公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『悲しみよ、消えないでくれ』 / モダンスイマーズ 句読点三部作連続上演

山よ。

句読点三部作

『死ンデ、イル。』
『悲しみよ、消えないでくれ』
『嗚呼いま、だから愛。』
句読点三部作連続上演
『嗚呼いま、だから愛。』
  • 2018-04-19 → 2018-04-29
『悲しみよ、消えないでくれ』
  • 2018-06-07 → 2018-06-17
『死ンデ、イル。』
  • 2018-07-20 → 2018-07-29

悲しみよ、消えないでくれ 東京芸術劇場www.geigeki.jp

キャストをほぼ維持した再演

連続公演の負荷分散のためか再演に際して、モダンスイマーズ劇団員に関しては(主宰と古山を除いて)代役を充てた“お休み”作品が存在する。本作ではかつて津村知与支が演じていた役を岩瀬亮が代演1

キャストが維持されているからこそ、演技や演出における差異が浮き上がって見えた。むしろ、そのような座組による“再解釈”そのものをひとつの目的としていたように思える。

特に大きく変わったなと思ったのは、キャストが交代した友之と、主要登場人物といえる 3 人、すなわち忠男、梢、寛治。

友之[演:津村知与支→岩瀬亮]

サイコになってた。

津村の演じていた友之は、頼りない素面と暴力の出る酩酊との間のコントラストにコメディタッチな差分が出ていて、特に酔っぱらったときの荒れ具合においては、シーンそのものは緊迫した痴話喧嘩ではあるものの、笑いとペーソスが支配的だった。

岩瀬の友之は、なんか怖い。本当にいるとすれば、友之はどちらかというとこっちなんだろうなとも思う。暴力に刃物を装備してきそうというか。そうでもしないと陽菜に立ち向かえない弱さも持っていそうな、その生々しさとか。スナック菓子の袋を放り投げた瞬間のゾッとする感覚は、津村の友之には無かった。でも、この友之だからこそ終盤の忠男への同情や、この山小屋の異常な状況に気付く一般人(あるいは健常人)としての視点を彼だけが取り戻す瞬間に、らしい説得力が出ていた。生々しい芝居における最も生々しい存在というか。ほかの登場人物のある種異常な人間臭さとは異質。

この役を代えてきたのは面白かった。岩瀬亮、良かったです。

忠男[演:古山憲太郎

演技から、わざとらしさが抜けたなと思った。コントラストが落ちたようにも見える。それがすごく良かった。

災害をテーマにしているという側面や、初演時の雰囲気あるいは句読点三部作の上演意義とかを考えれば、役者は“事実”に負けまいと、りきんでしまうことがあったのではないかと思う。それは時に芝居がかりすぎた演技を誘発する。初演の忠男のクネクネした感じとか、怒りに曝されたときのふるふる震える感じとか、あの小動物感とか。それらは芝居がシリアスになりすぎないための雰囲気づくりに買っていたとは思うし、実際あの演技は絶妙に啜り笑いが出る感じで、初演の解釈も決して嫌いではない。

あれから 3 年経って再びこの作品に向き合ったときに、例えば 3.11 からもだいぶ時間が経ったとか、災害を取材する芝居において実は役者はどうあるべきだったかみたいなことに、おそらく座組全体としても役者個人としても、真摯に向き合い直したのだと思う。その結果としてか演技のコントラストを落としていたのは、良い方向に動いていた。

本当に俺だけがダメなんですか、っていう台詞に情けなさのような含みは無くなっていて、問いかけとして、きわめて純粋に切実だった。芝居のテーマが強化されたなと思った。

梢[演:生越千晴]

意識の向けかたや方向修正の基本は、忠男(古山)と同様のアプローチだったのではないかと思う。

初演の梢はもっと冷たい印象を受けた。凛としているというか。今回は、ろくに山を下りたことのない、まだ世間をよくわかっていない雰囲気を湛えていたような気がする。もともと初演でも梢はそういう人間だったはずだけど、この感覚は再演になってようやく入ってきた?やはり自然な方向に近づいていったのかな。

その結果として、最後に一葉のことを語る際に、初演では感情を表に出さないように頑なになっていたような声が、再演では震えていたのかなと思った。ああいうときの人間の感情を素直にトレース(?)しようとすれば、普通は感情が溢れてくるはずだ。自分でもどう扱ったらいいのかわからないその感情の奔流を持て余している感じが、それでも山を下りることを決断している自分への戸惑いと綯い交ぜになっているようで、非常に良い再解釈だなと思った。

凛とした決意をもって山を下りていく梢も好きだったけど。芝居くささを抜いた忠男に沿う切り口として適切なのは、こっちだなあ。

寛治[演:でんでん]

これは寛治単体というよりも、最後の山小屋の演出と絡めて。

初演では、寛治以外の全員が山を下りた後、取り残された寛治の感情を顕すかのように舞台が暗転する。凄まじい破壊音と共に山小屋セットの梁がおっこちて、頽れた山小屋の後ろには白馬尾根の吹雪、その吹雪を背景として、被さるように座り佇む寛治の影、みたいなセンセーショナルなラストシーンだった。

今回は全く違った。取り残された寛治はストーブ脇の椅子に座り、そこに電球色の照明(おそらく朝陽)が差し込んでくる。遠くをみつめる寛治の上、頽れもしない山小屋の天井から、しんしんと雪が降ってきた。愕然とした。それこそ初演と寸分も違わないような、緻密なあの山小屋が目の前に帰ってきていたから、当然あのギミックも仕込まれているものだと思い込んでいた。

でも、この方向修正もやはり再演の方向性に寄り添っていて。寛治の独善的な“悼み”の感情の根底にあるのは、一葉(の死)を皆に忘れてほしくはないというある種のエゴであろうから、梢でも、忠男でも、あるいはほかの誰でもいいから、一葉を知る人物がまたこの山小屋に帰ってきてほしいと願っているはず。だから、ショックのあまり山小屋が壊れてしまうような自己破壊的な画づくりでなはく、再び自分の感情を共有したい(独善的に押し付けたい…)相手の帰りを待つような画になったのではないかな、と考えた。寛治は忠男に帰ってきてほしいから、「行かないでくれ」と最後に声をかけるのだ2

このラストに至るまでの台詞におそらく有意な変更はないし、ラストシーンにはそもそも台詞が存在しないから、台本に書かれている文字は全く同じでも演出ひとつで鑑賞者に与える印象がここまで変わるんだという、これ以上ないケースになっていて。こういう再演が観たかった。すごく良かった3


出演

  • 古山憲太郎:忠男(土砂災害で婚約者の一葉を亡くした男)
  • 西條義将:清一郎(忠男の山岳部時代の先輩)
  • 今藤洋子:ゆり子(清一郎の妻、忠男の山岳部時代の仲間)
  • 小椋毅:紺野(忠男の山岳部時代の仲間、窓拭き詩人)
  • 伊東沙保:陽菜(麓の荷揚げ屋)
  • 岩瀬亮:友之(陽菜の旦那)
  • 生越千晴:梢(一葉の妹、寛治の次女)
  • でんでん:寛治(山小屋のホスト、一葉と梢の父)

日時


  1. 同じくキャストをほぼ維持した『嗚呼いま、だから愛。』では小椋毅→小林竜樹に交代。『死ンデ、イル。』では生越の出演がない。

  2. あるいは、忠男に『贈る言葉』を歌うのだ。

  3. すごく良かったし、この再演を観てから、『嗚呼いま、だから愛。』の再演も観ておけばよかったのではないかと少しだけ後悔したりもした。