『バロック【再演】』 / 鵺的
目をひらけ
耳をすませ
秘められた言葉を解き放て
あの呪われた場所で
またふたたびぼくたちがめぐりあうために
どこがどう変わったのか初演の映像、あるいは台本を観直しながら確かなリファレンスを基に検討することも可能ではあるけれど、2 年を隔てたいま比較のために初演を観てしまうことで当時の記憶のスナップショットが改竄/混濁する可能性もあると思った。ゆえにまず書いて、書き終わって暫くしたら観なおすことにする。
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初演 はスズナリの最前ゴザ列であったこと、初見であったことによる演出の予想のつかなさ、それらが大いに体験を決定づけていて、さながら屋敷の中にいるかのような没入の最中にいたことを憶えている。視点としては洋館に在り続ける死者の魂だった。得体の知れない感染症が少しずつ生活圏を浸食していく中でスズナリに、あるいはあの洋館に閉じ込められるシチュエーション1が変に神経を昂ぶらせていたこともあるかもしれない。
そういった新奇さゆえ展開の比較的細部まで身体が憶えていたこともあったが、今回は初演の没入とは無縁のところに居た。より正確に言えば、劇場という場が没入という体験から距離を置かざるを得なくなっている。飛沫防止の観点から演者と観客の間には「2 メートル」という距離が明確にひかれ、かつてあったゴザ席は取り払われていた2。初演と同じようにつくられた館のセットもそういった「隔絶」を汲みとってか、凶々しさとは異質の、台本設定の通り「作り直された」ような雰囲気をたたえる。
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これは良し悪しの話ではない。フライヤーの色彩やコピーが初演と反転しているように、意図的な制御の下にあるようにも思える。何も分からず敢えて無視するしかなかった病魔は、場をどう統御すれば拡大を防ぐことができそうなのか少しずつ分かってきている。
同じように、見えない意志に、家族という組織のかたちに、血という呪いに引き込まれ磔にされ踊らされるという、呪いの場を躰全体で浴びるための没入のしかけは意識的に和らげられ、絶望が、死が、捨象されたのではないだろうか。
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創作がわざわざ描くまでもなく国内も、そして海外もそれぞれの先暗さをたたえるようになった今、それらに曝される場は現実だけで充分という厭世感も理解はできる。しかしながらきっと、その頃の創作が絶望や死を照らしていたのは、そこに同時に在る希望や生を掬うためであったはず。
世界が明らかに先暗さへ両足を踏み入れる前からそこにあった作品をもって、初演が象っていたものの裏側を際立たせる試みを図ったのだと思われる今回の再演で、喜四郎のキャスト交代によって御厨家はより機能不全を表出させていた。血や法の下にあたりまえのものとして在る「家族」という関係性には、禎巳とひとみが改めてなぞるようにひびを入れる。光仁はふたたびたちあがった洋館という「家」を、姉妹の始める戦争を眼前に燃やし尽くす。血という境目の外、養子という枠組に在って外からはるかを扶けるというプロットを強く感じた初演と異なり、内側から「殻を破」ることで出てくる破壊の色合い。そもそも自壊が前提にあるような、今回の喜四郎に漂う虚無感。
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そして秘書 津山の佇まいの違いが来る。奥野亮子の演じた津山3より神経質にみえる小崎愛美理の津山には、最後の選択でもシングルマザーとしての家庭のあり方に不安定さ/不確かさを滲ませているような感触が強い。このあたりの、わからない現実に対する確信の無さを as is で描いているようなさわりも、今の先暗さ ― 生がもたらす絶望というひとつの象限をかたどっているかのようであった。無論、悲観的でありながらその先にあるのであろう自らの生存意義を掴むために、津山は初演と同じく帰還を選んだはずである。客体的な不仕合せではない、個のそれぞれが至るべき希望に向かうときの、この何ともな寄る辺なさは、初演のあとに挟まれた 『夜会行』 のニュアンスを踏まえての、単なる再生ではない再演が立ち寄った先ということだろうか。
鵺的 第 15 回公演 『バロック【再演】』