公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『死ンデ、イル。』 / モダンスイマーズ 句読点三部作連続上演

音楽を聞きながら。

句読点三部作

『死ンデ、イル。』
『悲しみよ、消えないでくれ』
『嗚呼いま、だから愛。』
句読点三部作連続上演
『嗚呼いま、だから愛。』
  • 2018-04-19 → 2018-04-29
『悲しみよ、消えないでくれ』
  • 2018-06-07 → 2018-06-17
『死ンデ、イル。』
  • 2018-07-20 → 2018-07-29

死ンデ、イル。 東京芸術劇場www.geigeki.jp

ポスト 3.11

フィクションよりも奇なるものが起きてしまったことで、創作をする人間は否が応でもそれに向き合わざるをえなくなってしまった。

映像作品、特に映画やアニメは比較的に、大災害を劇中で表現しやすい媒体かもしれない。演劇はそうもいかない。では、演劇はそういったものを描けないのか?いろんな作家が考えたと思う。劇中での表現に敢えて挑戦した芝居も勿論ある1。しかしそもそも、大災害そのものを劇中で描写する必要があるのか。災害によって何が起きるかというと、人の生活が変わってしまう。極端な例では人の生命そのものがそこで絶たれるわけだけれど、そうでなくとも死や破壊に直面した人の生活を不可逆的に変容させてしまう。『句読点三部作』は、災害そのものを描くことなく、そういう人たちの生活を描いている。

「私たちの町は、突然住めない町になった」

福島県浪江町を巻き込んだ“災害”で、女子高生の七海[演:片山友希]は姉夫婦の咲[成田亜佑美]・幹男[津村知与支]と共に、二本松のユウコおばさん[千葉雅子]の下へと疎開することになる。“災害”そのものでは怪我もなかった七海は、その疎開生活をはじめて一年以上たった後に、失踪する。

本編の時間軸に七海は出てこない。咲、幹男、ユウコおばさんをはじめ、疎開生活における彼女の関係者が一堂召集された部屋で、あるルポライター[小椋毅2]の取材により語りだされる回想の風景として、七海を中心とする疎開生活が描かれる。回想の手掛かりは、関係者から語られるインタビューの内容と、疎開生活中に七海が片時も手放さなかったはずの、そして何故か今はルポライターの手元にある一冊のスケッチブック。

保護者が必要な子供が保護されなくなるときに、起きること

本作における「“災害”が人に及ぼすもの」は、端的に表せばこういうことかなと思った。

両親とは“災害”に関係なく数年前に離別または死別。七海は姉夫婦ひいては叔母の下に身を寄せるしかないのだが、既に家庭がある姉にとっても、突然同居することになってしまった叔母にとっても、決して歓迎される存在ではない。手狭な三世帯住宅のようになった叔母の家で、幹男は酔った勢いで七海にちょっかいを出そうとするが、どういうわけか姉の不興を大いに買うのは七海の役回りになってしまう。

かねてから付き合っていた翔[松尾潤]は二本松への転校を機に軽薄な男に変貌し、七海のことを気にかけてくれていた丸山先生[西條義将]もユウコおばさんと…そこに七海が偶然いあわせてしまうことで…。

“災害”を機に変わってしまった環境の中で、七海はあらゆる人間関係の貧乏くじを引いてしまう。決して悪くないはずの人間が、成行きで不興を買い、忌まれ妬まれるスケープゴートのようになっていく積み重ね。身も心も貧しくなると大人はこんなものだし、大人を通してでないと世界の見えてこない子供にとって、それは…。

今日から私は、
廊下の押し入れで
寝ることにする。
ドラえもんだ。

うずくまる七海。スケッチブックに書いた言葉が、背後のスクリーンに投影される。

追いつめられる少女

natalie.mu

劇中もっとも鮮烈に残った景色が取材写真に残っていた。

都会から帰省してきた気前の良い兄貴肌の親戚、セイタにいちゃん[古山憲太郎3]。困ったら面倒見てやるよ、と何気なく発したその言葉に、二本松にはもう居場所のない七海は必死の SOS を発するが、姉や叔母からは、まだ子供なのに、都合が悪くなったら逃げるのか、といった嫌味が飛んでくる。セイタにいちゃんも手のひらを反すように、まだ若いんだから選択肢は無限にあるだろうよ、と宥める。

やっぱり選べない。

観客の視点からは表情が伺えないこのシークエンスで、彼女は完全に毀れる。息苦しくなる、芝居のハイライト。

転落、怒涛の終盤

もうどうでもいい、お母さんに会いたい。お母さんお母さんお母さんお母さんお母さん…背後のスクリーンを埋めつぶす七海の文字。

暗転した舞台が再び明るくなった時、その七海の独白を唱えているのはルポライターの古賀。手には七海のスケッチブック。それが七海にとっての何なのか、どこから手に入れたのか分かりかねて混乱する被取材陣を前に、懐からウィスキーの瓶を取り出してかっくらい始める古賀こと小椋さん。ここからラストシーンまで凄まじい勢いで話が展開するんだけど、この酒のんでからの小椋さんが凄くいいんだ。

ルポライターとセイタにいちゃんが W キャストだったのは 2013 年の初演から。ただ当時は小椋さんがルポライターだったバージョン4が演出の仕上がりの質を理由に、上演期間中に中止になってしまい、もうひとつのバージョンのみになってしまったのだそうだ。古山の回顧5によれば、今回の再演にあたって B バージョンのリベンジを提案してきたのは紛れもない小椋さん。できれば両バージョン観たかったのは当然だけれども、回想中に七海を見つめる表情や、酒のんでからの感情の発露は、本当に小椋さんで観られて良かった。客出しのときに伝えたかった。

そして、失意のうちにたどり着いた浪江の家をこんな酔っ払いのよくわかんないおじさんに雨宿りに使われて、最悪の家と言われて、腹の底から怒りを絞り出す七海ちゃん。一言に集約される、そこに本来あった生活を奪われた人の感情。

あるいは、行き先に関する妹の書置きを知りながら、最後まで関係者全員に黙っていた姉。理由を詰問され、一度も海を見たことがない妹が最期に海をみにいくだなんて、そんなの綺麗すぎるから、といって泣き出す。ほんとに嫌になるくらい底意地の悪い台詞だけれど、肉親だっておかしくなってしまえば、こういう感情は持ちうるし、この台詞の隣で並行している別の展開との組み合わせによって、その言葉と場景を焼きつけられ、それらが意味するところを考えつづけながら劇場を出ることになる。

祈りの躍動

この芝居には、セイタにいちゃんだけではなくもう一人、インタビューには現れないビーマン[野口卓磨]という登場人物がいる。中高生のコミュニティなんかに、もしかするといたかもしれない、地域の変質者。都合が悪くなると叫ぶから、叫「ビーマン」6。“災害”が起きる前はある種の被害者的な役回りであった彼(ら)は、大量に生じた新たな“被害者層”によって、その立場さえも奪われて何者でもなくなってしまう。こういった犠牲の上(あるいは下)の犠牲を描いているからこそ、うわべだけではない本当の被災による変容が生々しく板の上に出てくる。

七海ちゃんの異変を察知でき、彼女に本当に共感できたのはビーマンひとりだけなのだ。失踪の日、そんなビーマンに七海は自分のスマートフォンを託す。浪江町津島まで 34.7 キロ、母親の下へ行こうと海辺にたどり着いた彼女は、最後にビーマンに電話をかける。「帰ってくるのか?」という電話口からの彼の問いに、こう答える。

帰らない。そっちに、向かう。

板の上に青白く伸びる一本の照明が、そう応える少女を照らす。逆光。ヘッドフォンを耳にかけた彼女は舞台の奥に向き直り、足踏みを始める。ビートが流れる。奔流の赴くままに躍り続ける少女を上手から見つめる姉は「綺麗すぎる」光景を前に慟哭している。U2 の "California" が大音量で鳴る。『失われた日々は戻ってこない。でも、それでいいじゃないか』

スクリーンに浮かび上がった「死ンデ、イル。」のタイトルが、「生キテ、イル。」に書き換わる。

「新生」に相応しかった片山友希の立ち姿

薄味の貌に陰影が刻まれる瞬間。前下がりの髪で表情が隠れる場面。最後、鼻の下に血糊をべっとりとつけた7ままカーテンコールに出てきた時の、さっぱりとしながらエネルギーに満ち満ちた目。

片山友希、どんな客演だよ。

『死ンデ、イル。』初演は元々、それまで男 5 人だった劇団に心機一転、若手女優を向かえての「新生」モダンスイマーズの旗揚げにあたる公演。その女優は公演終了後に脱退してしまい、再びの模索を経て迎えた生越を加えての 5+1 編成になって、モダンは今に至る。ある意味では新生の出鼻をくじかれた恰好でありながら、当初の公演順とは逆転させた連続再演の総括に、生越ではない全く新しい客演女優を据えた上で、ほぼ新演出でもってきたのが今回の『死ンデ、イル。』だ(他 2 作は細部を除けば普通の“再演”)。

涙が出るとかそういうのではなく、鑑賞後、最後の“躍動”に中てられたかのようにしばらく座席から立ち上がれなかった。3.11 から 7 年、あるいは初演から 5 年を経て、ここで句読点を再演する意義も、外へ向ける彼らの祈りも、ぜんぶここに持ってきたんだな。「死ンデ、イル。」の文字が書き換わった瞬間に、総括ではなく、本当の新生が見えた気がした。

だからこそ、ここで終わってほしくない。3 ヶ月連続でフル尺の、密度の濃い芝居を 3 本も上演すれば、どんな集団でもこうなってしまうだろうことは想像がつく。だけど、この先こそが観たいと強く思った。何年かかってもいい。再びモダンスイマーズで彼らの芝居が観られる日を、ずっと待ち続けます。


日時

  • 開演 2018-07-27 19:00
    • アフターイベントあり
      • 演出家 蓬莱竜太と本編未出演の劇団員 生越千晴による絵本の読み聞かせを下地に展開される、ユウコおばさんの視点から見たサイレントな後日譚。読み聞かせ題材はそれぞれ、蓬莱『くぎのスープ8』、生越『まじょのルマニオさん9』。被災を経た人々への蓬莱の祈りが垣間みえる、あたたかい二つの短編。
  • 東京芸術劇場 シアターイース

  1. 劇団鹿殺し 『キルミーアゲイン』 など。

  2. B バージョン。A バージョンでは古山憲太郎が演じる。

  3. B バージョン。A バージョンでは小椋が演じる。写真中央の金髪のにいちゃんが古山演じるセイタにいちゃん B。

  4. 「こってり小椋」バージョン。

  5. http://www.modernswimmers.com/nextstage/index.html#greeting_furuyama

  6. 私の中学生時代には、握手してくるから「にぎり」と呼ばれている変質者がいた。みなさんのコミュニティにはローカル変質者、いましたか。

  7. 浪江の家でルポライターと取っ組み合ったときに出た血。念のため。

  8. おはなしのたからばこワイド愛蔵版(12) くぎのスープ|全ページ読める|絵本ナビ : 菱木 晃子,スズキ コージ みんなの声・通販

  9. まじょのルマニオさん|全ページ読める|絵本ナビ : 谷口 智則 みんなの声・通販