公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『ゴドーを待ちながら』 / 演劇・時空の旅シリーズ#7 演出: 永山智行

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背景

翻訳ものの戯曲を観ることに本質的にあまり意味はないのではと思っていたのだけれど(韻の消失や情報量の変化などが致命的だと思っているから)、やはり現代演劇において外すことはできない作品であるというのと、鴻上尚史朝日のような夕日をつれて』の元ネタであることもあって(こっちのほうが主要な理由だった)、行ってみることにした。

あらすじなど

ゴドーを待ちながら - Wikipedia

不条理であり、ストーリーラインを語ることは非常に難しい。

鑑賞

特徴的かつ印象的な演出手法として、(おそらく演出家が効果的に見せたいと考えている)特定の台詞の後に舞台が一時停止し、停止中にチェロの擦弦音が 1 秒強入り、また舞台が進行し始める、ということを全編にわたって行っていた。この“停止”の頻度は非常に高い。台詞の意味を咀嚼する時間を与えてくれるという意味では良かったのかもしれないけど、当然テンポが悪くなるので、無駄がないといわれているこの戯曲の良さを殺してしまうという点で、賛否両論だろう(翻訳の時点でその無駄のなさ自体が消失している可能性も否めないが)。

未だに原作者ベケット(Samuel Beckett)の遺族の意向で女人禁制らしいのだが(SHIROBAKO でも本作の台詞を女性キャラに喋らせてしまったことで炎上~当該エピソードが配信停止になったとされる)、カーテンコールの時に出てきたチェリストは女性だった。板の上には一切でてこないので、舞台上の女人禁制は守っているのだろうけど、レギュレーションの裏を敢えてかきにいったような意地の悪さを感じて、苦笑してしまった。これも両論ありそう。

翻訳劇あるいは『朝日のような夕日をつれて』の元ネタとしてはどうだったか

やはり翻訳劇は翻訳劇だったなというのと、特に本作はベケット自身が彼にとっての第 2 言語で執筆しているという事情もあり、ますます(原作者以外による)翻訳劇を観ることの意義について考えることになってしまった。

日本人には『朝日のような夕日をつれて』があるから、そっちを観ればいいじゃないかと。

あるいは割り切って観ていくにしても、ある演出をひとつ観ればいいという感じではない気がする。それこそ様々な訳、様々な演出で、数を観ないと、翻訳劇を評価するのは難しいなと感じた。

余談(追記)

上述の「レギュレーションの裏を敢えてかきにいったような意地の悪さ」は思い過ごしではなかったようで、そのアグレッシブ(?)な制作方針は 後の同企画シリーズ別演目にて、開演直前に急きょ公演中止に追い込まれるほどの問題に発展することになる

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