公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『消えていくなら朝』 / 演出: 宮田慶子

副題: Morning Disappearance

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きつかった。

作家というのはある程度、自身の人生を切り売りしながら生きていくものかもしれない。ましてや、そうでもしないと書けないような話を蓬莱の戯曲ではいくつか観た。要素で言えば数知れない。切り売りの中で最後に残ったのが、自身の家族のことだったと。その上でこれは、「これからあなたたち家族を、次の作品の題材にすることを決めた」と彼らに告白した場合をシミュレーションした話だと思った。

2 時間という枠で物語に起承転結をつける、あるいはそのために虚構とケレン味を交えた、あくまで“芝居”ではある。それにしても、新興宗教にのめり込む母親[演:梅沢昌代]。そんな母親に敷かれた団体幹部のレールに乗せられ、挫折し、一般企業の営業職として生活するもどこかで劇作家という職業の弟を蔑むことで心の安定を得ようとしている兄[山中崇]。上の息子 2 人を宗教に持っていかれ、仕事や増築にしか意義を見出せない父親[高橋長英]。その父親に合わせるようにして自身が男であるかのように家族の一員を演じ続けて、取り返しのつかない年齢まで来てしまった妹[高野志穂]。芝居とはいえ、自身の家族を取材したと公言している以上は、相当の覚悟が無いと書けないような錚々たる内訳。

蓬莱の分身であるサダオ1鈴木浩介]も、その家族から距離を置いたために、5 年以上あいた帰省ではよそよそしく、へらへらと会話するほかない。そんな間合いの作家が“普通ではない”「家族」に、場違いともタブーとも取れる話を持ち掛けたことをきっかけに、家族全員が目を背けていたひずみが少しずつ、終章『崩壊』に向かってずれ始める。

鑑賞の最中から、何か蓋をしたかったものをこじ開けられほじくりだされているような心地の悪さと、近しい境遇の人間を見知ったときに感じるような安心との狭間をずっと行き来させられているような感覚で、揺さぶられるかのように消耗した。でも、不思議と後味は悪くないのだ。何かを通した代弁を受け取ったときの「言ってくれた」という安堵感は、想像以上に大きいのかもしれない。

サダオの家族不信の根本は、幼少の頃の夜中の記憶に端を発する。兄弟が川の字になって寝ている中で一人だけ目を覚ましていた彼は、両親の離婚話と、それに伴う子どもの親権の話を耳にしてしまう。母親は兄を、父親は妹を迷わず取ったが、サダオに関してはついに、どちらも引き取るという言葉を出そうとしなかった。やがてそれは、それ以前にもあったという喧嘩のひとつとして夜の中に霧散し、朝、何事もなかったかのようにいつもの「家族」が戻ってくる。そういった「朝」に、サダオはずっと気味の悪さを感じながら数十年を生きてきたというが、劇中において彼は、激しく口論し泣かせまでした兄との関係性を、場面転換した次の瞬間にはかなり修復できてしまっているような具合なのだ。一方で自身の告白によって取り返しのつかないまでに綻びた今回の帰省においても、また朝になればいつものような食卓が始まるであろうことに、変わらない恐怖を抱いてもいる。

例えば「家族だから」の一言で何かが収まろうとするとき、人は本当は一体なにを拠りどころとしている/できるのだろう。あるいは、サダオの婚約者[吉野美紗]が言うように「普通の家族なんて存在しない」のかもしれない。散々サダオの実家の悶着を見せつけられた終盤、この台詞と共に彼女は自身がフィリピン人のハーフであるという婚約者にも伝えていなかった事実を、その場で初めて打ち明けることになる。この「フィリピン」という単語ひとつで何かが弾けたように笑い続けられる観客は、この芝居に入り込むことなく俯瞰できる数少ない人のひとりなのだろうか。そのような育ちも決して、人並みであるとは思えないのだけど。

蓬莱はサダオと異なり、家族には相談しないという選択を以ってこの戯曲を上梓した。去ろうとする婚約者に「(この家族を題材とするかどうかを改めて)考える」とだけ返答し、朝焼けの空に目を泳がせるサダオが最後にどちら側に振れたのか。観客に解釈をゆだねるラストシーンは数多あれど、ここだけはずっと答えが出てこない。

  • 演出 宮田慶子
  • 作 蓬莱竜太
  • 開演 2018-07-29 13:00
  • 新国立劇場 小劇場

  1. 同じく私戯曲の香りを漂わせる 『回転する夜』 においても、同名の人物が主人公の兄として出てくる。劇中の家族構成は異なるが、海沿いの町の一軒家が実家であるという部分などに共通点がみられる。