公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『嗚呼いま、だから愛。』 / モダンスイマーズ

句読点三部作

『死ンデ、イル。』
『悲しみよ、消えないでくれ』
『嗚呼いま、だから愛。』
句読点三部作連続上演
『嗚呼いま、だから愛。』
  • 2018-04-19 → 2018-04-29
『悲しみよ、消えないでくれ』
  • 2018-06-07 → 2018-06-17
『死ンデ、イル。』
  • 2018-07-20 → 2018-07-29

【2018-12-07 句読点三部作連続上演を経て大幅に加筆修正】

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らしくないなあ、と思いました。

もちろんこういった創作において感情は物凄く重要な動機だと思うんですけど、あまりにも感情が先行しすぎてしまっていたというか。人の心の機微というのは突然、突拍子もなく振れるときだって当然ある。蓬莱はそういったものを本当にうまく捌きつつ芝居に落とし込む作家・演出家だと思っているし、好きな作家・演出家をひとり挙げろと言われたら蓬莱かもうひとりか、ってくらい好きなんです。だからこそ、これはあくまで 2 時間の芝居であると考えたとき、あるいは 2 時間というまとまりで考えることのできる前、すなわち鑑賞中から違和感があった。

そうしたら、アフタートークのある回だったんですけど、まさに蓬莱自身が消化しきれていない旨の迷いを語っていました。公演 2 日目だったのもあるので、これ以降、日を追って演出面はこなれていったのかもしれません。それ以前の問題として、アフタートークで「この芝居はいまいちかもしれない」に等しいことを、それも 2 日目に言っちゃうのもどうなの?!という感じですが、そのある種の誠実さはむしろ彼の作家性に大いに関係していると思うので、評価するべきなのかもしれない。

『句読点三部作』という呼称でここまでの 3 本が包括されるようになったのはいつからであったか忘れてしまいましたが、3 作に共通するストーリーの基幹、登場人物の生活や意識を変容させる存在である“災害”は前 2 作の天災とは異なり、テロリズムすなわち人災となっています。そして被災、あるいはそれによって身近な人物を喪うという事実が物語冒頭よりも前に位置する、すなわち登場人物にとって災害が「身近な過去」にあたった前 2 作に対して、本作における災害、2015 年の「パリ同時多発テロ」は、まさに劇中で発生はするものの「テレビの向こうのどこか遠い出来事」として描かれます。

劇中序盤から、要所要所で「○○時間前」というテロップが入る。これは、事前にフライヤー「多喜子の声明文」を読んでいたのもあって、多喜子にとっての開戦時刻だと思ってたんですね。実際は、パリ同時多発テロ発生へのカウントダウンだったというのは、まさにそのカウントが 0 になるまで気づかなかった1。結局、始まったのは多喜子の聖戦ではなく、過激派ジハーディストによる文字通りの“聖戦”であった。多喜子自身はその少し前、「1 時間前」あたりから少しずつ戦闘モードに入っていってるんですよね。自分を用水路に落としたグループの中に一貴もいた、っていう暴露もテロの前だったはず。ということは「多喜子の聖戦」とジハードの間には直接的な因果関係は無くて、むしろテロによってスイッチが入ったのは一貴のほうなのかもしれない。

実際、この 1 週間前に激甚といっていい災害の直撃(天災ですが)を受けた身としては、この感覚は決してわからなくはないんです。虚脱するなんてことはなくて、どちらかというとギラついていた。だからこそとにかく芝居は観る、観なければならない、あとうまい肉も食べたい、みたいな勢いで、数日前まで復旧するかもわからなかった空港から飛び立って劇場まで来もした。3.11 のどこか間接的な被災においてはむしろ静謐な虚脱が伴った(もちろん当時の状況やら精神状態やらも関係しているでしょうが)のに比べると、明らかに生に貪欲になっていました。多喜子と一貴のトリガーがテレビの、海の向こうの人間の“愛”(ジハードなわけですから、彼らにとっては神への愛の表現だ)によって引かれたことを考えれば対照的ともいえるのかもしれませんが、いつ死ぬかといった具体的な理不尽を感じたときに希求の側にスイッチが入る、という点では多喜子と何ら変わりがない。何がどこでどう爆発するかの違いだけだと思います。

千恵子がなぜラストに戻ってくるのか、ここは本当に迷いが出ていたなと感じました。多喜子のわだかまりの根源が解消へ向かったところで、その八つ当たりをくらった人間が突拍子もなく失踪から帰ってくる理由はどこにもない。もちろんこの先には、ふっ切れた多喜子が改めて千恵子(あるいは彼女が描いた多喜子の似顔絵から、か)に真摯に向き合う未来があるでしょう。朝日が射すようなその希望を暗示することは重要なファクターではあると思うのですが、そこに至るまでのプロセスはスッ飛んでいるので、唐突で、ユーミン2で押しきられたなあと感じてしまうのでした。千恵子は千恵子で遠くフランスで起きていることに触れ、死を連想させる自身の失踪について、あるいは改めて考え直す機会をもったのでしょうか。

とにかく難産な芝居だったようで、そこが違和感として出てきてしまっている点はどうしちゃったのかなと。ただ、内にあるその原石のような感情の存在は、偶然にも災害に直面したからこそ窺い知ることはできた。上述のアフタートークで蓬莱と対談していた演劇ジャーナリストには、安易に本作を「最高傑作」とは言わないでほしかったです。ああいった壇上で全肯定以外の言葉を出すのも、それなりに勇気のいることではあるでしょう。しかし蓬莱自身がそこで、まだ消化不良が残っている旨を正直に語ってもいたわけです。「最高傑作」は、言葉選びが足りなかったのではと思っています。

本作も、再演ではもう少し解釈が進んでいたのかもしれません。連続上演の『悲しみよ、消えないでくれ』を観たときに、そう思いました。しかし、演出だけで解消されるような違和感でもない。何か構造的に引っかかりは残る気がする。上演順を初演とは逆転させた公演順3だったため、『悲しみよ、…』再演時点では既に本作の再演期間も終了しており、再演にあたって何を変えてきたのか、そもそも何か変わったのかどうかは、今となってはなかなか知る由もありません。惜しい話かもしれませんが、逆に『悲しみよ、…』再演鑑賞がない状態で、本作の再演を観たいと思うような引力は生じえなかった事実が、答えかなとも。


出演

  • 川上友里(はえぎわ):多喜子(漫画家)
  • 古山憲太郎:一貴(多喜子の夫)
  • 生越千晴:千恵子(アシスタント)
  • 奥貫薫:慎子(多喜子の姉、女優)
  • 西條義将:細田(慎子のマネージャー)
  • 太田緑ロランス:美幸(多喜子の友人、パリへの引っ越しが決まっている)
  • 小椋毅:光太郎(美幸の夫、クリスチャン)
  • 津村知与支:石井(多喜子の編集)

日時


  1. そう考えるとやっぱり、この作品が前 2 作に連なる災害の話(後の句読点シリーズ)だというのは、少なくとも初演の時点では伏せられていたのかもしれない。

  2. 荒井由実『朝陽の中で微笑んで』。

  3. やはり当初のように本作を連続上演企画のトリに持ってこれなかったところにも、この作品の扱いづらさが表れている気がします。モダンの公演史における『死ンデ、イル。』(初演)の位置づけ、その後の坂田退団や、再演にあたって他 2 作と比べると大幅な手直しが必然であった、といった文脈も非常に大きいとは思いますが。