公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

ブランニューオペレッタ『Cape jasmine』 / 演出: 根本宗子

くちなし、の花言葉


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『もっとも大いなる愛へ』 を観ていたか否かで捉えかたかが変わったりするんだろうか。とはいえ自分は観た側であって、どうしてもそこで中てられたものがついて回るから、真っ新な状態でこれを観たときの感情の想像のしようはない。

もちろん『もっとも~』においても言語を介さないコミュニケーション、たとえば抱きしめたり手を握ったりするというオプションを提示していたように、非言語的な選択肢も当時から劇中でじゅうぶん考慮の範囲にあった。とはいえ主人公、特に伊藤万理華の側がどうしても言葉に依拠してしまう性質の人間だったということもあり、始終かなり言葉を紡ぐ側に歩み寄った内容だったと受け取るし、あのあと彼女が本多劇場を後にしてボーイスカウトの「彼」に会いに行くときに、まず非言語よりは先に言葉でぶつかりにいくんだろうなという気はする。

対して『ケープ・ジャスミン』の側だと、『もっとも~』の脳内シミュレーションで主人公(たち)が採りたくても採れなかったオプション=非言語のほうを最後に行使してコミュニケーションがもう少しだけ持続するような結末だったこともあって、その「言葉のない時間を一緒に過ごす」提案の前に現状の吐露を言語で散々やりはしていたにせよ、リリックのないエンディングテーマも相まって非言語コミュニケーションに振ったまとめだなと感じた。

ただこれらの結末だったりそこでの言語/非言語の採択だったりを「対照的」と対比できるかというと、前作でも沈黙の裏で高速に流れているモノローグが示していたように、表出している状況に言葉が介在していようが不在であろうがそこに思考と感覚は根を張っている。すなわち言語と非言語は(字句の上では「非ず」があてがわれているとはいえ)同じ平面上にはあれど異なる成分であって、直交していようとも決して軸の正負ではないはずなんだけど。

加えて非言語オプションの行使をプロットの結末に明示的に組み込んだ今回、話の上では感覚的なコミュニケーションをラストに引っ張ってきつつ、それが逆に説明的だったんじゃないかということも思う。この説明的である、というのは言語/非言語というよりきっと、意味指向かそうでないかという別の扱いかたをするべきだろう。

昨今、特にコロナ禍が一過性のものではなくなってきたことに世間が向き合い始めた今年中盤以降、フォローしていた複数の創作関係者が「時世のせいか受け手が(より)わかりやすいものを好むようになった」ということを言っている(根本もどこかで似たようなことを言っていた気もするけど定かでない)。あるいはここ一年の世相を(特に政治や行政の面で)賑わせた、何かに対して「非」であること、ないし「反」であることもこれに近くて、何らかの存在を前提にしつつそれに対して否定を貫くことでアイデンティティを充足することがいかに容易かったか。そして集団としての感情のうねりがこれら単純・容易なスタンスを採りがちな傾向に今なお拍車をかけているであろうことも感じ取れる。

そう考えると、前作の延長線上にありそうな選択を「言葉のありなし」という言葉で明確に示している本作は、物事の二項化だったり意味づけ、あるいはそのためのガイドラインの付与だったりをしつつテーマを引き継ぎ、扱い直した作品としての印象がやはり強い。そこに、本来こういうアプローチを探るにあたって行う、直交する言語-非言語の複素平面をぐるぐる回転するような思索過程(『もっとも~』劇中の主人公、あるいはそこから本作に至るまでの実時間の流れにおける根本自身が、それをやり抜いてきたのであろうことは想像したうえで)のすっ飛ばしというか、今作だけで考えたときに平面から軸線にひとつ次元を下げたような感じを受けたというか。だとすると慢性化する逼塞の中での表現の未来ってかなり暗澹としてくるんじゃないか。

「選択が意味づけされていてかつ取れる選択肢が非常に少なくて済む状態、でないと何もできなくなってしまう人」がそれこそ本作終盤にでてきて、あれは今の逼塞を生きる人の一側面なんだろうというのは理解できるし、その生きづらさを否定することもできない。ただ、ああいった具体化による共感性具現みたいなのも、意味指向のひとつの射影である気がしていて、『もっとも~』にて「宇宙人」とも形容されたデリケートな重層性みたいなものは、もしかするともうしばらく、あるいは二度と必要とされなくなるのかもしれない。その不可逆性をもってなお、創作は、世界は、「元に戻」る?


  • 鑑賞(劇場にて) 2021-10-06 18:30
  • 鑑賞(配信にて) 2021-12-05
  • 日本青年館ホール