公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『外地の三人姉妹』 / KAAT×東京デスロック

deathlock.specters.net

今年は韓国発の表現に足を踏み入れた年だった。演劇を思うように観られなくなって音楽に対する揺り戻しが来たときに、どのような経路をたどるにせよ K-POP を聴くことになるのだろうという漠然とした予感が先ずあった。その予感が現実に近づきつつある頃に演劇の側から『愛の不時着』に対する絶賛の評が舞い込んできて、飛びついたところ見事に持っていかれた。流れで NIZI Project を観てからは、もう彼の文化が生活の中に入り込んでいるといっていい。彼らの創作におけるある種のかがやきのようなものには、思えば年始に『パラサイト』を鑑賞したときから中てられていたという気がするし、漠然とした K-POP への予感もそこに端を発していたといえる。ということは、本作の鑑賞は年頭からまるまる一年かけた韓国カルチャー行脚の総括になるのだろうか。

もともと本作を観ようと思ったのは(もちろん韓国の取材を意識しなかったとは言わないが)どちらかというとチェーホフの文脈で、昨今の状況もあり遅れに遅れたチェーホフ演劇鑑賞実績を、完全ではないにせよ解除するという目的があった。というわけでこの『外地の三人姉妹』、舞台設定は第二次世界大戦前後の日本統治下の朝鮮に組み替えられているが、下地はほぼ完全にチェーホフ『三人姉妹』を踏襲している。では、そのようなテーマの借用でナショナリズムに関する表現が成立する場合、〇〇(国名)カルチャーというのは一体なんなんだろうか?ということでもある。『ライトアップ・ザ・スカイ』で BLACKPINK のプロデューサーが似たようなことを言ってもいる。『韓国語で歌っているからそう呼ばれるのだろうか?「K-POP」とは一体なんだ?』と。

だから、この芝居を単純に日韓で語ること自体は微妙な向きがある。国名ないし土地の舞台設定でラッピングしてしまえばそのように見えてしまうこと、原作がロシア戯曲であることを忘れてしまうというポイントがこの芝居の面白さであることは間違いない一方で、仕組まれた罠にも似ている。言語によって隔絶された文化、あるいは文化によって隔絶された言語、によって醸成される社会群とその多様性は意識しながら『三人姉妹』のトレースであることを踏まえる。そのうえで外地入植者の内地「東京」への慕情、帰京への思いをパースすると、当時のとある階級、とある特殊な立ち位置からすればこれは普遍的な現実だったのだろう。見えてくるのはこの帰京という言葉とは対照的であるものの、上京になぞらえると現在でも散見される感情である。生まれ育った土地を離れて上京するという選択、文化や社会の基盤が異なる土壌への転進に際して「帰る場所があるからがんばれる」という言葉を聞くことがあるのだけれど、その帰る場所というのがまさに本作における内地、原作におけるモスクワだとすると、ひとはいかに実際は後ろ盾にもなんにもなっていないものを依りどころとして生きているのだろう。

全体を取り巻く不安、秩序の喪失、ロールモデルのリセット。コロナ禍でますます浮き上がってきたこれらは、すべて戦時に似ているのだと思う。その中で前を向いて生きること。「前ってどっち?」…たしかに必要なその前を向くということに対して劇中、出征する婚約者を同僚で「あるはずの」日本軍関係者に斬殺されてしまった三女が慟哭とともに問う。それに対する長女の返答が「皆が向いている方でしょう?」と同じく涙ながらに応えるのだけれど、皆が前進していったその先、結末を我々は知っている。このくだりから始まる原作にはない展開、特に『三人姉妹』にはない(あるいは限りなく薄められている)ナショナリティの混在が強く現れるのがラストシーンで、三幕にて開いた床の大穴に日本人たちが消えていったあと、開場時から無造作に置かれていた赤銅色に煤けた小道具たちを残った朝鮮の人びとがその穴に仕舞っていく。そしてユニット床で完全に蓋をしてしまうのではなく、舞台装置に使っていた純白のスクリーンを不完全に上に被せることで「片付け」終える。

静謐さの後ろに流れる感情を隠しはしないこの演出が匂わせるように、日韓関係において完全に片付けることは難しいであろう何かが存在はする。それが尾を引いているからなのか、あるいは別の観点(例えば配給側の的を得ないことこの上ない「韓流」コマーシャルなど)からなのか、「韓国カルチャーだから、観ない」という選択をしてしまっている人も少なくない。人間である以上、感情の問題は切っても切り離せないので仕方がないといえば仕方がない。けれども創作からかけがえのないエッセンスを得るためにはそういった感情の捨象は必要で、感情の、自己のある程度の客体化があってはじめてたどり着ける祈りのステージがあるのも実際ではなかろうか。感情を拾うためには感情を捨てるプロセスを経ないといけないことが少なくなくて、だから創作を観て心を動かされるからといってそのひとにすべての感情が兼ね備わっているかというと全くそういうわけではないと思う。このあたりの心の断絶みたいなものに対しては依然として複雑な思いがあるのだけれど演劇は自分にとって、少なくとも公演中はそういった(自己の内面に起因する)ものから客体の側に良くも悪くも自分を引き抜いてくれる。そこに劣等感を抱く理由は多分ないのだけれど、全体としてのバランスを欠かないようにしないといけない気がしている。

いずれにせよ「文化を受容する」って、「(その文化を育んだ)社会の病理を受容する」ことだと思うんだよな。前者を行うにあたって後者の存在を忘れないっていうこと。


KAAT×東京デスロック『外地の三人姉妹』

日時

『もっとも大いなる愛へ』 / 月刊「根本宗子」第18号

spice.eplus.jp

2020-11-07 19:00

言葉から逃げているような、あるいは言葉の力そのものを蔑ろにしているのではないかと思えるような他者に出会い、憤りのような、あるいは失望のようなものをおぼえてしまったことがありました。自らの言葉で綴ることに、綴ったものに責任をもつことに対して向き合えと思った。誰もが当たり前のようにそれを為せると期待したかったのかもしれません。

そこから間もなく自分も世界も激変します。世間の退屈は言葉を奪い、私においてはまず活字がそれまでほど頭に入ってこなくなりました。それは、自らも言葉を綴ることに拘泥することがなくなってしまったことを意味します。あれほどまでにヴォイスに拘れと憤った過去がありながら、しかし本当にオリジナルなヴォイスというのは極めて稀有なものであって、自分のヴォイスだと思い込んでいたものも食い散らかしてきたテキストや音声、あるいはそのほかの五感から意識的/無意識的を問わず行った接ぎ合わせだったのかもしれないと、深層で知覚したのでしょうか。己のヴォイスがパッチワークの範囲を出ないのか、血肉とできているのかは、何を指標や閾値として区別できるのか。その区別の基準すらも付け焼き刃になっていないか。そんなことも考えつつ、いつの間にか随分と言葉に対して疎遠になっていました。

劇場やライブハウス。あるいは美術館もそう。表現を受け取る「集会所」がかつてのように機能しなくなったいま、それはインターネット配信といったパーソナルなプラットフォームを通してより直接的に、1 対 1 で人に入り込み、個々人その人限りの解釈を引き出す可能性を強めたようにもみえます。少なくとも私は意見を分かち合える機会というものを悉く喪った。そこで薄々と、言葉に向き合ってほしいだとか、同じものを観て価値を共有したいだとかいう望み自体が説教くさい預言者然としていたであろうことに、感づいたのかもしれません。チャネルが外に開かなくなると残るのは己の思索だけなのだから、否が応でもその独善性に自身が突き当たるときは遅かれ早かれやってくる。

自身の言葉への信頼がゆらぎにゆらいだそこへ更に、踊り子が袖を引っつかみにくるのである。

個々人の解釈の、1 対 1 の時代であるのならば、たとえば手帳のような完全に閉じた場所へそれを書けば良い。けれども私がそうならない、そうなれないのは独善の残滓か、あるいは伝達手段としての言葉を信じたいという呪いか。

共有したいものができたとき、死ぬまででいいから観てみてほしい、読んでみてほしい程度の長期的で希薄な望み程度のものは誰しもが持ち得ます。しかし演劇の場合、そのシェアが可能な期間はきわめて短い。だからこそ、そこで本当に必要なのは執心じみた推薦では決してなく、鑑賞後に自らに残った余韻を血肉とする努力と、その血と肉をもってその後を生きていく覚悟をすることなのでしょう。それは、その表現を引き受けて他者へ共有するということの、広い意味での実践だということ。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。不義をよろこばず、真実をよろこぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

愛は決して滅びない。

コリントの信徒への手紙 13 章

2020-11-08 13:00

改めてカメラワークが途轍もない。独りよがりになりすぎない画角とピント。観ているものがあくまで芝居であるということをメタに意識する余地がないし、そのくらい視点や焦点に不満を感じることがない。本多劇場の空間的な奥行きまでわかるのは何がそうさせるんだろう。

特にぐっときたところは、sugarbeans アレンジのベースが入ってくるところでピントがにじむところ。そして昨日も思ったけれど、斜めに断ち割られたイエローとピンク…床と壁紙が形づくった二者の世界を分かつ境界線に、カメラの射線が一致するとき。

『コリント人への手紙』の一節を諳んじるシーンで睫毛の陰影が少女の顔をおおう。伊藤万理華、1 年前に新国立で観たときとは何もかも違ってみえる。ここまでのものが観られるとは。


『もっとも大いなる愛へ』

  • 作・演出・企画 根本宗子
  • 出演
  • 撮影監督 二宮ユーキ
  • 無観客生配信

配信版『超、Maria』 / 超、リモートねもしゅー3

qjweb.jp


幼少期の父兄参観(このことば自体がなんかもはやすごくなった世相ではある)でユウとカナが導き出した「お父さん観」と「会えないということは、想像する余地である」という昇華。劇場で見た時は子どもなりの誇り高さや眩しさがやけに響いたような憶えがある。見返すと結局それは母親からの受け売りで、母(たち)はどういうポジションからその言葉を発したのかみたいなことを考えると呪いそのものだし、「想像の余地」が結果的にユウとカナにどう作用していったか、はその後の彼女たちの人生に寄り添うようにトレースされているので…それどころかしっかり『さぞかしすご~いお父さん!』の唄の直後の独白で説明されてた。

「想像の余地」の魔法は解けざるを得ない昨今の状況を考えると、初演のときに眺めることのできた「お父さん」の多様性も、その披露の場である授業参観も、それどころかユウとカナの物語すらも最早とらえどころがないのだろうか。

シスヘテロ的執着に基づくファザコンがこの芝居のテーマであったとするなら、今春再演されようとしていた岩井秀人の『ヒッキー・カンクーントルネード』周辺も似たようなにおいを感じて観に行こうとしていたはずだし1、ハラサオリの『Da Dad Dada2』もそうだし、盆休みに一気見してしまった『愛の不時着』も家族の中で期待されている立ち位置から「つくられた自認」の殻を破るというテーマを複数の人物を通して描いていた。そのような広くを包括した「家父長制」とその類縁に対する洞察やアンチ・パターン的表現が目立つ年だった気がする、まだ 2020 年は終わってないけど。解像度の悪い言い方をすれば創作なんてそういった、父と子の相克という普遍性の繰り返しだと言ってしまえるのかもしれない。けれども今年は敢えなく世に出ることができなくなってしまった公演も含めて、これまで追いかけていたものや、伏流のようにあたまを擡げてきて刺さったようなものたちが、フォーカスされた観念を指向しているように感じる。何かがシンクロしているのかもしれないし、単純に自分(あるいは自分が追いかけてきた界隈…世代的には絶妙に分散しきっていないんじゃないかとも思っている…)がそういう時期なのだという可能性も否めない。

表現者の傾向がそうだとして、では実際のところ受け手や世の中の実情はどうなのだろうかと思ってみても、こういう話、興味深くはあれど何の創作的文脈の共有もなく話題に出せるかというとだいぶセンシティブ。流石にいきなり「ファザコンですか?」とか訊くようなメンタリティでもない。訊けるものではないので、教えてほしい。懺悔のように。こちらは何でも赦せる聖母の慈愛をもって聞きたいとおもいます。

KAAT 上演版 と比べると、観た回での座席からは「母」の陰に隠れてしまいまったく見えなかった舞子がしっかり二宮ユーキの映像に切り出されていてよかったし(休憩前のメインテーマでとるバイオリンソロ素晴らしいですね…)、 『Whose playing that "ballerina" ?』 からのアディショナルなコンテクストでごしゃっとなってて最高だった縷縷夢兎の舞台美術とは真逆の静謐でミニマルな視覚と、それに呼応するように閉塞的な音響で鳴るカンカンバルカンのサウンドもよかった。「母」のマネキン演出そのものがごっそりオミットされていて、それゆえに配信版の母が初見となるとどう映るのかはわからないけど、KAAT での母の「灯り」が落ちた表現だとかの一度の鑑賞だけでは見落としていたニュアンスを時間をおいて咀嚼・再認識できる機会を与えられたことが、初演で拾いきれなかった言葉の節々を対比的演出の上で解いていく感覚につながった。最初の方に書いた「会えないことは想像する余地だ」の真意についてもそう。一回性やオーラの力で圧倒される「上演」とはまた違ったこの体験…その期間だけで喪われてしまう戯曲たちが「オーラ」から切り離された状態で出てくることには、良い側面も多々あるのではないかと思っています。期間中に何度も観るのではなくて、じゅうぶんな時間をおいて臨むいうのも効いたと思う。劇場での再演とも違うのではないだろうか。いちばんよかったのは、この戯曲のためだけに書き下ろされた、本来なら KAAT 公演の終了と共に二度と日の目をみることのなかったであろう小春の劇伴群3が帰ってきたことです。かきんはすばらしい。


超、リモートねもしゅー 3 配信版
超、Maria


  1. こちらは主人公が男性なので、ホモソーシャル的かあるいはシスヘテロなマザコン的執着のどちらか、ないしは双方だろうけど。

  2. 『Da Dad Dada』 再演を延期します。|ハラサオリ|note

  3. KAAT 公演の「アンコールメドレー」を撮影可にしていたのはこれらの楽曲群に対する供養の側面があったのではないかと考えている。

『Happily Ever After』 / 演出: 根本宗子

www.nikkansports.com


TOHO MUSICAL LAB.

企画が立ち上がった(それでも 1 ヶ月前とたいへんに短期)ときと比べて、状況はより悲観的な方向に進んでいるように感じる。“要請”の解除によって劇場は大手を振って使えるようになった。ここ数週間で観客を入れての上演も復活してきた。劇場上演の形態に執着する限り何もできなかった1「劇場が使えなかった時期」と比べると、進歩があったと捉えるむきもある。一方で、解釈次第とはいえ連日の新規感染者数の推移であったり、全容も明らかになる前ではあるがこの時点で劇場公演におけるクラスターの発生と思しき事象も発生2したりと、取り巻くものと見通しは必ずしも明るくはない。

個人的にはかなり早期の段階から、もう元には戻らないと思っている側で(そもそも「元に戻る」とは何なのか…意味論ではなく)。かといって反復視聴の可能性を削いだストリーム配信上映は DVD 以下の価値しか提供できないと思っているし、Zoom 演劇は早々の飽和を見せて緊急事態宣言の終了と共に姿を消した。その中で、この企画はどちらかというと前者に近いコンサバな視覚を提供しつつ、「ラボ」と冠するようにあくまで実験公演である旨のことわりと、アプローチの発展を模索するという姿勢とをとっている。

果たして「ミュージカル」をもタイトルに冠するこの企画が、劇場での上演以外を選択肢に組み入れるまでに至れるのかどうかはわからない。可否は劇場への感情的な執着にだけ則っているわけではなく、楽器や音響ひいては“広場”を持たない日本の文化システムまで考慮した上で、劇場外でのミュージカルの成立可能性として検討される。最近だと気象の問題も無視できないし、「東宝」まで考慮するとスポンサー/テナントの事情も孕むのだろうけど…。

『CALL』/ 演出: 三浦直之

こけら落としとなる MUSICAL LAB. の初回上映作品として選ばれたこの作品は、無観客で完全な空席となった客席を舞台装置に組み込み敢えて画面に映すという手法で、通常の上演録画ものとは異なる何かを切り取る。観客の咳払い(今やタブーもタブーといったところになったが)や笑い声といった直接的な音声情報の欠如だけでなく、生体の不在をそれとなしににおわせる声の反響の違和感が、未だ元には戻っていない劇場環境をいやでも認識させる3

そういったみせ方も含めて、あくまで“上演演劇”のかつてを知っている演劇ファンあるいは関係者に向けた、喪失と追体験、そして癒しの話だったと感じる。チェーホフ『かもめ』をキーワードに、“上演演劇”の観念が基礎から喪われた世界を使って。


Happily Ever After』/ 演出: 根本宗子

一方で企画の後半を担った本作は、変容してしまった日常生活のベースとそれによって毀れつつあるもの(家庭)、喪われようとしているもの(以前の生活感覚や、“親密”な距離)を題材として、よりパーソナルでアーシーな感情に迫る。「劇場空間/文化の喪失」にフォーカスした前半の作品とは、想定しているスコープが大きく異なっていた。

それがより普遍的だと言いたいわけでもなく。よりリーチが広いとするのならば、それは普遍的だからではない。むしろ現状は全員が特殊な状況下に置かれていて、みえ方は似ていても本質はおそらく全く違う。

その特殊な、集団にじわりと蔓延しながらあくまで個々人に深く入り込んできた“病理”に、あくまで一対一で寄り添うこの肌触りが自分にとっての癒しとなりうる。背景に見え隠れする家庭崩壊とそれが子どもに及ぼす影響は不可逆で、劇中の“現実”もまた悲観的。けれども、悲観と前進は両立しうる。例えば ハラサオリ が「この状況は不安で絶望的な一方で、これから起こるであろうたくさんの変化が楽しみでもある」みたいなことを言っていた4。そういう状況解釈と可塑な適応が成すパフォーマーのクリエイションが、やっぱり見ていて楽しいじゃないですか。

現実と同じ夢なら、寝てる意味がない。

あくまでどこかしらに世相を織り込んでいないと古典かあるいはファンタジーになってしまう戯曲芸術に対して自己免疫疾患のように作用しかねない言葉であるとともに、作家がかつて劇場を訪っていた人々に手向けていた祈りの言葉。物理的に立ち現れてしまった第四の壁を突き抜けるもの。

ひとつ気になったのは、舞台上では同時に走っているポリ・フィーリングであるはずの riko の、カメラに入ってくる時間が極めて限定されてくるところ。上演芸術の特徴ともいえるポリ性が撮影配信で殺がれる部分は完全な解決をみていなくて、これは今後「ラボ」において研究を進めてほしい課題のひとつ!


  1. 一方で、脱劇場を志向した試みを模索する集団だったり、極端な例ではコロナ禍以前からの取り組みではあるが今となっては「自粛で劇場が使えないのはそれが公共物だからで、家が劇場なら使えなくなることもない」という論拠をまとう、自宅である長屋が劇場の貌も持つ個人のプロジェクト「家劇場」( https://iegekijyo.tumblr.com/ )といったものも存在する。

  2. https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2007/11/news032.html

  3. LinQ もラジオで、「(客の有無のステータスが視覚的に一切変わらないから)通しリハと本番との差を感じることができない、(本番特有の)視られることで分泌されるアドレナリンがない」と表現していたっけ(Buzz!!LinQ 2020-06-24)。

  4. ラジオ桃原郷 #8『家ラジオ meets 家劇場』

『SweetSpot』 / 演出: 函波窓

sweetspot.mystrikingly.com

結果的に作品の内容を吟味するところまで行けなかった。オンラインでの「同時多発会話劇」の試みやその手法の、検討と考察。

作り手側のプラットフォーム/デバイスリテラシー

出演者である福永マリカが書いていた1ように、Zoom の分割画面という絵面のオンライン演劇、もとい配信はあっという間に飽和した。

あまねくコンテンツがそうであるように、初動が早かった劇団に分があった感がある。そして後発の集団は、あまねく産業が辿ったように付加価値をつけて飽和・成熟を打破する入口の構造を作らないと、マンネリと化したマーケットの中では競争のスタートラインに立つことすら難しい。

そこで演出家が「発案」したのが、3 つの異なるチャンネルを使っての同時配信だったようだ。告知時点でプラットフォームは事細かには明らかになっていなかったが、「三つそれぞれが別のアカウントから 19 時ピッタリにスタートする予定」とのコメント2から、おそらく同一プラットフォーム上での多チャンネル配信を考えていたのだと思わる。その後のプラットフォームの告知の移り変わりを見るに、おそらく当初は YouTubeLive で全てをおさめようと考えていたのではないだろうか。

しかしながら、結果的には

  1. 『同棲編』は YouTube にて録画を通常アップロード(YouTubeLive ではない)
  2. 『密会編』は Zoom ウェビナーにて生配信
  3. 『風俗編』は YouTubeLive にて生配信だった予定を、初日の配信直前に Zoom ウェビナーへと変更

という経緯を辿る。『同棲編』に関しては、作劇~稽古を進めていくうえで「同時多発性」が薄れたために Live という形式から逸脱させて単独での鑑賞性を優先した、というふうに考える事もできる(後述するが、他 2 編と同時に流すとかなり大変なことになる)。他 2 編について考えると、特に『風俗編』の急なプラットフォーム変更に関しては配信側の技術的な問題、すなわち配信に関する知識不足ないしは環境の不適合に起因するのではないかと推察できる。

ここで「バリア」が、制作側から鑑賞者側に対して張られることになる。正確には複数枚のバリアが既に張られているのだが。

公式のアナウンスに従うと、Zoom ウェビナーの視聴には「アプリのインストールが必要」とある。ここで脱落する人間は脱落する。上述した「複数枚のバリア」のうちの 1 枚はこれにあたる。観劇側に使い慣れないプラットフォーム(アプリケーション)の利用という負荷を強いるものであるが、なかんずく『密会編』の視聴に関しては、これが配信形態の告知時から既定であった。

さらに、『風俗編』の配信形態の変更に伴って Zoom ウェビナーでの配信が 2 編に増える。ここで運営は「両方の同時視聴には複数デバイスが必要」との告知3を出すが、ここでおそらくさらに脱落者が増えたと考えられる。観客が 3 本同時視聴を前提にしていた場合(同時視聴における各編の取捨選択は一応、視聴者に委ねられている)、「面白い試みをもつオンライン演劇に対する興味」は「配信同時視聴を達成するための技術的/資本的な挑戦」へと変容し、当初制作側が期待していたであろう緊張感とは全く異なるベクトルのマッチョイズムが客の眼前に立ち上がる。

ところで、ウェビナーの同時視聴には複数デバイスが必要というのは、あらゆるプラットフォームの Zoom アプリに共通の仕様なのだろうか?…スマートフォンにおいては OS レベルで同一アプリのマルチローンチはできない仕様であろうし、したがってアプリが多チャンネル同時視聴にでも対応していない限りは単一デバイスでの視聴は不可能だろう。そして、狭義の「ウェビナー」を同時視聴するような芸当は、よほどのマルチタスク処理機序を脳に搭載でもしていない限り無理といっていいはずだから、おそらくこちらに関しても実装はされていないはずである。PC 版アプリはどうだろうか?これもインストールしていないから分からない。

…そう、つまり「Zoom ウェビナーの同時視聴」には、少なくとも PC を使用している限りは「アプリのインストール」も「複数デバイス」も必要なかったのである。しかし、その複数デバイスを必要としない視聴方法(詳しくいえばオンブラウザアプリケーションの複数ローンチ)も、視聴のための操作手順として図式マニュアル化しようとすれば手順解説の作成等、一定の負荷を伴う。煩雑な実現手順の説明回避としての「要複数デバイス」エクスキューズと捉えることもできなくはないが、こういったオンラインパフォーマンスの模索が彼ら表現に携わる人びとの生存のためとも考えられる以上、このバリアの発生はあくまでリテラシー起因のものと結論する。

オンラインは厳密に「同時並行」にはなり得ない

次に、端的に言えば SNS の「リアルタイム性」と、配信の「同時性」とは全く異なるものであるが、制作側はここを混同してしまった可能性がある。

例えば同じインスタライブを異なるデバイスで視聴してみればいい。ストリームが全くずれないといったことはないだろう。環境によっては数十秒ずれる。拡大するギャップの解消には定期的に更新ボタンを押せばいい、といった純粋な鑑賞行為の外にある解決手法は決して適切な回答といえないし、根本的なずれの問題も完全には解消されない。

『密会編』と『風俗編』とは、一方の「間」を他方が利用するというコンセプトがあったことから、おそらく相互の配信者(グループ)間にオンラインでのタイミングのフィードバック機構は存在したはずだ。しかしながら残念なことに、二つのストリームは異なるトラフィックを通じて鑑賞者へと到達する。加えて『密会編』と『風俗編』の両配信者の間においても同じことがいえる。この時点で同時性がわりとめちゃくちゃになることが容易に想像できる。ここへさらに、芝居の構造として同時性の希薄な『同棲編』のストリーミングをオーバーレイすると、マージされてできあがった情報体は混迷を極めている。カオスなどという言葉でごまかせる類のものではなく、緊張感どころか没入の一片も発生し得ないノイズの交錯だけが残る。稽古のない『東京ノート4、あるいはバンド練をしていない『構造I:現代呪術の構造』5とでもいえばいいだろうか。

一般に同時多発性の緊張感というのは、平田オリザの作劇に観られるような緻密なタイム感の上での進行による時間感覚の遵守、ならびに舞台上での各プレイヤーの声のダイナミクス等による聴覚情報の制御、そしてそれらを生という取り返しのききづらい環境で着実に履行できるようにするための徹底した稽古、がないと顕現しようがない。そして、多チャンネル(=異トラフィック)配信というプラットフォームは、実はそういった要件を悉く破壊するものである。実は、どころではなく、ミュージシャン界隈なんかはとっくに気付いている(=「オンラインでセッションはできない」)。

以上のように「ポリ性」は、オンライン生配信の同時並行ではシステム的に達成し得ない。本当にそこを成立させたいのであれば、専用の視聴システムを構築したり、避けようのないストリーミングギャップへのバッファを充分に作劇へ持たせ徹底的な稽古(オンラインプラットフォームに関する各人のリテラシー習得も含む…)も重ねた上ですべてのチャンネルを生配信として臨むか(ひとつでも録画があれば「生きた」バッファを吸収するのは難しいだろう)、あるいはリモートで各々のチャンネルを収録(どのみち収録はリモートで行わないと本来の目的が達成できないから)したのちミックスほか編集作業を施した成果物としての録画を生配信するか、だろう。3 つ目なんかはいわゆる「芝居」の範疇から定義上は外れるかもしれないし、そもそも生配信とする意義もかなり薄い。でも今回如実にあらわれたように、「生」に執着している限りは没入も緊張も生じないものが出来上がり得る。ずっと「コンベンショナルな表現をオンラインへ移植したもの」そのままであっていいはずはない。

視聴者側に生じる負荷

いうまでもなく鑑賞者側には、チャンネル間の音量バランスの調節、時にはあるチャンネルの音声 OFF(配信前説時の演出家のエクスキューズにもあったが、『密会編』の「性描写」の音がすごい)、といったライブハウスの PA のような業務が発生した。本来の芝居においては劇団側が行う演出負荷が客側に来ているに等しく、これは鑑賞という行為の上位次元における作業にあたる。当然、鑑賞そのものへの注意力は散逸する。

正直なところ、本当に話の内容がなんにも入ってこなかった。コンセプトとは全く逆になってしまうが、この芝居の中身を少しでも把握したいと思うのであれば、全てのチャンネルを個別にひとつひとつ視聴していくしかないであろう。

まとめ

というわけで、芝居の肝心には全く触れることができず、システムの実証実験を体験した感じになってしまった。しかしこれらは本来、制作側で洗い出されきるべき課題であったように思う。「実験公演」「カンパ制」と銘打たれてはいるが、本来の意味で公演を評価できるようなレベルに至っておらず、したがって評価のしようがない。対価も非常に測りづらい。「オンライン演劇」の、システム上の欠陥・課題をひと通りなぞりきったテストケースにはなっている。そういう意味では周知されてもいいプロジェクトか。

「演劇」に執着する限り、オンライン上のパフォーマンスはうまくいかないのかもしれない。ただ、こういったものを超えた先に出てくる新しい表現のために必要な過程であることには間違いない。様々なフィードバックを経てオンラインパフォーマンスの在り方を固めていけるのであれば、そこに演者-観客間の新たな双方向性は成立し得るのではないだろうか。めっちゃくちゃメタではあるが。

情報

online theater 『SweetSpot』

  • 脚本・演出 函波窓(ヒノカサの虜)
  • 生配信開始日時 2020-05-30 19:00

『エアガール!』 / トキヲイキル

stage.corich.jp

(女性)アイドルグループとエアガールとの間には「女性の職業領域」というようなオーバーラップしたイメージがあるのかもしれない。それが今でもシンパシーを喚起し得るのかどうか、受け取り方は様々だと思うんですけど。

予約されたパーティションの中で保障された社会参画。それすら存在しなかった状況においてその場所を確保するのは、ゼロをイチにする大きな苦労を伴ったはずで、昭和初期の日本における女性の(公民権獲得に先立つ市民権レベルでの)社会進出のきっかけとして「エアガール」のエピソードは、重要なターニングポイントであることには違いありません。ただ、女性の職業であるというイメージの固着も今となってはどうなんだというか…この感覚に関連するような演出の仕方でちょっと勘ぐりがあったんだけど、男性が視覚的に出てこないんです、この芝居。民間航空の父こと長岡中将は声のみで出てくる。終盤になってようやくその正体が公になる謎の老紳士が幕開けのシーンから鶴翼みたいなヒゲたくわえて出てきたら、伏線的にもビジュアル的にも芝居を食ってしまうというのはあるかもしれない。グループの文脈からして「ガールズユニット」なので、その出さないという選択はまあヒゲの次元の配慮ではないと思いますが…。ただそれにしては、脚本も演出も男性がやっていたり、配信とか観てるとわりと Zoom に裏方の男性プロデューサーが出入りしたりしている様子が公開されたりしているので、「男性不在」の意識/無意識がどうなってるんだろう/どうしたいんだろうとは思う。同グループのバンドセットライブ1も別にそのへんにはこだわってない雰囲気。

加えて航空業界の特殊性や当時の大日本帝国的世相も反映して、関連人物には軍人や貴族に連なる者も多く登場します。社会進出のきっかけを担ったエアガール関係者たちも容姿端麗のお嬢様だったりで、よく考えれば主人公も予めゲタをはいている話であるところの、「シンデレラ」の域を出ない。彼女たちエアガールの誕生に貢献した主人公の喫茶店ウエイトレス、松永すいが市井の出かと思いきや結局は貴種譚オチだったのも、クラシカルな出来事のトレースに終始した感じがなんだかなあという風ではありました。社会進出の立役者は間違いなく裏方に相当する教官チームなんだけど、時間やプロットの都合かエアガール候補生たちの側が完全に希薄化しちゃってたのも残念。民間航空の父に対比した、エアガールの母のエピソードということなのでしょう。

まあでも今も普通にいくらでもそこらに落ちてますね、認識の停滞。さいきん環境の変化とともにコミュニティの一部が替わったのですが、それに伴って新たな付き合いが生じた中に、特定の職種のことを指して「女性」と言ってしまうような方がいて。まあ当該組織の職種間男女比率がきっと偏っていて、性別=職種というふうに規定できてしまい、無意識のうちにそう言うようになってしまったんでしょうけど。あと男女共同参画感をアピールするために、求人広告で通常は考えられない絵面つくって撮っちゃうとかね、聞いたことありますね。こわいなあ、元号変わったぞ。でもこういう危機意識への疎さと、冒頭で書いた「予約されたパーティションの中で保障された社会参画」の化石化って、通底もいいとこじゃないですか。「コロナ禍」によって経営・雇用のスクラップ&ビルドが進むであろう中で、このあたり、どれくらい変わることができるんでしょうね。


トキヲイキル 第 6 回本公演『エアガール!』2

『寝る前のハラ』 / ハラサオリ

双方向「ナイトルーティン」2 週間の記録

twitter.com


  • 4 月 6 日から休みなく 14 日間、毎回 23 時から 40-60 分程度生配信された、IG ライブによるオンラインヨガストレッチ。
  • 視聴者からのコメントによるフィードバックやハラの体調、ほか道具立てなどに合わせて日々レシピ修正と変更を施しながらの 2 週間。概ね共通した進行は以下の通り:
    • あぐら座位における姿勢の正しかたについて、坐骨の位置、背骨の収まり、など
    • 腹式呼吸について
      • 新規視聴者のことも考えつつ、座位と呼吸については毎回時間をかけて解説
    • 手首 → 足指 → 足首 → 首まわりのストレッチ
      • 首まわりは頭半棘筋/胸鎖乳突筋あたりを
      • 時間のない回は時短メニューで
    • 肩甲骨を緩めていく
      • 手を背中側で組みながらあぐら座位のまま前傾、このとき骨が背骨側に寄る
    • 肩甲骨を緩めていく・続:「鷲のポーズ」
      • あぐら座位のまま
      • 肩甲骨を剥がす、腹式呼吸で息を吸ったときにグワッと剥がれる感覚がある
    • 肩甲骨を緩めていく・続:「猫のポーズ」
      • 肩甲骨の開閉を意識しながら
    • 骨盤のジョイントを緩めていく:「子供のポーズ(チャイルドポーズ)」
      • ポーズ解除時には、脱力を維持するように腰から首にかけて徐々に立てていく
    • 骨盤のジョイントを緩めていく・続:長座前屈
      • 骨盤ジョイント部の脱力を目的とするので膝はむしろ曲げていい
      • 腿と胸の密着が深呼吸ごとに増していくふうを意識する
    • 骨盤のジョイントを緩めていく・続:開脚前屈
      • 長座位と同じく、膝は曲げていい
    • 骨盤を拡げる:「花輪のポーズ」
      • 背骨の収まりを意識しながら胸を開いていくようにすると、自然と股が開く負荷になる
    • 骨盤を拡げる・続:仰向けの骨盤矯正ストレッチ
      • 軽く「赤ちゃんのポーズ」を経由する
      • 片膝を曲げた状態から外側に倒す
      • あるいは内側に倒しつつ身体を逆側にひねる
    • クールダウン:「死者のポーズ(シャヴァ・アーサナ)」
      • 2 分間
    • 締め:腹筋を使わないように(腕のみを使って)起き上がり、あぐら座位に戻って姿勢を整える
      • ありがとうございました
    • 「鷲」以降の「猫」「子供」「花輪」「長座」「開脚」は、回に応じて 3 つ程度をピックアップする感じ(緩める順序は肩 → 骨盤が維持される)
  • その他オプション
    • 「牛の顔のポーズ」
      • 初期に何回かレシピに組み込まれていた
    • 胸を開く(ポーズ名称不明)
      • 「花輪のポーズ」時のガニ股を維持しながら片方の腕を膝前面下(すね)を経由して背中に回す、逆側の腕はそのまま背中に回して背中で手を組む、胸を開くように首を天井に向ける
      • けっこうポーズをとるのがきつく難度が高いように感じる、これも初期に採用頻度が高めだった
    • 立位前屈
      • 長座時と同じく腰のジョイント弛緩が目的なので膝は曲げて良い
      • 上半身の自重を使って体を揺らして緩めていく
    • 「鳩のポーズ」、「鳩の王のポーズ」、「1 本足の下向きの犬のポーズ」、「鋤のポーズ」…
      • メインレシピ終了後の雑談時などにハラが勝手にやっている(シャヴァ・アーサナ後にやるのは本来あまり適切ではないとのこと)

「空間」は直に共有できなくとも、「時間」の共有は成立し得る。コメントという文字情報のみではあるが、視聴者はフィードバックを送ることができ、レシピは日々アップデートされていく。それだけでなく、例えば低気圧でハラの体調が悪い日の回、「生きた」配信は低気圧の日という時間だけではなく、低気圧という「空間」をも共有する(私は低気圧で体調を崩すという経験をほぼしたことはないのだが)。

いつでも見られるアーカイブではなく、毎日きまった時間にライブがあるという事実が寧ろ、参加者を場に向かわせる。それは IG ライブの左上に数値で現れる。ハラも自身のルーティンが監視され、継続することを望む。ストレッチ中はタイピングなどする暇がないためコメントなどのレスポンスも非常に疎ではあったが、双方向の時空シェアが確実に存在していた。

リアルタイム配信が終わって 1 週間が経つけれど、ルーティンとしてのヨガ自体は続けられている。どんなに配信視聴のキューをぶち込んでも、23 時前後の 30 分間はヨガのみに充てられるようになっている。ただ録画による固定化されたレシピは、やはりどうしようもなく双方が単方向化する。代替としてのオンラインヨガを探そうとしているが(この探し方もどうか)、「合理」を追求した知見のシェアという精神性を持ったヨガ配信はなかなか見つからず、軽くロスのようなものを覚えもする。先行きの全く見えなくなった事態の中で自己洞察の機会を喪わないように、他の配信も音楽の類も消して、少しずつ柔らかくなっていく実感のある身体に向き合う。換気扇の音。


メモ:ヨガマット
  • B YOGA(ビーヨガ):視聴者からのおすすめヨガマットの質問に対してハラが真っ先に挙げた。価格は 8,000 円からと高めか。
  • suria(スリア):次点で挙げていたブランド。実売で B YOGA より 2,000 円程度低価格な感じ。
  • ドンキで買ったヨガマット:ハラが配信で使っていたもの。

『寝る前のハラ』
  • 日時 2020-04-06 → 2020-04-19

    • 毎日 23:00-
    • 1 日だけリアルタイムで参加できなかった日は、1 時間早くヨガ自体は行った
  • 於 IG Live @halasaori

  • 記 2020-04-25