公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『悲しみよ、消えないでくれ』 / モダンスイマーズ

句読点三部作

『死ンデ、イル。』
『悲しみよ、消えないでくれ』
『嗚呼いま、だから愛。』
句読点三部作連続上演
『嗚呼いま、だから愛。』
  • 2018-04-19 → 2018-04-29
『悲しみよ、消えないでくれ』
  • 2018-06-07 → 2018-06-17
『死ンデ、イル。』
  • 2018-07-20 → 2018-07-29

モダンスイマーズ「悲しみよ、消えないでくれ」 東京芸術劇場www.geigeki.jp

シアターイーストの特徴的なコの字型座席配置を使って、閉塞感のある山小屋の一室を客がぐるっと囲って観覧する舞台構成。上手側から鑑賞。小屋の美術は限りなく精巧に作ってあって、いったん芝居に引き込まれると、向き合って座っている下手側の観客の存在なんて完全に見えなくなるような臨場感に何役も買っていた。

“悼む”ということの独善性にフォーカスした、やるせない話。人は死んでも他人の記憶の中に生き続ける限りは生きている、とは良く言うけれど、どういった人間にどういった側面が見えていたかは異なるし、その解釈によっても故人への印象にはフィルタリングがかかる。ましてや年月まで経てば。

雪深い季節、麓の土砂災害で命を落とした一葉の二回忌(?)のために、尾根の山小屋には今年も知人たちが集う。一葉の父であり山小屋のホストである寛治[演:でんでん]。寛治の孫に見えなくもない一葉の妹、今冬で山を下りる梢[生越千晴]。事故以来、山小屋に住む元婚約者の忠男[古山憲太郎]。不妊に悩みを抱える、忠男の山岳部時代の先輩夫婦[西條義将、今藤洋子]。どこか面倒くさい山岳部時代の同輩であり今は窓拭きの詩人、紺野[小椋毅]。麓の商店夫妻[伊東沙保、津村知与支]。

会の主催は寛治によるもので、娘に先立たれた父親ということもあり、悼むということに特別な思い入れがある。周りから見れば“悼む”ことそのものに執着しているかのようで、父親としてのその気持ちに同情はあれど、2 年という月日はますます感覚の乖離を生んでいく。各々の口から語られる一葉の像あるいは彼女の口から語られたという言葉にも、齟齬が出てくる。

他人の記憶の中に生き続ける限りは生きている、って、本当のところはどうなんだろう。本人が望む望まないに関わらず、その人間の中で独善的に生かされ続ける故人という存在。残された人間のフィルターによって変質した故人の写像は、もしかするとそれを語る人間だけに見せた側面であるかもしれず、その真偽も訂正も、もはや有り得ない。年月も経ってますます開いた齟齬は冬の山小屋という、おいそれと脱出もできない密室の中で増幅されて、一夜にしてコミュニティを崩壊に追い込んでしまう。言霊と、死人に口なしの相乗効果だな。あと山小屋の閉塞。

古山憲太郎が始終、クネクネヘラヘラした甲斐性なしを演じる。その演技自体には時折わざとらしさすら感じたが、だからこそ底意地の悪すぎる人間模様をシリアス一方に追い込むことなく、紙一重で苦笑~啜り笑いに引き留める絶妙な影響力。本当に古山と津村がいなかったら芝居かどうかすら怪しい。観てて具合悪くなるんじゃなかろうか。だからこそ終盤までのミスリードが効いてくる。本当に俺だけがダメなんですか、って忠男の叫び、内向きな自省・混乱というよりも真摯で必死な外向きの問いかけだよね。

麓からぞろぞろ上がってきた意地の悪い大人たちと、そのぐっちゃぐちゃの崩壊を見てもなお、姉ちゃんの最後の言葉を確かめるために山を下りることを選んだ梢。観客は一葉の像を、寛治と忠男という両極端な側面からしかほぼ知りえなかった上で、2 時間で形成された各々の一葉像を無かったことにするかのような最後の発露。あふれてもおかしくない感情を抑制していたのが良い。梢が先なのか生越が先なのかわからないくらいハマった佇まいと役回りだった。この芝居のためにピンポイントで引き抜いてきたと言われても、信じてしまいそう。

寛治の独善は劇中、最後まで治らなかったし、これからも自分の中の一葉に固執し続けて残された時間を過ごすんだろう。『贈る言葉』、忠男に歌っちゃうんだもんな。寛治の中の一葉を誰も顧みることがなくなったとき、存在意義と共に山小屋の梁が落ちる。崩れ落ちた屋根からは、寛治の心象風景と重なる吹雪。暗転で派手に破壊音きこえたときは本当にびっくりしたけど、あれだけ精緻に作り込んだセットをセンセーショナルにぶっ壊すのもまた芝居の極致だ。でんでんもすごく良かった。

「人が突然死ぬってことは怖いことだ」、2 時間の観劇で物凄い言外の意味が背負い込まれる。だからといって、来るかもわからない突然死に備えて生きるくらいなら冬の尾根で寝転んでた方がましだし、突然死ぬために生きてるわけでもない。人はああまでなって、それでも他人に憶えていてもらいたい、悼まれたいって、死ぬ方も残された方もそこまで死後の生に執着したいのかな。「あの時ああしていれば」が、過去ではなく未来を向いたような話。侘しくも、非常に良かった。

舞台に積もる雪と一致した冷ややかさ。冬晴れの池袋西口


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