Google+ から移行中(2/3 程度進行)。公演中でもネタバレします。

『木の上の軍隊』 / こまつ座

★★★☆☆

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創作から普遍的なテーマを取り出して実体験に当てはめていき、そこから考えを展開させていくというのはおそらく、フィクションをある程度たしなむ人間にとっては当たり前の作業でしょう。では、対象とする創作そのものの帰着点が普遍的というよりは、より限定された事象に収束していくとどうなるか。そういうやり方はあってもいい。創作する側もまた人間であって、彼らの微視的な実体験が反映されることによって、細かい描写から全体のテーマに至るまでがよりリアリティを持ち得ると思うからです。しかし、収束しすぎることによる帰着点の限定は、プロバガンダになってしまうのではないか。本作を観て、そう思ってしまいました。

舞台は沖縄戦。撤退(直接の明言はされないが、これは彼らの規模においても「転進」に変換、正当化されていく)の果てに島の巨木のウロに逃げ込んだ「上官[演:山西惇]」と「新兵[演:松下洸平]」は、その後 2 年間、すなわち終戦後も、木の上で 2 人だけの軍隊生活 ― 終わることのない戦争を続けることになります。無計画な突撃を行おうとする新兵を当初は厳しく律していた上官。「鬼畜の食べ物」であるところの連合軍拠点の残飯、あるいは敵兵の屍体が背負う糧食を貪ってでも空腹を凌ごうとする新兵を非国民と罵っていた彼は、その敵軍キャンプが拡大していき、彼らの出すごみから酒やタバコ等の嗜好品が得られる頻度が増すにつれ、「軍隊」の規律を自身に有利なように改定していきます。数年越しに戦争の終結を自覚する(気づいていなかったふりをしていたのをやめたと表現してもいい)頃には、病を得た新兵よりも肥え、銃器は錆び付き、寧ろ自らが「木を降りたら世間から非国民と罵られる」であろう状態になってしまっていました。少しでも多く敵兵の命を奪おうと自分なりに考え動こうとはしていた新兵と、立場は逆転してしまっていたのです。島の牛飼い少年であった新兵にとっては、戦場として蹂躙され、拡大の止まらない敵軍キャンプに浸食され続ける「故郷」を眼前に呈され続ける日々はまさに地獄の非日常以外の何物でもなかったわけですが、おそらく本土出身であり「島のため」ではなく「国のため」に派兵されてきた上官は、樹上の軍隊生活が或る均衡に陥り、それが日常と化したときに、そこから脱出するインセンティブを完全に失ったということです。それは、上官にとって沖縄は故郷ではなかったからではないのか。守るべき「島」ではなかったから。新兵が訴えるこの、身を切るような叫びは、最終的に「軍隊」が木を降りるきっかけにもなります。

そして、膨張を続けた敵のキャンプは、終戦後もなお残っている。それどころか、近代化が進められ更に拡大していくかのようだ。ラストシーン、当てどなく膨張を続ける黒々とした何かを見ながら、樹上に残る 2 人の幻は言葉を交わします。轟音のヘリコプターの音をバックに。このヘリコプターの音は「オスプレイ」に比定されています。演出家が、そう断言している(冒頭の埋め込み記事を参照)。決してそのインタビューを読まずとも、これは現代にまで続く沖縄の米軍基地に関わる「問題」にそのまま繋がるものであると、誰もが理解するはずです。

なにか、限定的すぎはしないかと思うのです。その限定に非常にマッチングする意見を持つ人間がいたとすれば(間違いなくいるでしょう)、これはそのまま彼らの主張を代弁するものとなり得ます。同時におそらく、私のように違和感を持つ者は、本作における上官のように、その問題の当事者ではないから、当事者でないと思い込んでいるから…そういったエクスキューズをも上演台本(あるいは演出)が内包してしまっているような、反駁を許されないような空気のタネが蒔かれているような、居心地の悪さを禁じ得ませんでした。もちろん普遍的なテーマも見出すことはできました。細かい設定に違和感も持てど、決してつまらない芝居というわけでもなかった。しかし、やはり最後の演出には凄まじい整流と収束の圧力を、あるいはそれによる疎外を感じてしまいました。

この整流はどの段階で付与されたものなのかが、とても気になっています。井上の原案というものは果たしてどの程度、骨格を成していたのか。戯曲に仕上げるにあたって、その骨格をどう演繹していったのか。上演にあたってどのような演出が付与されていったのか。「戦犯」探しをしているようで、これはこれで自己嫌悪もあるのですが、居心地の悪さの原因が気になるのです。これまでの蓬莱戯曲や栗山演出には好みなものが多かったから、余計に。

近年の、私の戦争(というよりもより具体的に、太平洋戦争)観には、山本七平のフィリピン戦線従軍体験に関する書籍群が大いに影響しています。これは「故郷」に拠った感覚には決してなり得ない。実体験でもない。では果たして、それらを読んで湧き上がったものは、「島」の感覚がないからといって、劣ったものとしてレッテルを貼られて終わってしまうのでしょうか。そもそも、生まれたときから米軍基地のある人々の方が、これから更に増えていきます。「浸食」の過程を実体験として知らない世代は、しかしながら成長を通して米軍が間近に存在し続けることで、何かに相対しているそれに「ぐちゃぐちゃ」を抱きつつも信じるしかないという最前線には立たされるのかもしれない。でも、この新兵の「ぐちゃぐちゃ」と「信じる」の綯い交ぜ、すなわち不安と楽観の複合体のようなものを抱き続けながら生きていくという話は、本土にだって拡大できる話だと思うんですけどね。では果たして、あの収束をした演出の着地点はどこに、どういった層に刺さるのだろう。「風化させないため」には、疎外を感じるような表現であっていいとは思わない。うとましい主張だと思わせていいはずもない。だからこそ、よりオープンな解釈へのガイドラインを望むように、何かやりきれない気持ちで劇場を出たのだと思います。

表現ってこんなに不自由なものだっけと思ったりもしたのですが、これこそ表現の自由だと思う人が一方で存在してもおかしくはなく。

少なくともこれを起点に芝居が観づらくなるような自己完結を起こしたくないと考えてはいます。『命の三部作』の残り 2 作、少なくとも井上の手による『父と暮らせば』を、こまつ座にて、最低でも観る必要があるのかもしれない。今回はそう思いました。



『ラッキーフィッシュと浮かぶ夜』 / こわせ貯金箱

★★☆☆☆

stage.corich.jp

浜辺に一頭のクジラが迷い込む、というポートレートが脚本家(演出家を兼ねている)の頭の中にあり、そこから話を組み立てていったようだ。クジラが好きなのかな?と思ったが、劇中で2回ほど船舶と衝突する。もちろんクジラは無事では済まないだろうから、好むのはあくまでそういった情景であって、クジラそのものではないようだ。

話は、「ラッキーフィッシュ」と呼ばれる魚の形をとった何かが人に取り憑くことで人が幸福になったりならなかったりするという都市伝説の蔓延る、海沿いの街から始まる。超常現象の取材なども扱う地元の占い師と TV 制作(?)、同じく街の女子高生グループ、街の外から来たと思しきオカルト雑誌ライター、大学デビューに失敗した女子大生、など幾つかのグループが白衣の秘密結社のような集団に攫われ、元あったグループ毎に密室に監禁される。意識的か無意識的かの違いはあれ、拉致された人物あるいはグループには、「ラッキーフィッシュ」が出現したと思われる日時・地点にそこに居たという共通点があった。「ラッキーフィッシュ」とは何か?秘密結社の目的とは?そもそもこの監禁状態を抜け出すことができるのか?そういった謎解きのエッセンスを含むストーリー仕立て。

…なんだけど。やっぱり冒頭のポートレート先行で書きはじめたのか、ほか、言ってしまえばそのポートレート「一枚絵」以外のすべての「動画」がものすごく上滑りしている。ミステリー要素の大きなところで言えば、監禁場所が陸地からそれなりに離れた外海を航行する客船であり、無意識的にでも船酔いを起こす人物が居るほどなのであれば、その揺れの特徴から自身の置かれた場所を類推できる登場人物は出てきて当然なのではないか、とか(出てこないんだな)。そんな外洋で停泊したところで、果たして揺れが収まることがあるのか?とか。海洋生物との衝突と船舶火災の複合事故についてどの程度状況を揉んだのか?とか。あるいはそのような外洋で星空を見上げたとき、北極星から北斗七星をたどる、という星探しの過程は現実的なのだろうか(逆では)?最近の大学工学部は実習でラジオ受信機を作るのか?

キリが無い、細かい、と思われるかもしれないけど、つまるところ脚本を書いた人は、おそらく船に乗ったことや星を探したことが無いのではと思ってしまうのである。少し外に踏み出してみれば体験することのできる要素にも現実感が伴わないとなると、その上で行われる人物の所作も全て魂の入っていないものになってしまう1。だからこそ「切り売り」が大事であって。無論、切り売りが全てだとは言わない。ただ最低でもまず自分が何を伝えたいと思っていて、それは自身のどういった体験に基づいたものなのか、それは普遍的にはどういった話に落としこめるか、というプロットがないと、本当に生きているものが何も居ない舞台になってしまう。

唯一生きていたと思えた演出は、冒頭の「溺れる鯨2」合唱で、ここの座組の一体感はとても興味深かった。多分この歌が本当に好きなんだろう。

枝葉は置いておいて、主題の「ラッキーフィッシュ」について考えてみる。「ラッキーフィッシュ」は欲望の強い人間を宿主とし、取り憑き、渡り歩く。宿主がその欲望に費やすエネルギーを糧に成長する代わりに、宿主の欲望を満たしてやる。宿主は願いが叶った、ラッキー、ということになる。一方で、その欲望の実現に強引に巻き込まれることになる人間は、必ずしも幸せとはいえない。幸不幸は、世界全体で言えばゼロサムゲームなのだから…といった感じの設定。

こういった、幸不幸を司る要素を具象化した芝居には、ほかにたとえば イキウメの『関数ドミノ』 がある。欲望を具象化するだけあって、細かい設定もそこそこ似ている。大きな違いは、『関数ドミノ』では精神異常者のたわごととして片付けられかねない、あるいは言霊・まじないレベルの自己暗示として一般には説明のできる「ドミノ」にあたる存在、すなわち「ラッキーフィッシュ」が、本作中の世界ではほぼ確実に実在していて間違いがないということ。秘密結社もとい二ツ森家は祖父の代から「ラッキーフィッシュ」の鹵獲を試みており(という話だったはず)、人間に良く似た器である「アンドロイド」に擬似的に人間の感情(欲望)を表出させ、「フィッシュ」が引っかかったところで器の人格を全て消去して内部にロックインし、「フィッシュ」の移動が二度と起こらないようにする、といったような手段を保有して動いている。そして、最終的にその試みはうまくいく。ではそれが完遂されて、世界は変わるのか?幸不幸のゼロサムゲームは終わりを迎え、欲望で駆動する人々の様々な感情が熱的に死んだ世界でもやってくるのだろうか?それこそ現在の二ツ森家が、半ばアンドロイドの寄り合いとなってしまったように。

あるいは、「ドミノひとつ」ならば「魚一匹」である。人の幸不幸の機微が、そうも明確に具象化された外部要因(しかもただひとつ、乃至は一匹)に集約されるのだとすれば、夢も希望も無い話すぎやしないか。試みが上手くいっていたかどうかは置いておいて、これは擬似人格をもったアンドロイドの二ツ森樹と、彼女しか友達がいないといってよかった大学生ミチルとの友情が「ラッキーフィッシュ」鹵獲に伴う樹の人格の消去で終わりを迎える、喪失の物語である。だとしたらミチルはあのとき、惨めで仕方が無い思いにとらわれるのではなかろうか。アンドロイドとは思ってもみなかった自分の友人が、こうも理不尽に奪われることに納得がいかず、無二の友達が消えてしまう規定路線を変える手だてはないか必死に考えるかもしれない。あるいは樹の AI が、長いフィードバックとアップデートの間に、真に人間の感情に肉薄し「欲望」を体得することがあってもいい。ROMカセットやら何やら無しでも「ラッキーフィッシュ」を宿せるような人間性の獲得。現代のピノッキオみたいになってきた、クジラもモチーフだし。でも、この二人の引き裂かれることに対する反撥が、マザコン仲井君の「ママの淹れてくれた紅茶が飲みたい」に勝てないのだとしたら、やっぱり悲しすぎる。

書き手にはメインストーリーと何も関係の無い『School Days』オマージュのようなサブプロット(切断した恋人の頭部をバッグに詰めて船で外洋へ発つ女)の話なんか挿んでしまうことよりもまず、自身にとっての友達、あるいは友情について棚卸しをしてみるといいのでは。そんなことを思ってしまうのである。児童文学みたいな良い話にも化けそうなのにね。

  • 作・演出 川口大
  • 開演 2019-05-05 14:00
  • 於 甘棠館Show劇場

  1. 被災地や被災者への取材なしに『美しい顔』を書き上げる北条裕子のような化け物もたまには出てくるのだけれど(あれはあれで議論があるというのは織り込んで)、やっぱりあれはレアケースだと思う。ただし『美しい顔』主人公である女子高生サナエの膨張し収縮する自意識に躍る読点の無い文面なんかは、少なからずは「切り売り(後述)」なのではないか、とも。

  2. https://www.youtube.com/watch?v=-R71CkSfE38

『まほろば』 / 演出: 日澤雄介

★★★☆☆

okepi.net

先入観があるのはおそらく良いとはいえないのだけれど、初演(演出:栗山民也)のワンシーンを収めたこの VTR を観たからこそ今回、本作だけは見逃したくないと思ったのは事実だし、難しいところ。

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そして今回の新演出のゲネプロの様子もいくつか公開されている。

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早霧せいな演じるミドリや、中村ゆり演じるキョウコが板の上に現れてまず、ちょっと綺麗すぎるよな、と思った。これも多分に初演の秋山と魏のくたびれた感じが刷り込まれていたから、余計にそういう感想が先に立ったのだろう。そりゃあ元宝塚スターにすっぴん(に限りなく近いメイク)を施して板の上に出そうものなら、客席の一部がどのような様相を呈するであろうかも理解している(はず)ので、そうしろとは言わないし、言えない。だとすると、そもそも論と化してしまうことも解っている。

ただ、『まほろば』はそういった細部に神が宿るタイプの現代劇であり、リアリスムの芝居なように受け取れる。例えば、初演の VTR では聞こえるクマゼミの鳴き声(舞台は長崎である)。今回は記憶に残っておらず、残っていないということはおそらく本当に無かったか、新演出において限りなくオミットの方向に振り向けられていたかだ。例えば、縁側の配置。曾祖母の背中を見ることになる初演と、縁側に腰を下ろす彼女を前方から俯瞰する今回とでは、観客が立たされる視点というものが必然的に変わってくる。

演出家が異なる以上は、同じ台本から始まっても演出の着地点は違って当然であるし、また日澤は栗山とは異なる登場人物に焦点を当てたという旨をインタビューで語ってもいる(冒頭に貼ったインタビュー記事を参照)。機微自体は、異なる演出家でなくとも、初演と再演、もっと言えば初日と大楽、という風に、よりミクロなスケールにおいても変化しうる要素ではあるのだけれども(さすがに初日と大楽で縁側の向きは変わったりしないだろうが)。つまり正解がどうという話ではなく、キャスティングやメイクの問題にまで遡って、包括して好みの問題なのだ。

その好みがはっきりしたからこそ、藤木家の目の前を御輿が通りすぎていくあのラストシーンを観て、栗山演出でのそれを強く欲してしまった。 『母と惑星について、および自転する女たちの記録』 にも続いていく蓬莱の、どこか情に訴えすぎな感もある「女性の生命讃歌」とは、『母と惑星』におけるイスタンブールの色彩であり、その萌芽はまた、本作の御輿を視覚的には照明効果のみで表現するときの、燃えるような「あかり」ではないのか。あそこでシャーマニスムとエモとを強引にまとめて、(私を)巻き込んでくれるのは栗山演出なんじゃないかと思ってしまったのである。

日澤は日澤で、『遺産』で素晴らしい人間讃歌をやっている。あちらのそれは、役者の佇まい、その立ち姿によるものであった。その違いに優劣はない。ただ、本当に栗山演出を観てみたいなと今回、思ってしまったのは事実で。なんだか申し訳ない。

男が描く女芝居には、特に本作のような妊娠、出産をテーマに据えている場合、女性からすればツッコミどころが多いのではないか、という気がする。蓬莱自身も客出しで女性客から直に言われたというエピソードを読める( https://www.umegei.com/mahoroba/#staff )。同時に、話が弾むような仕掛けにもなっているようで、観劇後の周りのおばさま方の会話は、悪くないテンションなのだが( 『星回帰線』 の終演後のおばさまトークは凄まじかった)。それどころか、上演中にもそれは苦笑のような形で現れたりする。その何かほっておけない感が、蓬莱節な人間讃歌の、人を惹き付ける魅力になっているのかもしれない。

人並みでない作家が人並みでない人々に贈る“人並み”を打ち砕くための祝福は、ここ、2008 年から始まったのだろうか。

変拍子やアフロビート的な、「2-4 ではないジャズ」は祭囃子に似ているんだな、と場面転換時の暗転選曲を聴いて思う。

出演

4 世代の、そして未だ名前のない 5 世代目に繋がる女系家族の物語。

1 世代目
  • 三田和代 → タマエ(ミドリやキョウコから見て祖母、ユリアから見ると曾祖母にあたる)
2 世代目
  • 高橋惠子 → ヒロコ(ミドリやキョウコの母、長崎のとある旧家である藤木家の現在の「柱」?)
3 世代目
  • 早霧せいな → ミドリ(ヒロコの長女、上京して久しかったはずが祭りの前夜に泥酔して実家に戻ってきた)
  • 中村ゆり → キョウコ(ヒロコの次女、シングルマザーで藤木家の居候)
4 世代目
  • 生越千晴 → ユリア(キョウコの娘、父親は不明、ミドリとほぼ同じくして東京から藤木家に帰ってくる)
4 世代目?
  • 安生悠璃菜・八代田悠花 → マオ(「瓦場のモトヨシさん」の所の娘、母親が蒸発したらしい、キョウコと懇ろな父親は御輿担ぎの為、祭り当日に急に藤木の家に置かれる)
    • W キャスト。観たのは八代田の回。
その他情報
  • 演出 日澤雄介(劇団チョコレートケーキ)
  • 作 蓬莱竜太
  • 開演 2019-04-24 11:30
  • 梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティ

『クラッシャー女中』 / M&Oplaysプロデュース 演出: 根本宗子

★★★☆☆

なに書いても負けな気もするけど。

natalie.mu

『愛犬ポリーの死、そして家族の話』 にて“倫理”的にきわどい提示を以って「信じる」ことが描かれたとすれば、本作では「(他者を)理解する」ということはどういうことなのだろうかということを、ゆみこ[演:麻生久美子]と義則[中村倫也]との優に 20 分はあるであろうラストシークエンスを使って描いていた。

… 長いよあのラスト!っていう。その長尺を取った意味というのは本当に最後の最後に分かる仕掛けにはなっていたような気がするし、冒頭から感じた根本の演劇っぽくなさ、というよりもむしろ別の作家、もっと言ってしまえば鴻上の「説教くささ(?)」のようなものを逐一挿入していた理由も、そこで入ってくる1。…ようやく。惜しむべくは、そこで気づいてもう一回観なおしたい、となっても、演者の圧倒的な人気によるチケット需給の崩壊でそれは叶わないこと。だからこそ CS での録画放送が決まったのかもしれないけどね。

誰しもが、ゆみこの視野狭窄に陥る可能性は孕んでいる。それこそ 『皆、シンデレラがやりたい。』 でいうオバサン達の推しへの感情はその一側面であると思うし、今回は同じく M&Oplays プロデュースだったこともあって、どこかその延長も意識していたのかもしれない。でも、一切その対象を(生身で)舞台上に出さなかった『シンデレラ』とは違って、今回は中村倫也をそういうシンボルとして板の上に出していたような気がして、何かとてつもない底意地の悪さのようなものを垣間見たような。でも、それこそ周囲の一切が「騒音」と化すほどの、自分と(ある特定の)他者との関係性が現出もとい幻出してしまったとき、そこに生じているつもりの「わたしの彼/彼女に対する最高の理解」は、まさにあの長ったらしいラストシークエンスに収束するのは事実だろうから…考えれば考えるほどヤーネ。

サブプロットの中でえぐいと思ったのは義則の母親[西田尚美]で、まあ今どきはネットなんかにいくらでも転がっているような話であっても、改めて視聴覚の具象を以って示されるとウエーッとなってしまう。子どもに自分以上のものを期待するあのような「母親」に限って、その行動原理自体が子どもを拡張身体としか捉えていない証左でもあり、結局は拡張身体もとい自分の子どもである以上は、息子が「何も持たざる人間」であってもそれは当たり前なんだよ、あんたの子どもなんだから、というのを受け入れることができない。その末路が自壊2だけならまだ良いのかもしれないけど、往々にしてそれは、自壊への途上で子どもにも向けられることになる ― 「産まなきゃよかった」という言葉として。『ポリー』の三姉妹それぞれの家族の実情といい、そのあたり、ほんっとーに覚悟があって生きてますか?生きていくつもりでいますか?というのを物凄い警告として発しているような気がするけど、根本のそういうメッセージは、どこからやって来ていて、どこへ向かっているのかな。

義則が劇中で決定的に壊れることなく終わったし、演劇としてのエクスキューズとか、現実との線引きといったものは、有ったとは思っている。最後、ゆみこと義則がお辞儀をするのが客席側ではなく3、いつの間にか音も立てない傍観者となっていた他の 5 人の役者に対して、という本当にぎりぎりのやり方で。ただ、あらすじ4を一見したときに期待するようなエンターテインメント風のカタルシスが無いまま、あそこで終わってしまうのは、なんか、

分かりやすいエンターテインメントを、期待?カタルシスの存在が、根本らしさ?

んーーーーーーーーーーーーーー。。。。。。。。。。

情報

M&Oplays プロデュース 『クラッシャー女中』


  1. 翻訳劇のようなガワにはケラっぽさも感じた。

  2. 現実を悟り、受け入れ、自分自身を理解した後に「きちがい(普段は用いる芝居もあるのに、珍しくこの言葉を具体的に出さなかったのは生々しすぎるからか)」になって別次元の世界に自閉してしまう彼女の顛末は、他の登場人物たちにおける「自分の世界」とは異質で、ぐろい。

  3. あそこで(見切りカーテンコール的な)拍手が起こったことに対して、本作のリピーター率の高さとか、女オタの島根への遠征とか、そういったものを強く察した。本当に女性客が多かった(冗談抜きで 9 割 5 分)。

  4. http://mo-plays.com/crusher/#story ― M&Oplays での前作 『皆、シンデレラがやりたい。』 と同様、上演版の話の筋はけっこう変化している。今回はゆみこと静香[演:趣里]の動機が大きく変わっている。「勝つのは女の欲望か、男の欲望か」という、さながらエンターテインメント活劇のような煽りを下敷きにして観に行くと…。

  5. 知名度や人気からしてもう決してそうは言えないのだろうけど、物凄くバイプレイヤー気質なのではないかという風を纏っていた。上手い。長い下積みがあったような背景を感じる。想像していたより遥かに体格が良かった。あと尻。

  6. かわいかった。声が良い。

『イーハトーボの劇列車』 / こまつ座

★★★☆☆

http://www.picnic-net.com/stage/03.20komatuza.htmlwww.picnic-net.com

一頭の肉用家畜を育てる為に必要な畑の面積と、その非効率性から肉食の非合理を説いていた宮沢賢治[演:松田龍平]。彼は後年、ユートピアとしての象徴に地元の墾地をチューリップで満たそうというビジョンを語ったとき、百姓出身の刑事[山西惇]からより感情的に、より完膚なきまでに反撥を受けて途方に暮れる。

理想郷を地元、花巻に作ろうというきっかけになったのは、自らの法華経への帰依と、それによって念仏宗であった父[山西惇]との間に起きた、対立であった。父の緻密な法華経研究による反駁に言いくるめられてしまった賢治は、ユートピアを外部に求めることが叶わなくなり、花巻に帰らざるを得なくなったのである1

肉食の非合理を説いた相手である三菱のホープ、福地第一郎2[土屋佑壱]は当時、題目を唱えながら妹とし子[天野はな]に肉を食べさせる3賢治を気味悪がっていたが、晩年の病床の賢治に彼は、敬愛する石原莞爾と同じ国柱会に所属したことを伝える。そして法華経への帰依から花巻に理想郷を定めた賢治とは正反対に、福地は満州へとさながら「極楽浄土」を求めて旅立っていったのだろう。

このような具合で、本作で描かれる賢治は、いつもうまくいっていない。彼が最も必要としていたであろうタイミングにおいて、求めていた理解は得られず、ずっと後になってから他者の理解がついてきたり、それでもどこかずれていたり、あるいは理解を得られずに折れた先に過去の自分からのしっぺ返しが待っている、といった感じだ。

賢治と共に上野行きの列車に飛び乗った男たち[宇梶剛士福田転球、小日向星一]も、彼と同様に夢や意志を持って花巻を飛び出したはずが、再び賢治が上野行きの列車に乗る頃には次々と神野[中村まこと]のサーカスの見世物に加わり、惨めな生活を送っている様子が現れる。

対比される登場人物たちと賢治とで何が違うかと問われれば、賢治は念仏宗ほどユートピアを外部化することはなく、それでいて自らの一生の範囲内では花巻で開花するであろう内的な理想郷、すなわちイーハトーボの現出に立ち会うことはできないだろうと考え、より長期的な視点に立っている部分だろうか。

だからこそ、賢治だけは唯一「銀河鉄道」の出発の際に車掌ネリ[天野はな]に話しかけられたのかもしれない。そして彼の「思い残し切符」は個人に届けられるのではなく、舞台上から客席に向けて撒き放たれる。

しかし賢治からの思い残し切符は、それまでの思い残し切符 ― すなわち後悔をもった死が赤帽子の車掌[岡部たかし]を経て賢治へ、ほぼ間をおかずに手渡され続けてきたもの ― と比べれば、彼の死からおよそ 85 年、あるいは本作の初演からもうすぐ 40 年、随分と間が開きすぎてしまっている。どんな切符にだって有効期限はあるだろう。そして受け取りにきた観客には、その切符を持って歩き出せるほどの若さが、力が残っているのだろうか。

生前は作家としてほぼ無名であり、死ぬまで親の脛をかじっていたと言われ、またその思考も活動も、生きている間は全てが報われていなかったような宮沢賢治。死後ようやく向けられるようになった大衆からの眼差しに、『イーハトーボの劇列車』の賢治は何を思うのか。また、『イーハトーボの劇列車』を観て、宮沢賢治は何を思うのだろうか。

列車の音を、アンサンブルが口から出せる音だけで表現し続けていたのが印象的。ダッ、シィーーーーーッ。「銀河鉄道」にて、初めて本物の汽笛が鳴る。

参考

イーハトーボの劇列車 - Wikipediaja.wikipedia.org

イベント情報・イベント詳細/大垣市スイトピアセンターwww2.og-bunka.or.jp

情報

  1. もちろん有名な妹想いを逆手に取られたというのもあろうし、実際にとし子(トシ)の病もあっただろう。

  2. 上演時間の 2-3 割程度を賢治と共に過ごす彼であるが、創作上の人物とのことである(モデルはいるのだろうか)。そしてこのことからも、本作は評伝の評に重きをおいたフィクション、井上ひさしの「作品」として捉えるべきだろう。

  3. 賢治自らは肉食を禁じていたが、病床にあったとし子には滋養をつけさせなければならないということで肉食を認め、自らは題目を唱えながら、一口ずつ妹の口へ肉をよそう。

『こそぎ落としの明け暮れ』 / ベッド&メイキングス

★★★★☆

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宗教団体をめぐる物語

との言及があるが、上演版においては少なくとも明確に出てくることはない。


交通事故で片足を怪我した姉[演:町田マリー]の退院日の少し前、かつて姉がしたためた「遺書」を、妹[安藤聖]は見つける。妹は、姉のその事故も自殺願望によるものではないかと考える。事故以来どこか変わってしまった、あらゆる「迷惑な人」「めんどくさい人」のお節介を笑顔で受け取り続ける姉が再び死に向かうのではないかと考え、妹は「崖っぷちに立つ姉を羽交い絞めにするような」行動を取りはじめる。姉は、妹のその介入だけは拒絶しようとする。

姉妹の通うその病院に出入りする害虫駆除業者。性格のどこかこじれた班長吉本菜穂子]、その扱い方に手馴れた年季の入る従業員[葉丸あすか]、そして新入り[石橋静河]。駆除を生業とする彼女たちの誰も、業務において駆除対象である害虫を見たことがない。虫好きの新入りは、虫を見たいのは当然であると主張し、見てもいないのに駆除できたという立証はできないと訝しがりもする。班長の独特の哲学、その衝突の果てに監督責任を放棄し仕事を休職した彼女の人生は、旅先の島で消耗する姉妹と交錯する。

妹の夫[富岡晃一郎]は「呪い」に導かれるように浮気を続ける。病院の看護師[野口かおる]と別れた後は、同院の売店員[佐久間麻由]と。その後は「歌」に、あるいは森羅万象に…。

姉妹は、班長は、男は、どこにでもいそうな「お節介焼き」な世間の人々[島田桃依]につつき回されながら、彼女たち/彼らの閉じた関係の中においても、マグロの中落ちがこそぎ落とされるかの如く消耗していき……


生きづらさを捨て切れない人がいて、語らないままひっそりと残していたものがいつか発掘されるとき、それが年月の経ったものであったとしても、見つけてしまった側は気にかけるしかない。崖っぷちでの羽交い絞めも、する側だって本当は面倒くさいのかもしれない。

「お節介」と「思いやり」の差。意識的か無意識的か、それを嗅ぎ分ける姉。「思いやり」が「お節介」よりも重荷になるフェーズ、あるいは人、事象。与える側の問題に見えて、受けとる側がどう感じるかの問題でもある。

班長と「虫」の、決して交わることのない関係性。それを「両想いです!!!」と断じきる浮気性の男。直前の張り裂けそうになる馬鹿げた命のやり取りも、帰結するのは歌謡、(歌謡曲としての)ブルース、あるいはバラードへ。

人が、少しの想像力で、信じる一歩を踏み出そうとする1、良い話です。わざとらしいくらいに昭和っぽい2けど、古い本をアップデートするかのようなちぐはぐさが無いぶん、こういったものの方がしっかりと入ってくる。

構造はいささか混沌としているけど、こういう芝居からはテイクホームメッセージを自分なりにひとつ持って帰ることが出来ればそれで充分だと思っていて、それは小難しいことなんかでは、決してない。少しの想像力で、誰でも、それぞれが手に入れられるのだ。

追いつめられた姉が吐露する、

道筋を辿り直せるほどこれまでの人生は短くもないし、そこから新たな道を切り開いていけるほどにはもう若くない

という台詞(要約・意訳)にウッとなった。こそぎ落とされながらも、そこから復元するための力をどこかに求めたい3姉の物語かなあ。

福原充則、初めて観たけど好きかもしれない4。世の中まだまだ芝居がある。

あと、富岡晃一郎、良すぎ。シャムネコ撫でたい。



  1. 姉がそうである一方で、班長は想像力のみで飛翔していた状態から、現実に目を向けようと炎の中へ足を踏み入れる。妹の旦那は一生その尊い想像力、もとい呪いの中で生きるのかもしれない。

  2. クライマックスで電車『人間のバラード』がかかるときは、やりすぎだと思う一方で、ぐっときてもしまう。早川義夫のカヴァーってのがいいんだ、これが。

  3. だからこそ彼女は死ぬことができない。

  4. 本当に青山円形劇場での『サナギネ』を観ておけば…。

【再演】『母と惑星について、および自転する女たちの記録』 / パルコ・プロデュース 演出: 栗山民也

★★★★☆

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再演

初演も観た。

cobayahi.hatenablog.com

観劇録

どうして初演ではおぼえていなかったのだろう。シオの独白は、これから共に人生を歩んでいくことになるかもしれない相手への、手紙だったということが最後の最後に明らかにされていたのだ。

産む/産まないの選択や、呪いが引き継がれるかもしれないといった懸念は、(婚前妊娠によって物事の前後関係が多少おかしいことになっているとはいえ)この芝居の本質ではないのかもしれない。これは、似たような境遇にある/あった人間がシオの選択に対してああだこうだと述べる話ではなく、もし相手がシオのような人生を送ってきた人であった場合でも受容できるかどうか、もとい受容ができるようになるための話。あるいは、かつてシオだった人、今もシオであるという人…むしろ三姉妹の誰であってもいい、「普通の家庭を知らないのではないか」と懊悩する人たちが心を開く一歩を踏み出すために、蓬莱が贈った後押しだったのではないか、と。

『消えていくなら朝』 よりも前に、家庭に関する話を部分的にではあるが描き出そうとしていたのだな。同作を観てから本作に触れ直した結果、見えてきたところがある。ここからさらに『まほろば』に触れたとき、どのような心象が立ち上がってくるのだろう。

2 年半前にはどうしてここまで考えが至らなかったのか。間に観てきた数十本という演劇、そうでなくとも単純に年月の経過によるものが、感想を変えたのかもしれない。でもおそらくは、2 年前の初演では入り込みきれなかった切迫のシークエンスに、すなわち物語に引きずり込む演技をみせた、芳根京子の力によるところが大きい。

そして、キムラ緑子もまた素晴らしかった。初演の斉藤由貴が醸し出した、浮世離れした美貌の残る「ママ」とは対照的な、生々しい熟女感と演技。コミカルなト書きに対してもよりコントラストを増したアクションで応えつつ、芳根の爆発を受け止める二人芝居の場面では、その切迫を引き締め、芝居をひとつ上のステージへと確実に持ち上げていた。

紀伊國屋ホールに現出する「八百屋」(すなわち、 『朝日のような夕日をつれて』 )に立ち会えたというメタな感慨も、初演を観た北九州芸術劇場よりもこじんまりとした舞台におぼえた少し閉鎖的な視野感覚も、途中から完全に失せる。最後には、そこにイスタンブール「母」を見た。

情報

  • 作 蓬莱竜太
  • 演出 栗山民也(初演より続投)
  • 開演 2019-03-16 18:00
  • 紀伊國屋ホール

出演者