公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『ヒッキー・カンクーントルネード (2021)』 / ハイバイ

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これ を書いていた当時は知る由もないが、ちょうどこの前後数日間が東京都の新規陽性判明者数のピーク(さらにいえば 8/13 は一日当たりの都内新規陽性者数の最大値であった1)となった。そういう時期であった東京公演を乗り越えたからには巡業も為し遂げられるのかと思いきや、首都の指標の増減だけでは推し量ることのできないもの、あるいは決断についてまわる遅効性の何かがあったのだろうか、地方公演は出演者の変更2や一部地方での公演完全中止3といった足跡を辿る。

そして 2021 年の「ヒッキー・カンクーン」に立ち会うことをあきらめて書いた上の懸念は杞憂もいいとこで、今回配信された東京公演を見る限り、自分のある種のステレオタイプよりもよっぽど中立的な立ち位置に沿って演出がし直されていたのではないか、というふうに感じる。

みちのくプロレスの日、登美男は外に出たのか?

11/27 現在、Prime Video の 2010 年版4は既に公開終了となっているため確たる検証がしづらい。くわえて記憶が定かであったとしても鑑賞者はあくまで、外で電話している母親の科白をもって「母親の目に映る事実」を想像するしかなかった(当該の場面において、登美男は直接的には鑑賞者の前に姿を見せない)。なんにせよ記憶の範囲では 2010 年版は、みちのくプロレスの地方巡業をその目で観るために登美男が外に出たらしいというところで芝居が終わっていたはずで、8 月の自分はその結末に 2010 年当時の希望と 2021 年 8 月 13 日現在の(個人的な)悲観とのギャップを強く感じていたはずである。

しかし今回はそこが曖昧になっていた。公衆電話のボックスに佇む母親は、興行プロレスの客入りやそれが開演したかどうかの方だけを見ている。綾の後に家を出てくる(かもしれない)登美男の可能性を想像することなく母親の注意はプロレスそのものの方に吸い寄せられていき、そのまま舞台は暗転していく。

もともとこのラスト自体が公演ごとに変わっていたようで5、しかしながらその変遷がどの程度時事性を織り込むのか(あるいは織り込んできたのか)は現在から想像はつかない。そもそも 2010 年版のような結末よりもさらに「外に出た」決断を尊ぶ展開がそうそうあるとは思えないが、あの市中感染の情勢下で鑑賞のために劇場へやって来た人々に見せる 2021 年の演出を「一億総引きこもりからの解放」賛歌のようにしなかったという点では、観に行かないという選択をした人間に対してもその意思を最大限尊重しているようにも思えてくる。当時の様々なイベントが採ったような無観客上演方式を選ぶこともできたかもしれないし、少なくとも 8 月の私もその方向を模索できはしなかったのかと考えたりしていた(このような配信の形態が実現すると思っていなかったので、なおさらだ)。ただ、完全無観客という「観衆総ヒッキー」状態で今回の結末の描き方をすると、却って「外に出ないという選択」の方を贔屓してしまっているように映ったかもしれない。そういった内省もあるのだが、結局のところ登美男が外に出たのかどうかは今回わからないのだから、総てをまとめてニュートラルだったと、そういう捉え方をしている。

あいうえ

2010 年版では「愛」から「あいうえ」への言い換えに造語のような含意を感じた、あるいはそれに近い作為を想像することを肯じるようなニュアンスを見聞きしてとったのだけど、今回はここも曖昧になっていたような気がする。「愛(あい)」だと小っ恥ずかしいから単にアイウエという意味のない言葉に置き換えて話を進めていったかのような演出。2010 年版では強調されていた感のあった綾の、独りよがりで押しつけがましい「思いやり」(=「愛」)への後悔を、2010 年当時の演出では「愛飢え」と文字っていたのではないかと考察してみたりもしていたのだけれど、はなからそんな含意など無かったのだろうか。

圭一、もとい出張お兄さん/お姉さんとは何者なのか

『ヒッキー・ソトニデテミターノ』をみればわかるかもしれないようなので5、機会を伺うことにする。


「ヒッキー・カンクーントルネード」
  • 出演(東京公演「拝み渡り」チーム)
    • 富川一人
    • 藤谷理子
    • 藤村聖子
    • 町田悠宇
    • 山脇辰哉
  • 作・演出 岩井秀人
  • 於 すみだパークギャラリー SASAYA
    • 2021-08-17 19:30 の上演回より