公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

配信版『超、Maria』 / 超、リモートねもしゅー3

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幼少期の父兄参観(このことば自体がなんかもはやすごくなった世相ではある)でユウとカナが導き出した「お父さん観」と「会えないということは、想像する余地である」という昇華。劇場で見た時は子どもなりの誇り高さや眩しさがやけに響いたような憶えがある。見返すと結局それは母親からの受け売りで、母(たち)はどういうポジションからその言葉を発したのかみたいなことを考えると呪いそのものだし、「想像の余地」が結果的にユウとカナにどう作用していったか、はその後の彼女たちの人生に寄り添うようにトレースされているので…それどころかしっかり『さぞかしすご~いお父さん!』の唄の直後の独白で説明されてた。

「想像の余地」の魔法は解けざるを得ない昨今の状況を考えると、初演のときに眺めることのできた「お父さん」の多様性も、その披露の場である授業参観も、それどころかユウとカナの物語すらも最早とらえどころがないのだろうか。

シスヘテロ的執着に基づくファザコンがこの芝居のテーマであったとするなら、今春再演されようとしていた岩井秀人の『ヒッキー・カンクーントルネード』周辺も似たようなにおいを感じて観に行こうとしていたはずだし1、ハラサオリの『Da Dad Dada2』もそうだし、盆休みに一気見してしまった『愛の不時着』も家族の中で期待されている立ち位置から「つくられた自認」の殻を破るというテーマを複数の人物を通して描いていた。そのような広くを包括した「家父長制」とその類縁に対する洞察やアンチ・パターン的表現が目立つ年だった気がする、まだ 2020 年は終わってないけど。解像度の悪い言い方をすれば創作なんてそういった、父と子の相克という普遍性の繰り返しだと言ってしまえるのかもしれない。けれども今年は敢えなく世に出ることができなくなってしまった公演も含めて、これまで追いかけていたものや、伏流のようにあたまを擡げてきて刺さったようなものたちが、フォーカスされた観念を指向しているように感じる。何かがシンクロしているのかもしれないし、単純に自分(あるいは自分が追いかけてきた界隈…世代的には絶妙に分散しきっていないんじゃないかとも思っている…)がそういう時期なのだという可能性も否めない。

表現者の傾向がそうだとして、では実際のところ受け手や世の中の実情はどうなのだろうかと思ってみても、こういう話、興味深くはあれど何の創作的文脈の共有もなく話題に出せるかというとだいぶセンシティブ。流石にいきなり「ファザコンですか?」とか訊くようなメンタリティでもない。訊けるものではないので、教えてほしい。懺悔のように。こちらは何でも赦せる聖母の慈愛をもって聞きたいとおもいます。

KAAT 上演版 と比べると、観た回での座席からは「母」の陰に隠れてしまいまったく見えなかった舞子がしっかり二宮ユーキの映像に切り出されていてよかったし(休憩前のメインテーマでとるバイオリンソロ素晴らしいですね…)、 『Whose playing that "ballerina" ?』 からのアディショナルなコンテクストでごしゃっとなってて最高だった縷縷夢兎の舞台美術とは真逆の静謐でミニマルな視覚と、それに呼応するように閉塞的な音響で鳴るカンカンバルカンのサウンドもよかった。「母」のマネキン演出そのものがごっそりオミットされていて、それゆえに配信版の母が初見となるとどう映るのかはわからないけど、KAAT での母の「灯り」が落ちた表現だとかの一度の鑑賞だけでは見落としていたニュアンスを時間をおいて咀嚼・再認識できる機会を与えられたことが、初演で拾いきれなかった言葉の節々を対比的演出の上で解いていく感覚につながった。最初の方に書いた「会えないことは想像する余地だ」の真意についてもそう。一回性やオーラの力で圧倒される「上演」とはまた違ったこの体験…その期間だけで喪われてしまう戯曲たちが「オーラ」から切り離された状態で出てくることには、良い側面も多々あるのではないかと思っています。期間中に何度も観るのではなくて、じゅうぶんな時間をおいて臨むいうのも効いたと思う。劇場での再演とも違うのではないだろうか。いちばんよかったのは、この戯曲のためだけに書き下ろされた、本来なら KAAT 公演の終了と共に二度と日の目をみることのなかったであろう小春の劇伴群3が帰ってきたことです。かきんはすばらしい。


超、リモートねもしゅー 3 配信版
超、Maria


  1. こちらは主人公が男性なので、ホモソーシャル的かあるいはシスヘテロなマザコン的執着のどちらか、ないしは双方だろうけど。

  2. 『Da Dad Dada』 再演を延期します。|ハラサオリ|note

  3. KAAT 公演の「アンコールメドレー」を撮影可にしていたのはこれらの楽曲群に対する供養の側面があったのではないかと考えている。