|全ページ読める|絵本ナビ : 菱木 晃子,スズキ コージ みんなの声・通販

  9. まじょのルマニオさん|全ページ読める|絵本ナビ : 谷口 智則 みんなの声・通販

【再上演】『三文オペラ』 / 演劇・時空の旅シリーズ#8 演出: 永山智行

www.miyazaki-ac.jp


というわけで、2 年前に目の前で急きょ上演中止となったあの芝居が帰ってきた。

劇場付のディレクターの名の下に公演が行われてきたという『時空の旅』シリーズであるが、今回の上演に関しては現在のディレクターではなく、揉めた当時に同職を務めていた前ディレクターによる演出となっている。そもそも 2 年前の“上演”をもってシリーズ完結となるはずだったのであり、今回は特別なエクストラ公演という形に極めて近い。

係争やその後の和解に至る経緯は、ほとんどが公表されていなかったと思う。情報は新聞(あるいはそれに準ずるニュースサイト)等で小出しになっていた可能性はあるが、宮崎県という地方のプロデュース演劇における“炎上”は盛り上がらず、先述の情報の少なさも相まって、延焼する前に忘れ去られたのであろう。ニュース記事の痕跡等は散見されるものの、少なくない量が(数多のニュース記事と同じように)日時の経過に伴って削除されていたりする。

少なくとも判っているのは、演出の方向性に責任を負う立場であるディレクターも、上演直前になって騒動の内容を知ったということである。そのディレクターがフルオケからコンボ向けへのスコアアレンジを指揮していたであろうことは容易に想像できるが、どうもそのアレンジが“強行された”という雰囲気ではなさそうなので、この場合はそもそも上演契約の内容がうまく(?)彼に共有されていなかった、と考えるのが自然か。同一性保持が云々といわれる著作物に対するアレンジが必須の『時空の旅』シリーズにおいて、ディレクターがそのような立場に置かれていたということは、宮崎県立芸術劇場の側に杜撰さや様々な“軽視”があったのではないかという見解になってくる。そして、騒動に発展して以降の劇場の対応から、それらはおそらく事実なのであろうという思いも現実味を帯びるのである。

和解を経て出てきた今回の上演版においては(おいても)、騒動の焦点になっていたスコアのコンボアレンジはしっかり行われていた。役者だけでもおそらく 40 名以上はいたと思われる今回の座組が、2 年前とそっくり同じというわけではないであろうし、裏方に関しては実際に少々クレジットが変わっていたように思う。そのように、騒動に揉まれたことによる時間的/人的に不可逆な変容はあったものの、コンボアレンジが保持されていることから企画の大元のコンセプトは維持されたと考えられる。よって、当初やりたかったことはほぼ今回の上演台本に収まっていたのではないだろうか。


  • 演出アレンジの肝であったコンボ演奏については、ウワモノとしてのギターが良かった。

    • まさに本戯曲の "Moritat(=Mack the Knife)" がそうであるように Weill の楽曲はジャズスタンダード化された曲が多く、テーマの旋律とコードをピックアップしてしまえば、あとはミュージシャンの一存でいくらでも良くなるのだということが改めて浮き彫りになる。
  • 歌唱パートを持つメインの女優 3 人は三者三様。

    • ポリー役の多田香織は、昭和アイドル歌謡系プロデュースが上手くハマっていた。雰囲気もどことなく長野里美を髣髴とさせる。

    • ポリーの母、シーリアを演じる榮田佳子は『セックスの虜のバラード』でのドラムデュオがずば抜けて良かった。笛でコンボ演奏に混ざることもあり、その音楽的素養の強さが、フリーな感覚に溢れるドラムデュオを成立し得たようだ。

    • 娼婦のジェニーであるかみもと千春は、多田とは別方向の歌謡をハスキーボイスで纏める。

  • 台詞の端々に擬音が多く、同じディレクターによる 『ゴドーを待ちながら』 のチェロ同様、その存在がテンポを躓かせるように感じた。敢えてそういう作用を狙っているのだろうか。

  • 役者の仕上がりに大きなレンジを感じたのは、地方演劇故か。

    • 怪演/怪優といった言葉がパンフレットにおいても見られたが、単純に演技に問題があるだけのケースも少なくないように思う。

    • 座組は九州の、あるいは九州出身の演劇人で固められており、キャリアの差が実力の差になっている感じもある。

  • ラストの、ある登場人物に関する定められた生/死の転換は、Brecht の原作にもあるようだ。

    • ただし元々は「悪事がこんなにも過酷に罰されることはない、何故なら人生そのものが充分に過酷だからだ」といったどこかシニカルなオチとして着地するためのそれは、「誰も死ぬな!みんな生きろ!」というシュプレヒコールへと書き換えられている。このアレンジには良くも悪くも時代っぽいなという感じを受けたが、同時に、騒動を経てのディレクター乃至は座組からのメッセージをも代弁しうるような文脈を表出してもいた。

      • もし今回のラストが Brecht のシニカルさを残した台本だったならば、それはそれで自虐にも程があるだろうと感じたかもしれない。

      • 捌け方は『ビー・ヒア・ナウ』だったな、と思った。


総括。良かったと思えるパートが散見され、その多くは演出が意図したアレンジに沿って生まれたものだったように感じる。この演出による『三文オペラ』が世に出る為に尽力した関係者各位の奔走が報われて、本当に何より。そもそも、あらゆる解釈、あらゆるアレンジが、自由に世に出なければならないはずで、これは出来/不出来の問題ではないのだが。

そして今回、製作側の法務サポートに回り和解および上演に貢献された、骨董通り法律事務所の福井健策弁護士が観客の中にいた。一観客でありながら、彼もまた(岡本弁護士と共に)本上演を作り上げた座組の一人である。

twitter.com


参考
情報

【再鑑賞】『夢と希望の先』 / 月刊「根本宗子」第13号

あらすじ

初回のほうに書いてある。

cobayahi.hatenablog.com

可逆的な再鑑賞性が必要であるという主張

  • BS スカパー! STAGE LEGEND NEXT での録画放送で観た。視点は制限されるが、顔のアップなど、良い部分もある。

    • 生モノは、本当にその場きりの上演だとその時の自身とのマッチングでしか感想などを抱けないので、後に見返してどう印象が変化したか、といったフィードバックが無い。これはとても勿体ないことだと思う。

      • それ以前に、良い芝居がその時チケットを取ることのできた観客の間にしか共有されないという状況1そのものが、おそろしく勿体ない2

再鑑賞して

なお、リメイク前の『夢も希望もなく。』は未鑑賞。

さっちゃんのセクシーカレー
  • 『夢と希望の先』クライマックスで使用される大森靖子の楽曲であり、初演(正確には原作)『夢も希望もなく。』の 1 年後にリリースされている。詞に『夢も希望もなく。』とリンクする感覚を得たという根本のインタビュー、ならびに「観たい終盤のカットから逆算して芝居を組み上げていく」ことがあるという彼女の作劇手法をどこかで読んだ記憶があるから、おそらくリメイクの軸はこの楽曲と、それを上手・下手を超越した時間軸で歌唱する幼馴染の友人、という画作りが念頭にあって、そこから初演との差分が組み立てられていったのではないか。

    • 主役の名前が、楽曲の登場人物に合わせて「ちひろ」から「幸子(さっちゃん)」に変更されている。

    • えつこ(えっちゃん)の属性が、看護師志望からミュージシャン志望に変更されている。

    • 上手でも下手でもない第三の舞台、すなわち舞台美術の 2 階部分であるえっちゃんの実家の軒先、はおそらくリメイクで追加された構造と思われる。脚本の必然性やえっちゃんの属性変更から考えると、えっちゃんの姉貴もリメイク前には居ない可能性すらある。

  • トライアングルのように分割された上手・下手、そして 2 階という画の先に作り得るのは、時空の“壁”を突き破るように出てくるお立ち台のラストシーンでしか有り得なく、ひいては後述するタイトル変更にもつながっていくのかもしれない。

タイトル変更
  • リメイクに際して芝居のタイトルがポジティブになってはいるが、幸子の状況は芝居の終盤で人生どん底そのものであり、相変わらず夢も希望もない。

  • 同じく芝居の終盤、ゆうちゃんのために変わらんとまず髪を「ゆうちゃん色に」染めようとするさっちゃんから見えるヴィジョンは、夢と希望の先。まさに目と鼻の先、上手の部屋に、ゆうちゃんにキ○○イとも揶揄されるババアのさっちゃんが顕現するのだが。

    • リメイクに際して、終盤の力点が 10 年前の「さっちゃん」側にシフトしたという状態をタイトルにフィードバックしたのだとすれば、タイトル変更も、〆を橋本愛が行う意味も、半ば強引に持っていくラストカットにも、現実感が出てくる。
〆のさっちゃん、橋本愛、そしてミュージカル

きっとこれは、ババアの私の妄想だけど、
でも、良いイメージを持って前に進むために必要なアタマのおかしい妄想なら、
この先いくらしたってかまわない。
だって、この物語はここで終わりだけど、
私の人生はこの先、何年も、何十年も続くんだから。
ならば、今こそ、今を生き抜くアタマのおかしい妄想をするのだ!

初めてラストの橋本愛のこの台詞を聞いたときは、エッと思った。ここまで展開してきて最後にぶっ飛ばした妄想オチかと。

しかし終盤の力点が 10 年前のさっちゃん側にぐっと引き寄せられる展開をかえりみるに、未来からの干渉は、10 年前の、というより彼女を基準とするならばむしろ「現在」のさっちゃんが取りうる選択に影響を及ぼしうる、ガイドラインのひとつとしてしか機能しえない気もしてくる。

例えばデミアン・チャゼルが『LA LA LAND』のラストで描いた、ピアノ弾きのおじさんが妄想する「選択によっては有り得たかもしれない未来、あるいは並行する現在」は、「夢も現実で、どっちも本当」であり「それがミュージカルの力だ」として、その夢現な重ね合わせの状態を肯定したものだという3

さっちゃんが上記の台詞を声高に叫ぶ後ろでは、ゆうちゃんもアンナも、幸子も優一もその浮気相手も、高知に帰るはずのキ〇〇イ隣人も、そのほか全員がそろってミュージカル『アニー』の『Tomorrow』を合唱している。幸子役の根本はむしろバックグラウンドのコーラスの一部に溶け込み、お立ち台に凛と立つ橋本愛を引き立てる側に回っている。

妄想オチだと思って観ていた時も、ババアになった未来の自分に向けて語りかけるさっちゃんの、

あなたが後悔してるところ全部、私がやり直してくるから

という台詞には物凄く引き込まれるものを感じたし、それこそ幸子の「頼んだよ」という返答にも、鑑賞者の回答を代弁しうる勢いがあった。

さっちゃんが良いイメージを持てば、えっちゃんも帰ってくるし未来は変わる。ゆうちゃんも変われるかもしれない。

初の本多を踏むにあたってこの結末を取った意味が 2 年経っての再鑑賞でようやく、肯定的に見えるようになってきた4。ソフト化は大事ですね。

まとめ

橋本愛にはたいへんな説得力があり5、得がたい立ち姿のある無二の役者です。

ババアのさっちゃんはこれからどうするのか

うら若き幸子のこれから先は置いておいて、ババアのさっちゃんも、この先を生きていかなければいけない。

先ずは相棒のパクリみたいなドラマ「刑事、荻野!」で出世した小倉さん[演:鈴木智久]に、取りあえずコンタクトしてみてほしい。


  1. 現実的な問題としては、使用した劇伴等を TV 放送で公衆に送信したり、DVD などのメディアとして頒布する際に、新たな権利関係の課題(主に金銭)が現出するために生じると考えられる。

  2. 根本宗子の演劇だと例えば 『スーパーストライク』 なんかは、(ミュージカル楽曲を多用しているせいか)放送やメディア化は厳しいだろうという旨の話が本人の口から語られている(ロフトプラスワンでの上演会において)。

  3. 町山智浩の映画ムダ話 #43」あたりを聴け。

  4. もちろん我々は橋本愛ではない上、多くの人間の生は芝居ではないことは肝に銘じておく必要がある。

  5. 真髄はえっちゃんとの最後の口喧嘩のシーンと、“さっちゃんのセクシーカレー”間奏での「好き」連呼で、このあたりは声、表情、角度に至るまで、ジレンマを引きずりながら舵を切ってしまう切実さがこれでもかというほどに迫ってくる。隣でラジカセを前に泣き崩れる根本との対比もあって。

『悲しみよ、消えないでくれ』 / モダンスイマーズ 句読点三部作連続上演

山よ。

句読点三部作

『死ンデ、イル。』
『悲しみよ、消えないでくれ』
『嗚呼いま、だから愛。』
句読点三部作連続上演
『嗚呼いま、だから愛。』
  • 2018-04-19 → 2018-04-29
『悲しみよ、消えないでくれ』
  • 2018-06-07 → 2018-06-17
『死ンデ、イル。』
  • 2018-07-20 → 2018-07-29

悲しみよ、消えないでくれ 東京芸術劇場www.geigeki.jp

キャストをほぼ維持した再演

連続公演の負荷分散のためか再演に際して、モダンスイマーズ劇団員に関しては(主宰と古山を除いて)代役を充てた“お休み”作品が存在する。本作ではかつて津村知与支が演じていた役を岩瀬亮が代演1

キャストが維持されているからこそ、演技や演出における差異が浮き上がって見えた。むしろ、そのような座組による“再解釈”そのものをひとつの目的としていたように思える。

特に大きく変わったなと思ったのは、キャストが交代した友之と、主要登場人物といえる 3 人、すなわち忠男、梢、寛治。

友之[演:津村知与支→岩瀬亮]

サイコになってた。

津村の演じていた友之は、頼りない素面と暴力の出る酩酊との間のコントラストにコメディタッチな差分が出ていて、特に酔っぱらったときの荒れ具合においては、シーンそのものは緊迫した痴話喧嘩ではあるものの、笑いとペーソスが支配的だった。

岩瀬の友之は、なんか怖い。本当にいるとすれば、友之はどちらかというとこっちなんだろうなとも思う。暴力に刃物を装備してきそうというか。そうでもしないと陽菜に立ち向かえない弱さも持っていそうな、その生々しさとか。スナック菓子の袋を放り投げた瞬間のゾッとする感覚は、津村の友之には無かった。でも、この友之だからこそ終盤の忠男への同情や、この山小屋の異常な状況に気付く一般人(あるいは健常人)としての視点を彼だけが取り戻す瞬間に、らしい説得力が出ていた。生々しい芝居における最も生々しい存在というか。ほかの登場人物のある種異常な人間臭さとは異質。

この役を代えてきたのは面白かった。岩瀬亮、良かったです。

忠男[演:古山憲太郎

演技から、わざとらしさが抜けたなと思った。コントラストが落ちたようにも見える。それがすごく良かった。

災害をテーマにしているという側面や、初演時の雰囲気あるいは句読点三部作の上演意義とかを考えれば、役者は“事実”に負けまいと、りきんでしまうことがあったのではないかと思う。それは時に芝居がかりすぎた演技を誘発する。初演の忠男のクネクネした感じとか、怒りに曝されたときのふるふる震える感じとか、あの小動物感とか。それらは芝居がシリアスになりすぎないための雰囲気づくりに買っていたとは思うし、実際あの演技は絶妙に啜り笑いが出る感じで、初演の解釈も決して嫌いではない。

あれから 3 年経って再びこの作品に向き合ったときに、例えば 3.11 からもだいぶ時間が経ったとか、災害を取材する芝居において実は役者はどうあるべきだったかみたいなことに、おそらく座組全体としても役者個人としても、真摯に向き合い直したのだと思う。その結果としてか演技のコントラストを落としていたのは、良い方向に動いていた。

本当に俺だけがダメなんですか、っていう台詞に情けなさのような含みは無くなっていて、問いかけとして、きわめて純粋に切実だった。芝居のテーマが強化されたなと思った。

梢[演:生越千晴]

意識の向けかたや方向修正の基本は、忠男(古山)と同様のアプローチだったのではないかと思う。

初演の梢はもっと冷たい印象を受けた。凛としているというか。今回は、ろくに山を下りたことのない、まだ世間をよくわかっていない雰囲気を湛えていたような気がする。もともと初演でも梢はそういう人間だったはずだけど、この感覚は再演になってようやく入ってきた?やはり自然な方向に近づいていったのかな。

その結果として、最後に一葉のことを語る際に、初演では感情を表に出さないように頑なになっていたような声が、再演では震えていたのかなと思った。ああいうときの人間の感情を素直にトレース(?)しようとすれば、普通は感情が溢れてくるはずだ。自分でもどう扱ったらいいのかわからないその感情の奔流を持て余している感じが、それでも山を下りることを決断している自分への戸惑いと綯い交ぜになっているようで、非常に良い再解釈だなと思った。

凛とした決意をもって山を下りていく梢も好きだったけど。芝居くささを抜いた忠男に沿う切り口として適切なのは、こっちだなあ。

寛治[演:でんでん]

これは寛治単体というよりも、最後の山小屋の演出と絡めて。

初演では、寛治以外の全員が山を下りた後、取り残された寛治の感情を顕すかのように舞台が暗転する。凄まじい破壊音と共に山小屋セットの梁がおっこちて、頽れた山小屋の後ろには白馬尾根の吹雪、その吹雪を背景として、被さるように座り佇む寛治の影、みたいなセンセーショナルなラストシーンだった。

今回は全く違った。取り残された寛治はストーブ脇の椅子に座り、そこに電球色の照明(おそらく朝陽)が差し込んでくる。遠くをみつめる寛治の上、頽れもしない山小屋の天井から、しんしんと雪が降ってきた。愕然とした。それこそ初演と寸分も違わないような、緻密なあの山小屋が目の前に帰ってきていたから、当然あのギミックも仕込まれているものだと思い込んでいた。

でも、この方向修正もやはり再演の方向性に寄り添っていて。寛治の独善的な“悼み”の感情の根底にあるのは、一葉(の死)を皆に忘れてほしくはないというある種のエゴであろうから、梢でも、忠男でも、あるいはほかの誰でもいいから、一葉を知る人物がまたこの山小屋に帰ってきてほしいと願っているはず。だから、ショックのあまり山小屋が壊れてしまうような自己破壊的な画づくりでなはく、再び自分の感情を共有したい(独善的に押し付けたい…)相手の帰りを待つような画になったのではないかな、と考えた。寛治は忠男に帰ってきてほしいから、「行かないでくれ」と最後に声をかけるのだ2

このラストに至るまでの台詞におそらく有意な変更はないし、ラストシーンにはそもそも台詞が存在しないから、台本に書かれている文字は全く同じでも演出ひとつで鑑賞者に与える印象がここまで変わるんだという、これ以上ないケースになっていて。こういう再演が観たかった。すごく良かった3


出演

  • 古山憲太郎:忠男(土砂災害で婚約者の一葉を亡くした男)
  • 西條義将:清一郎(忠男の山岳部時代の先輩)
  • 今藤洋子:ゆり子(清一郎の妻、忠男の山岳部時代の仲間)
  • 小椋毅:紺野(忠男の山岳部時代の仲間、窓拭き詩人)
  • 伊東沙保:陽菜(麓の荷揚げ屋)
  • 岩瀬亮:友之(陽菜の旦那)
  • 生越千晴:梢(一葉の妹、寛治の次女)
  • でんでん:寛治(山小屋のホスト、一葉と梢の父)

日時


  1. 同じくキャストをほぼ維持した『嗚呼いま、だから愛。』では小椋毅→小林竜樹に交代。『死ンデ、イル。』では生越の出演がない。

  2. あるいは、忠男に『贈る言葉』を歌うのだ。

  3. すごく良かったし、この再演を観てから、『嗚呼いま、だから愛。』の再演も観ておけばよかったのではないかと少しだけ後悔したりもした。