公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

【再上演】『三文オペラ』 / 演劇・時空の旅シリーズ#8 演出: 永山智行

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というわけで、2 年前に目の前で急きょ上演中止となったあの芝居が帰ってきた。

劇場付のディレクターの名の下に公演が行われてきたという『時空の旅』シリーズであるが、今回の上演に関しては現在のディレクターではなく、揉めた当時に同職を務めていた前ディレクターによる演出となっている。そもそも 2 年前の“上演”をもってシリーズ完結となるはずだったのであり、今回は特別なエクストラ公演という形に極めて近い。

係争やその後の和解に至る経緯は、ほとんどが公表されていなかったと思う。情報は新聞(あるいはそれに準ずるニュースサイト)等で小出しになっていた可能性はあるが、宮崎県という地方のプロデュース演劇における“炎上”は盛り上がらず、先述の情報の少なさも相まって、延焼する前に忘れ去られたのであろう。ニュース記事の痕跡等は散見されるものの、少なくない量が(数多のニュース記事と同じように)日時の経過に伴って削除されていたりする。

少なくとも判っているのは、演出の方向性に責任を負う立場であるディレクターも、上演直前になって騒動の内容を知ったということである。そのディレクターがフルオケからコンボ向けへのスコアアレンジを指揮していたであろうことは容易に想像できるが、どうもそのアレンジが“強行された”という雰囲気ではなさそうなので、この場合はそもそも上演契約の内容がうまく(?)彼に共有されていなかった、と考えるのが自然か。同一性保持が云々といわれる著作物に対するアレンジが必須の『時空の旅』シリーズにおいて、ディレクターがそのような立場に置かれていたということは、宮崎県立芸術劇場の側に杜撰さや様々な“軽視”があったのではないかという見解になってくる。そして、騒動に発展して以降の劇場の対応から、それらはおそらく事実なのであろうという思いも現実味を帯びるのである。

和解を経て出てきた今回の上演版においては(おいても)、騒動の焦点になっていたスコアのコンボアレンジはしっかり行われていた。役者だけでもおそらく 40 名以上はいたと思われる今回の座組が、2 年前とそっくり同じというわけではないであろうし、裏方に関しては実際に少々クレジットが変わっていたように思う。そのように、騒動に揉まれたことによる時間的/人的に不可逆な変容はあったものの、コンボアレンジが保持されていることから企画の大元のコンセプトは維持されたと考えられる。よって、当初やりたかったことはほぼ今回の上演台本に収まっていたのではないだろうか。


  • 演出アレンジの肝であったコンボ演奏については、ウワモノとしてのギターが良かった。

    • まさに本戯曲の "Moritat(=Mack the Knife)" がそうであるように Weill の楽曲はジャズスタンダード化された曲が多く、テーマの旋律とコードをピックアップしてしまえば、あとはミュージシャンの一存でいくらでも良くなるのだということが改めて浮き彫りになる。
  • 歌唱パートを持つメインの女優 3 人は三者三様。

    • ポリー役の多田香織は、昭和アイドル歌謡系プロデュースが上手くハマっていた。雰囲気もどことなく長野里美を髣髴とさせる。

    • ポリーの母、シーリアを演じる榮田佳子は『セックスの虜のバラード』でのドラムデュオがずば抜けて良かった。笛でコンボ演奏に混ざることもあり、その音楽的素養の強さが、フリーな感覚に溢れるドラムデュオを成立し得たようだ。

    • 娼婦のジェニーであるかみもと千春は、多田とは別方向の歌謡をハスキーボイスで纏める。

  • 台詞の端々に擬音が多く、同じディレクターによる 『ゴドーを待ちながら』 のチェロ同様、その存在がテンポを躓かせるように感じた。敢えてそういう作用を狙っているのだろうか。

  • 役者の仕上がりに大きなレンジを感じたのは、地方演劇故か。

    • 怪演/怪優といった言葉がパンフレットにおいても見られたが、単純に演技に問題があるだけのケースも少なくないように思う。

    • 座組は九州の、あるいは九州出身の演劇人で固められており、キャリアの差が実力の差になっている感じもある。

  • ラストの、ある登場人物に関する定められた生/死の転換は、Brecht の原作にもあるようだ。

    • ただし元々は「悪事がこんなにも過酷に罰されることはない、何故なら人生そのものが充分に過酷だからだ」といったどこかシニカルなオチとして着地するためのそれは、「誰も死ぬな!みんな生きろ!」というシュプレヒコールへと書き換えられている。このアレンジには良くも悪くも時代っぽいなという感じを受けたが、同時に、騒動を経てのディレクター乃至は座組からのメッセージをも代弁しうるような文脈を表出してもいた。

      • もし今回のラストが Brecht のシニカルさを残した台本だったならば、それはそれで自虐にも程があるだろうと感じたかもしれない。

      • 捌け方は『ビー・ヒア・ナウ』だったな、と思った。


総括。良かったと思えるパートが散見され、その多くは演出が意図したアレンジに沿って生まれたものだったように感じる。この演出による『三文オペラ』が世に出る為に尽力した関係者各位の奔走が報われて、本当に何より。そもそも、あらゆる解釈、あらゆるアレンジが、自由に世に出なければならないはずで、これは出来/不出来の問題ではないのだが。

そして今回、製作側の法務サポートに回り和解および上演に貢献された、骨董通り法律事務所の福井健策弁護士が観客の中にいた。一観客でありながら、彼もまた(岡本弁護士と共に)本上演を作り上げた座組の一人である。

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