『Wicked (ウィキッド ふたりの魔女)』 / 監督: Jon M. Chu
今年のアカデミー賞レースにおいては、ノミネート作品における多様性の表象が下馬評のトピックの重きを占めていたように思う1。もちろん本作『ウィキッド ふたりの魔女』にもその要素は多分に、いや寧ろ他作品よりもふんだんに散りばめられていた気もするのだけれど、鑑賞中は奇しくも邦題のとおり、「ふたりの魔女」間のポジショナリティの話としてこの映画を観ていた。
例えば現実、職場においてまさにポジショナリティの網に絡め取られそうになっている。職責による自らの立ち位置を意識しても、相手側が異なる力場としてしかそれを捉えることしかできない場合(これ自体がその組織のかかえる潜在的な課題を暗示していることも多いと思う2)、コミュニケーションの糸が絡まる。AI との対話においてすらも、同じ初期値をインプットしたとして、その後複数回の指示や誘導しだいで対照的な見解を出力することを知っている。ポジションや、そこから発せられる言葉選びの微妙なゆらぎ…常に不確かなコミュニケーションチェーンの連環。これによって絶えず変化し続ける個人の情緒と情緒とのはざまに、われわれは生きている。
例えば劇中、寓話化された学園であればコミュニケーションはより幼稚で具象的になる。悪意のあるなしに関わらず(ガリンダの場合、多くの行動は後者に基づいているように見える)、緑色の肌という被差別の表象を背負ったエルファバへと向かう社会的な斥力。それでいて、その渦中、ガリンダとエルファバが互いの生理的嫌悪を歌うデュエット "What Is This Feeling?" のイントロにて、エルファバにはエルファバの、おそらくこちらも内在化されていたレイシズム的差別感情が表出する("Blonde.")。しかしながらここが相互嫌悪のピーク、以降は他者を介したコミュニケーションの伝達ゆらぎをきっかけに、ふたりは急速に友人として心を通わせていくようになる。
好-悪、強-弱、善-悪。すべてはベースとなる場によっていくらでもゆらぎ、力の勾配はいかようにも変わり、時に反転する。ふたりの、ひいては人の帰結ともいえる生死のゆくえは本作の最冒頭に示されている通りだ。エルファバの社会的弱者としての文脈はどのように喪われていくのか。あるいは、スクールカーストの上では強者に分類されるであろうグリンダのこれから辿る道程は。
実はまだ第二幕の内容を全く知らない状態でこれを書いている。物語の結末を確認したいのならば、(7 月終演かつ楽日までのチケットは連日ソールドアウトと、実際に取るには至難を極めるのだが)今すぐ四季版を観に行けばいいのかもしれない。が、そこに興味は全くといっていいほど湧いていない。つまり、観たいのはジョン・M・チュウのミュージカル映画『Wicked』のパート 2 であって、きっと舞台版、特に訳詞の乗った日本語版ではないということだ。
文学等の翻訳の難儀さやその作業には敬意を持っている3。特にミュージカルの場合、メロディと切り離せないはずの詞を旋律から引き剥がし、翻訳という解体を挟んで再び癒合させるというプロセスは、言語の違いによる音節構造の非互換性といった技術制限等も含めると途方もなく困難であることは知っている。が、その苦労を知ったとて、その「訳詞ミュージカル」が自分の中で成立するかどうかは別の問題だ。より直截的に言ってしまえば、四季版のサウンドトラックや(四季版を底本のひとつにしているであろう)本作の日本語吹替版予告を聴いた限りではノれなかった。同様に原語版ミュージカルのサウンドを聴いたときにも似たようなノれなさを感じていて、それはメインキャストの過剰なレイドバックであったり、映画版よりも規模の小さなオーケストラによる演奏であったり。たとえそれらに舞台上で「一回性のオーラ」という魔法がかかるのであったとしても、である(そして往々にして魔法はかかる)。
これはおそらく…いや間違いなく、舞台版とは比べものにならないであろう途方もなく遠大な工期や予算に支えられた美術、80 人規模4のフルオーケストラによる演奏(とその音を余す所なく収めた音響技術、それを引き出せる映画館設備!)、振付の妙や演技の機微を切り取った撮影、そしてそういった裏方の技術にこれ以上なく応えきっている主演ふたりをはじめとした役者陣による、別種の魔法がかかっている。というより、観ている自分が魔法に「かけられて」いる。ミュージカルからさらにひと段階アダプテーションをかけた「ミュージカル映画」として、更に横断性を増し密結合した総合芸術の塊が目の前に顕れたとき、台本的・シナリオ的展開には依らない、ただただ表現としての圧倒的なパフォーマンスに中てられて、じんわりと涙する。普段そうそう味わうことのない低頻度なこの種の感動が、この第一幕のみで一度と言わず押し寄せてくるのだから、魔法へのかかりかたは半端なものではない。
この魔法にかかるか、すなわち眼前の芸術が成立するかどうかは、受容者当人のナラティブに依存している(し、自らもその例外では決してない)ことに、おそらくわれわれは自覚的であり続けないといけない。魔法にかけられている状態の自認もまた自己相対化、ポジション考だ。パート 1 最終盤でのエルファバとグリンダの各々の選択において、冷静に相対化を選んだのはグリンダのように見える。エルファバとの個人間に対しての、あるいは学園やエメラルドシティという社会においての自身の位置づけを彼の状況で現実的に認識し得たのは、ドラマの盛り上がりの主役である友人ではなく、後に「善き魔女」として絶対視される彼女である。倫理的にはまだ未熟さも残っているグリンダが、どのように善性のアイコンに変容するのか。相対化で得られた最終的なその立場は、彼女の本意となったのだろうか。
そんなグリンダを演じるアリアナ・グランデ、もといアリアナ・グランデ=ブテーラにすっかり魅せられてしまっている。ミュージカル愛という自身のルーツ・ナラティブを歌唱技術の再習得まで経て昇華しきる彼女には、善性や倫理の象徴へと変化する最中にあるグリンダとは対照的な熱性がある。受容者である私などとは比にならないほど Wicked の魔法にかけられてみたのは、彼女なのではないだろうか。
技術の、ペルソナの切り替えではなく、幼い頃かけられたことのある魔法に再び触れたとき、アリアナ・グランデという魔法が解けた。シンシア・エリヴォのパフォーマンスも言うまでもなく!なのだが、アリアナ・グランデ=ブテーラという当人の生来持っていた魂から、オタク的な精神とそこからの作品への愛情が垣間見えて、それが報われている瞬間が見られたこと。
ここがおそらくこの映画で私の愛すべきな、最も素敵な出来事なのだ。
- 本質的に多様性そのものを問うていて、かつ非常に面白く観れた『教皇選挙』にあまり受賞の光が当たらなかったのは、当該作における多様性が表象的トピックというよりはトリックであったこと、すなわちネタの根幹に関わる部分だったからではないか、と邪推してもいる。↩
- 職責は給与と不可分である。とはいえ、職の責を意識し気を遣ったつもりのこちらからのコミュニケーションを、相関はしているがその時の議論のベースではないはずの給与勾配論に還元して返されたときの諦観たるや。かといって例えばここで「還元」を「矮小化」と表現することは相手の、給与構造への目下の無力感を蔑ろにすることになるかもしれない。そうなってしまうと組織に対する自分のポジショナリティ考は他者性を喪うのではないか。…この手の問いに果てはなく、とてもではないが生真面目に相対し続けるとそのうち、通常のコミュニケーションを回せなくなり(自分が)潰れてしまわないか、という疲労すら出てきている。…という話がある。↩
- オリジナル作品を読む気にはどうしてもなれない村上春樹についても、彼の翻訳家としての一面はリスペクトしている。↩
- The Wicked Film Features an 80-Member Orchestra—And the Full Overture | Playbill↩
『雨とベンツと国道と私』 / モダンスイマーズ
オンラインで済むかもしれなかった客先への説明を実際に顔を合わせてしに行く必要を感じて県をまたいだ出張の帰り、「不機嫌ハラスメント」という特集をやっているワイドショーを、レンタカーのテレビからぼんやりと聞いていた。
言葉にするとパワハラになるからということで言語を封じられてしまった上司の非言語的なリアクション(溜め息など)も、この新たに定義されたハラスメントの上では加害になりうるといったような内容であったが、ここまでハラスメントを「作り込まれて」しまうと、指導する側も指導を受ける機会を与えられるべき側も早晩なにもできなくなる時がくるのではないか(というよりはもう来てしまったのではないか)という考えの方が先に来たのは、どちらかといえば人嫌いの側に間違いなくいるであろう自認のある自分にとっても意外ではあった。
意外であったとはいえ、対面でのコミュニケーションの効果を考えて今週の仕事を出張に切り替えたのも自らであり、演劇や映画で人!人間!人間関係!のようなものを毎週のように摂取し、時にはひどく食らったりするのもまた自らである。人生を回すためにはコミュニケーションを代謝しなければならない。あるいは武装といってもいいかもしれない。そういった代謝/武装に自覚的であるからこそ、職種の選択において外を向いたものを好き嫌いや気質に依らずに志向しているのであろうし(なによりその方が金をもらえて演劇や映画にも還元できるのである…)、言葉やコミュニケーションの善性を信じていたい。
「不機嫌ハラスメント」を規定していたのが、どちらかといえば本業でコミュニケーションを研究しているような人間らで、彼らが紋切り型のワイドショーにそんなものをポンポン放り込んでいくのに湿っぽい陰鬱さを超えた荒涼を感じてしまったのも、それ故である。
『彼らは世界をどうしたいのか。』
隣の若い観客が初めて啜り泣きを漏らしていたのが、六甲(=坂根)の独白、彼が自分の起こしたハラスメントによって映画監督という仕事を失い、身の丈に合わない貰いもののベンツで夜の国道を彷徨う中で「死にたくはない、しかし生きていたいわけでもない」とつぶやいたところだった。そこで意識がそっちに逸れた。遅行的な感情の表出というのは有り得るし、坂根の常習的な恫喝や暴力はその前から五味の視点等で描かれていたから、坂根=六甲を見るだけで何かがフラッシュバックするという可能性も無くはない。しかしどちらかといえばそういったハラスメントに曝される側であろう世代が、坂根の独白で涙した可能性に思考を持っていかれたのである。もしそうなら、例えば若者は坂根の閉塞を受け容れたのだろうか。世代(あるいは層)間の分かりあえなさを演劇が伝えることができたのか。
コミュニケーションとは分かりあうためのものではないと思っている。他人は別人であって、分かりようがない。その齟齬を少しでも解消するために我々はコミュニケーションとその方法に対して努めて研鑽しつづけなければならないはずで、ギャップを暴力で埋めようとするのは論外だが、その尤もな運用方法について学ぶ機会も与えられずに全てをいきなり取り上げるだけならば、その先に待っているのは社会の、国の、世界の自壊でしかない。
だからこそ、最後の泥酔した五味の爆発は、昨日の素面の自分の鏡像たりえた。会社の飲み会というのもまたどうしようもないもので、しかしそれしかツールが無いカルチャーが存在するのも事実である。3 年間のパンデミックはそれを不連続に切断してみせたのだけれども、果たしてそれで人が変われたのかといえば、今週末の池袋を、渋谷を、浅草をみれば、それが答えだ。「コロナが終わった」後の飲み会の悪いところすべてを凝縮したような劇中のあの飲み会も、見ていて虫唾の走るような素晴らしい嫌悪の再現であったのだが、御託を殺せるのもまた言葉であることに違いはない。「人間嫌い」が救われる音楽や映画、そして演劇に至るまで、あまねく商業創作は仕事であり、コミュニケーションの成果物であり、故にその中にこそコミュニケーションの、あるいはそれをツールとしてもつ(べき)人間の善性への祈りが、あるのだと思う。
『天使の群像』 / 鵺的
中島かわいいな?!(カントリーマアムを木皿に入れながら)。
人が人に救われることは偶然にすぎない
この逆も【ごあいさつ】の中には書かれている、人が人を救うことなど不可能であると。救いは存在するが、それは受け手の問題であり、おそらくある種「勝手に」救われていく。自らを「救ってくれた」人を、救われた側は己の中で偶像のように固定する。あるいは作り変える。記憶が当たり前に変質するように。 その時点で「救世主」たる偶像は既にそのオリジナルを離れ、例えばこの物語で起きたようにオリジナルが「消えて」しまった場合、オリジナルと偶像とのギャップが縮まることは永遠にない。
心の中の「リトル」が、小さな自分ではなくその偶像になってしまっている道原は少々難儀だ。自身の内面にある状態を「他者」として心に投影してしまっている(これは演劇というフォーマットである以上…な部分もあるのかもしれないが)が故に、何かその想像上の他者との会話を余計にインタラクティブでシナジーのあるものとして捉えたがっている節があるように見える。が、その他者は自らの精神がシミュレーションしているに過ぎず、自身の想像を超える言動も行動も起こすことはない。一方でそれが他者のかたちを取っているからこそ、彼女の決断が強固になったり、判断が加速したりする部分もあるのかもしれないが。
「他者の投影と会話をすることによって…」というサイクルを経ることでしか自身を動かすことのできなかっただろう道原を、最後に想像外の他者、凄まじく理不尽な実存が襲う。「会ったことがない人間を勝手に想像し断じることはしてはいけない」と信じていた彼女は、やって来た男性…村田の父に、そして本来その場にやってくるはずだった真鍋に打ちのめされる。会ったことのある人間をも勝手に想像の中に押し込めていたことにも気づいた彼女は、そこで偶像としての霜澤に、そして中島とも、別れを告げたのではないだろうか。
彼女はこの後嫌いな学校に、教壇に立ち続けるのだろう。偶像としての「他者」に意見を請い後押しされることなどなく、真に自らの意志のみによって。目の前の圧倒的な不条理に意識を奪われていた道原は気づくべくもなかったであろうが、しかし村田父を焚きつけた真鍋がその場に密かに立ち会い一部始終を見ていた1であろうことは、観客には視えている。自らを救ってくれていた小さな霜澤と中島を喪った道原は、そのとき真鍋を偶然に(しかしながら同時に必然に)救った、か、あるいはいずれ救うことになるのだと思う。無論これも「道原が真鍋を意図して救う」のではなく、意図せずして真鍋が道原に救われるということだ。
「心の中島」が居れば楽かもしれない。あるいはかつて自分も心に中島を住まわせていた。その喪失ゆえだろうか。中島の佇まい、表情、全てが眩しい。
- 開演 2023-12-23 14:00
- 於 ザ・スズナリ
『バロック【再演】』 / 鵺的
目をひらけ
耳をすませ
秘められた言葉を解き放て
あの呪われた場所で
またふたたびぼくたちがめぐりあうために
どこがどう変わったのか初演の映像、あるいは台本を観直しながら確かなリファレンスを基に検討することも可能ではあるけれど、2 年を隔てたいま比較のために初演を観てしまうことで当時の記憶のスナップショットが改竄/混濁する可能性もあると思った。ゆえにまず書いて、書き終わって暫くしたら観なおすことにする。
◇
初演 はスズナリの最前ゴザ列であったこと、初見であったことによる演出の予想のつかなさ、それらが大いに体験を決定づけていて、さながら屋敷の中にいるかのような没入の最中にいたことを憶えている。視点としては洋館に在り続ける死者の魂だった。得体の知れない感染症が少しずつ生活圏を浸食していく中でスズナリに、あるいはあの洋館に閉じ込められるシチュエーション1が変に神経を昂ぶらせていたこともあるかもしれない。
そういった新奇さゆえ展開の比較的細部まで身体が憶えていたこともあったが、今回は初演の没入とは無縁のところに居た。より正確に言えば、劇場という場が没入という体験から距離を置かざるを得なくなっている。飛沫防止の観点から演者と観客の間には「2 メートル」という距離が明確にひかれ、かつてあったゴザ席は取り払われていた2。初演と同じようにつくられた館のセットもそういった「隔絶」を汲みとってか、凶々しさとは異質の、台本設定の通り「作り直された」ような雰囲気をたたえる。
◇
これは良し悪しの話ではない。フライヤーの色彩やコピーが初演と反転しているように、意図的な制御の下にあるようにも思える。何も分からず敢えて無視するしかなかった病魔は、場をどう統御すれば拡大を防ぐことができそうなのか少しずつ分かってきている。
同じように、見えない意志に、家族という組織のかたちに、血という呪いに引き込まれ磔にされ踊らされるという、呪いの場を躰全体で浴びるための没入のしかけは意識的に和らげられ、絶望が、死が、捨象されたのではないだろうか。
◇
創作がわざわざ描くまでもなく国内も、そして海外もそれぞれの先暗さをたたえるようになった今、それらに曝される場は現実だけで充分という厭世感も理解はできる。しかしながらきっと、その頃の創作が絶望や死を照らしていたのは、そこに同時に在る希望や生を掬うためであったはず。
世界が明らかに先暗さへ両足を踏み入れる前からそこにあった作品をもって、初演が象っていたものの裏側を際立たせる試みを図ったのだと思われる今回の再演で、喜四郎のキャスト交代によって御厨家はより機能不全を表出させていた。血や法の下にあたりまえのものとして在る「家族」という関係性には、禎巳とひとみが改めてなぞるようにひびを入れる。光仁はふたたびたちあがった洋館という「家」を、姉妹の始める戦争を眼前に燃やし尽くす。血という境目の外、養子という枠組に在って外からはるかを扶けるというプロットを強く感じた初演と異なり、内側から「殻を破」ることで出てくる破壊の色合い。そもそも自壊が前提にあるような、今回の喜四郎に漂う虚無感。
◇
そして秘書 津山の佇まいの違いが来る。奥野亮子の演じた津山3より神経質にみえる小崎愛美理の津山には、最後の選択でもシングルマザーとしての家庭のあり方に不安定さ/不確かさを滲ませているような感触が強い。このあたりの、わからない現実に対する確信の無さを as is で描いているようなさわりも、今の先暗さ ― 生がもたらす絶望というひとつの象限をかたどっているかのようであった。無論、悲観的でありながらその先にあるのであろう自らの生存意義を掴むために、津山は初演と同じく帰還を選んだはずである。客体的な不仕合せではない、個のそれぞれが至るべき希望に向かうときの、この何ともな寄る辺なさは、初演のあとに挟まれた 『夜会行』 のニュアンスを踏まえての、単なる再生ではない再演が立ち寄った先ということだろうか。
鵺的 第 15 回公演 『バロック【再演】』
ブランニューオペレッタ『Cape jasmine』 / 演出: 根本宗子
くちなし、の花言葉
『もっとも大いなる愛へ』 を観ていたか否かで捉えかたかが変わったりするんだろうか。とはいえ自分は観た側であって、どうしてもそこで中てられたものがついて回るから、真っ新な状態でこれを観たときの感情の想像のしようはない。
もちろん『もっとも~』においても言語を介さないコミュニケーション、たとえば抱きしめたり手を握ったりするというオプションを提示していたように、非言語的な選択肢も当時から劇中でじゅうぶん考慮の範囲にあった。とはいえ主人公、特に伊藤万理華の側がどうしても言葉に依拠してしまう性質の人間だったということもあり、始終かなり言葉を紡ぐ側に歩み寄った内容だったと受け取るし、あのあと彼女が本多劇場を後にしてボーイスカウトの「彼」に会いに行くときに、まず非言語よりは先に言葉でぶつかりにいくんだろうなという気はする。
対して『ケープ・ジャスミン』の側だと、『もっとも~』の脳内シミュレーションで主人公(たち)が採りたくても採れなかったオプション=非言語のほうを最後に行使してコミュニケーションがもう少しだけ持続するような結末だったこともあって、その「言葉のない時間を一緒に過ごす」提案の前に現状の吐露を言語で散々やりはしていたにせよ、リリックのないエンディングテーマも相まって非言語コミュニケーションに振ったまとめだなと感じた。
ただこれらの結末だったりそこでの言語/非言語の採択だったりを「対照的」と対比できるかというと、前作でも沈黙の裏で高速に流れているモノローグが示していたように、表出している状況に言葉が介在していようが不在であろうがそこに思考と感覚は根を張っている。すなわち言語と非言語は(字句の上では「非ず」があてがわれているとはいえ)同じ平面上にはあれど異なる成分であって、直交していようとも決して軸の正負ではないはずなんだけど。
加えて非言語オプションの行使をプロットの結末に明示的に組み込んだ今回、話の上では感覚的なコミュニケーションをラストに引っ張ってきつつ、それが逆に説明的だったんじゃないかということも思う。この説明的である、というのは言語/非言語というよりきっと、意味指向かそうでないかという別の扱いかたをするべきだろう。
昨今、特にコロナ禍が一過性のものではなくなってきたことに世間が向き合い始めた今年中盤以降、フォローしていた複数の創作関係者が「時世のせいか受け手が(より)わかりやすいものを好むようになった」ということを言っている(根本もどこかで似たようなことを言っていた気もするけど定かでない)。あるいはここ一年の世相を(特に政治や行政の面で)賑わせた、何かに対して「非」であること、ないし「反」であることもこれに近くて、何らかの存在を前提にしつつそれに対して否定を貫くことでアイデンティティを充足することがいかに容易かったか。そして集団としての感情のうねりがこれら単純・容易なスタンスを採りがちな傾向に今なお拍車をかけているであろうことも感じ取れる。
そう考えると、前作の延長線上にありそうな選択を「言葉のありなし」という言葉で明確に示している本作は、物事の二項化だったり意味づけ、あるいはそのためのガイドラインの付与だったりをしつつテーマを引き継ぎ、扱い直した作品としての印象がやはり強い。そこに、本来こういうアプローチを探るにあたって行う、直交する言語-非言語の複素平面をぐるぐる回転するような思索過程(『もっとも~』劇中の主人公、あるいはそこから本作に至るまでの実時間の流れにおける根本自身が、それをやり抜いてきたのであろうことは想像したうえで)のすっ飛ばしというか、今作だけで考えたときに平面から軸線にひとつ次元を下げたような感じを受けたというか。だとすると慢性化する逼塞の中での表現の未来ってかなり暗澹としてくるんじゃないか。
「選択が意味づけされていてかつ取れる選択肢が非常に少なくて済む状態、でないと何もできなくなってしまう人」がそれこそ本作終盤にでてきて、あれは今の逼塞を生きる人の一側面なんだろうというのは理解できるし、その生きづらさを否定することもできない。ただ、ああいった具体化による共感性具現みたいなのも、意味指向のひとつの射影である気がしていて、『もっとも~』にて「宇宙人」とも形容されたデリケートな重層性みたいなものは、もしかするともうしばらく、あるいは二度と必要とされなくなるのかもしれない。その不可逆性をもってなお、創作は、世界は、「元に戻」る?
- 鑑賞(劇場にて) 2021-10-06 18:30
- 鑑賞(配信にて) 2021-12-05
- 於 日本青年館ホール
『ヒッキー・カンクーントルネード (2021)』 / ハイバイ
Watch 「ヒッキー・カンクーントルネード」 Online | Vimeo On Demand on Vimeo
これ を書いていた当時は知る由もないが、ちょうどこの前後数日間が東京都の新規陽性判明者数のピーク(さらにいえば 8/13 は一日当たりの都内新規陽性者数の最大値であった1)となった。そういう時期であった東京公演を乗り越えたからには巡業も為し遂げられるのかと思いきや、首都の指標の増減だけでは推し量ることのできないもの、あるいは決断についてまわる遅効性の何かがあったのだろうか、地方公演は出演者の変更2や一部地方での公演完全中止3といった足跡を辿る。
そして 2021 年の「ヒッキー・カンクーン」に立ち会うことをあきらめて書いた上の懸念は杞憂もいいとこで、今回配信された東京公演を見る限り、自分のある種のステレオタイプよりもよっぽど中立的な立ち位置に沿って演出がし直されていたのではないか、というふうに感じる。
みちのくプロレスの日、登美男は外に出たのか?
11/27 現在、Prime Video の 2010 年版4は既に公開終了となっているため確たる検証がしづらい。くわえて記憶が定かであったとしても鑑賞者はあくまで、外で電話している母親の科白をもって「母親の目に映る事実」を想像するしかなかった(当該の場面において、登美男は直接的には鑑賞者の前に姿を見せない)。なんにせよ記憶の範囲では 2010 年版は、みちのくプロレスの地方巡業をその目で観るために登美男が外に出たらしいというところで芝居が終わっていたはずで、8 月の自分はその結末に 2010 年当時の希望と 2021 年 8 月 13 日現在の(個人的な)悲観とのギャップを強く感じていたはずである。
しかし今回はそこが曖昧になっていた。公衆電話のボックスに佇む母親は、興行プロレスの客入りやそれが開演したかどうかの方だけを見ている。綾の後に家を出てくる(かもしれない)登美男の可能性を想像することなく母親の注意はプロレスそのものの方に吸い寄せられていき、そのまま舞台は暗転していく。
もともとこのラスト自体が公演ごとに変わっていたようで5、しかしながらその変遷がどの程度時事性を織り込むのか(あるいは織り込んできたのか)は現在から想像はつかない。そもそも 2010 年版のような結末よりもさらに「外に出た」決断を尊ぶ展開がそうそうあるとは思えないが、あの市中感染の情勢下で鑑賞のために劇場へやって来た人々に見せる 2021 年の演出を「一億総引きこもりからの解放」賛歌のようにしなかったという点では、観に行かないという選択をした人間に対してもその意思を最大限尊重しているようにも思えてくる。当時の様々なイベントが採ったような無観客上演方式を選ぶこともできたかもしれないし、少なくとも 8 月の私もその方向を模索できはしなかったのかと考えたりしていた(このような配信の形態が実現すると思っていなかったので、なおさらだ)。ただ、完全無観客という「観衆総ヒッキー」状態で今回の結末の描き方をすると、却って「外に出ないという選択」の方を贔屓してしまっているように映ったかもしれない。そういった内省もあるのだが、結局のところ登美男が外に出たのかどうかは今回わからないのだから、総てをまとめてニュートラルだったと、そういう捉え方をしている。
あいうえ
2010 年版では「愛」から「あいうえ」への言い換えに造語のような含意を感じた、あるいはそれに近い作為を想像することを肯じるようなニュアンスを見聞きしてとったのだけど、今回はここも曖昧になっていたような気がする。「愛(あい)」だと小っ恥ずかしいから単にアイウエという意味のない言葉に置き換えて話を進めていったかのような演出。2010 年版では強調されていた感のあった綾の、独りよがりで押しつけがましい「思いやり」(=「愛」)への後悔を、2010 年当時の演出では「愛飢え」と文字っていたのではないかと考察してみたりもしていたのだけれど、はなからそんな含意など無かったのだろうか。
圭一、もとい出張お兄さん/お姉さんとは何者なのか
『ヒッキー・ソトニデテミターノ』をみればわかるかもしれないようなので5、機会を伺うことにする。
「ヒッキー・カンクーントルネード」
【再鑑賞】『昼下がりの思春期たちは漂う狼のようだ』 / アンカル
千秋楽も観にいってしまった。
劇中つかわれていた楽曲を順不同に、憶えているだけ挙げてみる。
抱いてくれたらいいのに / 工藤静香
2 幕序盤(だったと思う)。ファミリアこと桜田先生への、少女新貝の想いの代弁である。
オリジナルの工藤静香は声の根幹にあるマッチョさというか、「芯」とも違う(芯なら新貝さんにだってある)獣の眼光みたいなギラつきの常に前面に出ている感じが見えるんだけど、これを伊藤ナツキが歌うともう少しパッシブな切迫が出る。ミュージカルのワンシーケンスみたいな。こうやって役者、もといそこに宿る人格固有のヴァイブスが乗るとカラオケでも素晴らしい。結局それが乗るには酔っ払いの二次会的なオレガーオレガーの自己主張だけではだめで、つまり他者にひらいた自己開示のチャネルがきっと(伴奏としての)カラオケを巻き込んで、伴奏に乗せられてるんじゃなくノせる、力すなわちヴァイブスになる。ただそういうのを密室で顔見知りの人間がやってたりするとまあだいたいどうしても生々しすぎる、というのがあるので私はカラオケには行かない行けない行きたくない。このくらいの距離感でみる他者の眩しさとして受信するくらいがちょうどいい…。
曲も良くて、包み込むような F メジャーキーのイントロから短三度転調、D メジャーキーの鋭さをもってタイトル通りの詞に切り込む瞬間が異様にかっこいい。
夜行性の生き物三匹 / ゆらゆら帝国
卓球部(この曲がかかっているときは 3 人組である)のテーマ。
久々に PV 見直したけどこの団扇をラケットに対応させていたのだろうか。劇中、小口の素振りがスローモーションになる印象的な演出があるけれど、これも事前にこの PV の記憶を呼びさましたりできていたのならば、もしかしたらひょっとこ踊りの体幹感覚が小口に重なったかもしれない。
林のドーピングは Apex Legends のオクタン。
バンドをやってる友達 / ゆらゆら帝国
またゆらゆら帝国。『めまい』の方ではなく、流れていたのはこっちのバージョン。
飼育小屋チーム。大河原さん役の大河原さんが解説してたけど1、確かに教室外でのみ関係性が成り立っている不思議な子たちだった。みんな良かったけど特に秋谷の、ちゃんときもいと思ったことをきもいと思ったと口に出して竹野くん(とその創作)に謝罪してるところ。かわいそうで劣っているものに対する情というか庇護欲というかで人付き合いをすることとか、中学生だとそれも変にこじれていないぶんかわいく見えるけど、今なら忌むべき感情であるとして排除しうる。しかしそうなると飼育小屋チームに対する「かわいい」という感情も、やはり良くないものなのだろうか。
大地讃頌 (合唱曲)
二幕の出だしを飾る、合唱曲その 1。何故いるウト君。何故いるウト君。
ウトユウマがそこに居ることを劇中劇的なメタ展開のようにリードさせておいて、彼は実際ほんとうにクラスに帰ってきていた。「父親から逃げることができなかった」という、彼の家庭背景を考えると絶望的な展開が裏にありながらの、その緩衝材として機能する替え歌である。
意図していたであろう「やんちゃなヤンキー」のロールがなりを潜めてマクベスを読みふけるようになった後の、ウトの細かなアクティビティをあまり思い出すことができない。ゲンらとの絡みもあれっきりではなかったか。どんどん閉じていってしまって最後はどうにもならなくなっていた結果の自宅への放火のようにも見えたけど、シェイクスピアを読むという行動そのものがきっと、神の視点であるわれわれ観客すらも視ることのできない彼にとっての「学外」世界の示唆だったのだろうとも。
ウトの隣にいつもいた石井がいつでも良い味を出していた。演者は元タカラヅカの天瀬はつひ。
巣立ちの歌 (合唱曲)
合唱曲その 2。自分の記憶の中ではこの曲は輪唱の曲として固定されているので、そういうアレンジで歌わされていたんだろうと思う。
卒業の場面ならやはり落合が作文を読み上げる場面がハイライトだけど、あれは初演の落合が書いたのかな。演劇をしなくてもいい自分。
演劇をみなくてもいい私、はこれを 2 回観にいってる時点で無理だな。
FACES PLACES / globe
竹野くんの見た夢の中の群舞。
飼育小屋で小室哲哉が好きだという言及がひとことだけ為されるのが選曲の伏線になっているとはいえ、これがほぼ脈絡なく劇場に大音量で響いたところで鳥肌。小室曲の具体的な曲選と挿入箇所は想像がつかないし、おまけに群舞までつけてくるところが本当に最高。ゆらゆら帝国にしろ合唱曲にしろ、工藤静香に至るまでそうだけど蓬莱竜太の劇伴セレクトは自分と遠くなく、あるいは遠くとも琴線に触れてくる。今回はその物量が圧倒的だったというのもあって二度も観にいってしまったところがあった。
この曲、C キーで書いてたつもりがどういうわけかギターのマジックで D キーに行ったのではないか、みたいなことがまことしやかに言われている2。確かに C(C キーのトニック)で始まって D(同じく D キーでのトニック)で終わる 18 小節 1 コーラスは、部分転調と呼べるような理屈で接着しているようにはきこえない。ただ行って、帰ってきてるけれど気づきづらい何か。実際自分でもコードを採ってみてほぼ全編を(セブンスすら含まない)三和音で書けてしまったこの譜面のツラは、それだけ追うと何が凄いのかを捉え難い。その曲展開が抱えるエネルギーの実際は、原曲は勿論だけど最近の、というか今年の音圧で採られた千秋とマーク・パンサーのコラボ動画で確認してみてほしい。これもカラオケなんだからやっぱり人間に必要なのはヴァイブス。圧巻。