公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『あの子と旅行行きたくない。』 / 超、リモートねもしゅー

note.com


劇場に行けなくなった。行っても芝居なんてやってない、閉まっている。

最初のうちは選択の余地があったし、今となっては完全に「トラディショナル」と化す可能性すらある表現へ、役者たちも身を委ねることができていた。これは書き残しておかないといけないと思うんだけど、そういうふうで決して不連続に状況が一変したわけではないということ。株式市場とか為替とかも追っていて、そこでもそうだったように、空気は少しずつ少しずつ「入って」きた1。だとすれば、言ってしまえば本質的には単なる時代の変化なのかもしれなくて、これってすごく普遍的な話なんじゃないか。確かにすさまじい勾配ではあったんだけど、でも不連続ではない、なかった、っていう。移り変わっていく世の中で何かを頑なに一定ラインに維持しようとして、気がついたらすとーーんと強制ロスカットされるのだとしたら一体どこに誤りがあって、なぜ置いてかれるんだろう。どうやったらそれを防ぐことができる?

連続的な浸食の感覚とそれに合わせた自らの変化の必要性を、意識的か無意識的かは別として、普段から追いかけている人たちが持っていて、この段階で既に生きていくためのあたらしい表現スキームを立ち上げていっているという状況は、面白い。そのスライドに立ち会えている状況は、確かに困難で悲惨な状況も見え隠れはしているけど、でも楽しい。受信できているだけでも、なんかよくわからない肯定感みたいなのがある。

360p のこの配信映像のローファイな感じすら、いま見える他人の解像度のリアル。でもこの決して高品質とは言えないビットレートの流れに乗って、受け取った側がどのようにでも増幅できる様々な感情の想像余地が、そこにある。この作品だけじゃない。一見ただ喋っているようにしか見えないインスタライブコラボレーションに。投稿日時も時間長もまちまちな個人の音声配信に。地下アイドルの自炊に。「むかし」のようなものが戻ってくることを信じて、それまで待つ、では本当に取り返しのつかないことに加担しかねない。今、受信しよう。そして対価が払えるのなら、投げ銭ができるのなら、今やろう。時空が不可逆だということ、未来は現在の先にしか訪れ得ないことを、忘れないように。

あ、作品の内容は古き良きバー公演の空気(一回しか行ったことないけど)を纏っていて良かったです。終盤の畳み掛け、「あの時点」を超えた先にある展開は、祈り。


filmuy.com

  • 作・演出 根本宗子
  • キャスト
    • 根本宗子:太田ちゃん
    • 椙山さと美:田上さん
    • 安川まり:桃井ちゃん
    • ゆっきゅん:相川さん
  • 劇中楽曲
  • 配信開始 2020-04-17 18:00

  1. 『根本宗子と長井短オールナイトニッポン0 』(2020-04-12 放送回)でも同じようなことを言っていた。

『バロック』 / 鵺的

目をとじろ
耳をふさげ
秘密はけっして口にするな
あの呪われた場所で
またふたたび怪物を
めざめさせないために


natalie.mu


呪いを解く。青年が血に、家に、家族に向き合い、自らの存在ひとつで、与えられた死生に抗う話。

洋館のワンルームシチュエーションドラマは、見映えと序盤の雰囲気から連想されるホラーの様相から、突然の田所の介入を経て一転、サイエンスフィクション的展開へと向かう。

同じ屋敷の同じ部屋。しかし、一瞬の暗転を経るごとに、そこに居る登場人物は次々と入れ替わる。回想ではなく、また時系列の前後でもない。全員が同じ部屋にいて、全ての物事は並列に展開している。「位相」だけがずれており、部屋の上手側の扉を介して位相間をただひとり行き来できる田所と、移動はできないが同じくただひとり、床を通して別位相とやりとりのできる下村とを狂言回しに据え、ミステリが進行していく。田所と下村、そして観客のみが、屋敷で起きたことの全容を把握しうる。

いわゆるゴザ席に近い急造の最前列にいたこともあり、遮る観客の頭はなく、眼前には屋敷そのものが拡がる。全容を知る「神の視点」にしては不自然なまでに下方からの、見上げるような俯瞰の光景。緻密に築造された洋館の一室を模すセットが、セットに反響する人の声から「屋外」で轟く雷鳴に至るまで計算されたかのような音響が、役者の動静が、意識をスズナリではないどこかへ。われわれも御厨の選択に立ち会う。屋敷の中にいる。分厚い絨毯をめくったときの風圧が顔にかかるとき、館を焦がす炎が眼を灼くとき、光仁のさけびが位相ごと空間を揺さぶるときに、完全にそこに在る魂 ――― 解体を妨げようと家を揺らす、見えない怪物のひとりとして。

森に潜む男が持っていた紗貴子のしゃれこうべが、骨なのに紗貴子すなわち福永の「かお」そのものに見える。没入のための拵えが制作の隅々にまでいきわたっている、真髄の最たるものをそこにみたような気持ち。

血や法でがんじがらめになりがちな家族の有耶無耶、死生の有耶無耶を結局かかえこむことになるのであろうとも、光仁そして秘書、各々の終盤の選択には迷いがない。受動に四方を囲まれた成行き上の選択ではない、「死」への消極的な突進を拒絶しての帰還。御厨という閉じた家族の物語の中、彼らの決断を扶け、小さな宇宙を更新していこうとする命はいつだって家や血という「境目」の外にある。

生死の此彼をわける「境目」には、目の前に水平線のように拡がる洋卓、その端と端とに座って紅茶をたしなむ御厨の女がふたり。電球色で引き立つ血のような赤絨毯の上で、呪いに悩める世界中の子どもたちを彼女たちなりに救うための、途方もない喧嘩が現世に解き放たれる。最期はあの卓に加わってみたい。あの光景が待っているのであれば、死に向かって進んでいけるんじゃないかっていう、そんな美しい画。例えば三途の川なんかよりも絶対こっちの方がいい。ティーカップで紅茶を飲みながら。


鵺的 第 13 回公演 『バロック

  • 作 高木登(鵺的)
  • 演出 寺十吾(tsumazuki no ishi)
  • キャスト
    • 佐藤誓:喜四郎(御厨家の婿)
    • 笹野鈴々音:美貴子(御厨家当主)
    • 福永マリカ:紗貴子(美貴子の姉)/霧子(龍郎の婚約者)
    • 祁答院雄貴:龍郎(長男)
    • 小西成弥:光仁(次男・養子)
    • 岸田大地:禎巳(三男)
    • 野花紅葉:ひとみ(長女)
    • 春名風花:はるか(次女)
    • 川田希:下村(空家管理 NPO の女)
    • 白坂英晃:田所(建設業者営業)
    • 谷仲恵輔:御厨家使用人
    • 奥野亮子:喜四郎の秘書(愛人)
    • 吉村公佑:森に潜む男
  • 開演 2020-03-12 19:30
  • 於 下北沢ザ・スズナリ

『掬う』 / □字ック

spice.eplus.jp

口ではなんとでも言える

何かが完全に巻き戻ってしまった感じがある。剥がれた、といった方が近いか。

剥がされて出てくる自分のぞうもつを鏡で見ている、見せられている感じ、とはいってもあまねく臓器が完全に劇中で具現化されているわけではない。もちろん作家もはじめから全て語るつもりなんてないだろうし、切り売りというのは「切り」売りであって、全射的じゃない。表層に出ている言葉の裏だけでなく、全く芝居の上に出てこない部分 ―― 語られない部分、テキストに出てこない部分。たちは悪いけど「何を語っていないか」を分析にかければ、案外簡単に結果がアウトプットされ得る世の中だし、本質は「言外」のさらに外の部分に、無に、空に。

そして、自意識という外装を張り付けて、気高く生きていきましょうって行って、その裏で見ないようにしていたものが「空」からうつつへ噴出してくる瞬間が。というよりは、初めから雨漏りみたいに滲んでて、自分から他人から、結局その滴りは見えていて、掬われる瞬間を待っているのか。

仕事

言外。瑞江がパソコンに入力している文章は全てが明らかにはならない。

作家の仕事で書く文章ではないのではないかという指摘がなされる。そのタイピングが「本音」だからだろうか。最も言葉を意識的なツールとして操ることのできるはずの人種である文筆家は、言葉の使い方を知っているからこそ何を残すべきではないかわかっているとでもいうように。すべてが制御下にあるとでもいうように。

書き物は、残る。日記ですら。そこから記憶情報を再構築するために最低限何を残しておくべきか、何は書かなくても想起しなおせるか。本当に「閉じる」と、残るのはトリガーだけ。言外は死ぬまであたまの中に。

瑞江は今の職に就いてどのくらい経つのだろう。現職 ―― 作家としてドラマの脚本などを経験していることは語られる。「家族」には職業上の素性も知れている。極端に自己開示を拒んでいるようにも見える彼女が、その文章を世に出せてるなんてこと、ある?

では何を。虚ろな創作は、人にどう響く。

わかってほしいなんて馬鹿みたい

花音。この女子高生の言葉の操り方は、瑞江よりもよほど「それ」然としている気がする。感性と計算のバランス。大人びているように見える一方で、最も「言外」に対する拒絶に執着をみせる。家庭と学校に対して。

恒常的に取って代わる新しい感覚なのか、それともおとなになると喪われる性質として瑞江と並置されているのか。

庸介の「信じる」は、最後までどうも気色の悪い描かれ方をする。花音の「信じる」にはそれがない。瑞江も庸介も明らかにひとりの人間としての花音の言葉に頼る瞬間があるのだけれど、これは果たして成長に伴って喪失した神性に縋っているとでも?

本質

口を開けば他人の愚痴で、それが本音の曝け出しだとでもいうような、そんな人。でもそれ全部、他人の話。庸介の指摘する、当人の「本質」の無さ。実際にそういう愚痴の人に行き当たったときの、あるいは話が面白いと聞いていた人間に実際に会ってみたら全部ワイドショーとスポーツと同僚の「事実」のみを話しているに過ぎなかったときの、あの感覚。

これも愚痴か。

流れに身を任せる

「鳥」が要所要所で鳴く。長い尾を引く高い声の、慟哭のようにも聞こえる、瑞江にしか聞こえない音。夜に雨に、言外と無意識のはざまで鳴いているかのようなこの象徴が、ときおり一瞬では咀嚼できないタイミングで鳴くときがある。

流れに身を任せるという意見を耳にして反芻したとき。

あるいは、最後の最後の一哭き。

ラストシークエンス、男性性を象徴するような庸介の押し切り次第で結末が分岐する気がする。そこも含めて庸介がすごく気色悪いし、幕引きまでその違和感は消えることが無かった。演出の全体的な仕上がり方から考えれば、その違和感すらも演技に織り込まれているのかもしれないけど。ジェンダーのポテンシャルが駆動力になっているのだとは考えたくない。

「掬う」

「掬う」側にも精神力が要るというのが、よっこと瑞江の最後の対話にて示されるところがあんまりすぎる。呪いたくてぶち当てた真実が、対象が別のことで弱っていたタイミングゆえ変な通り方をして、自らの本当に通したかったダメージとは別の作用が起きてよくわからないことになっていく。

それが「いまから水を流すので手を出して掬ってください」ではだめだということなのだとすれば、庸介の最後の行動は「今から掬うので水を流してください」だという風にもとれる。ジェンダーポテンシャル以外の違和感はきっとこれだ。

でも、そうでもしないと水が澱んで腐っていく場合、そこまでやらないと人を掬い上げる事なんてできない。その、あと一歩を違和感なく引き出したい場合、あるいは踏み出したい場合、どうすべきなんだろう。


とにかく主演の佐津川愛美が凄い。創作で人を傷つけることができるというのは本当に凄いことで、ギリギリのところで ―― あるいは内面には充分なほどの余裕を持っていて、虚構の側に留まっているからこそだと思う。俯瞰の介在する憑依。これは作家にもいえて、彼(女)らには、筆や演技の私物化ではたどり着くことのできない冷静な絶頂の伴っている感じがする。

このアンチ独り善がりな感覚がきっと、タイトル ―― 「掬う」であって「救う」ではない、にも現れている創作の方向性。だから受け手側も立ち向かうというより寄り添うように観られればそれでいいのかというと、おそらくそこは創作で人生が変わるというのが与える側にとっても受ける側にとっても本望であるべきな気はしていて、ただ面と向かい受けた自分に起きたのがある種の「後退」作用に思えるのが …… いや多分もともと前進なんかなかったんだろうな、そこには。

いいなあ。何であろうと、瑞江は書ける言葉を持っていて。そのうえちゃんと叫べて、最後には泣けて。いいな。

□字ック 第十三回本公演 『掬う』
  • 作・演出 山田佳奈
    • シアタートラム
      • 公演期間 2019-11-09 ~ 2019-11-17
      • NHK BS プレミアム プレミアムステージ にて録画放送
    • 穂の国とよはし芸術劇場 PLAT アートスペース
      • 公演期間 2019-11-22 ~ 2019-11-23
    • HEP HALL
      • 公演期間 2019-11-29 ~ 2019-12-01

『共骨』 / オフィス上の空プロデュース 演出: 松澤くれは

www.confetti-web.com

「大きくなったらお母さんになってお父さんと結婚するんだ!」期に母親を喪った娘と、その娘の中で生き続ける母親と、成長していく娘に妻の面影を感じてだんだんと狂っていく父親と、を中心とした家族の話。

娘の中に「母親」が生じる要因として、母親の遺骨を食べるというシーンが冒頭に提示される。それ以降傍らで「母親」が、彼女を見守り、対話し、人生に干渉するようになる。親が子供を拡張身体化してしまってそれに子供が苦しむ、みたいな話とも少し位相がずれていて、家庭と学校が世界のすべてだった頃に親の死によって強制的に一部がフリーズされてしまったことで、逆に子どもの方から拡張身体化を自己規定してしまうみたいな側面がある。あらすじに書いてあるような、一面的に「望まれない人生」を押し付けられた、という解釈だけだと違和感が残る感じ。判断力が成熟する前とはいえ、娘の側から積極的に骨を食べている。

「骨を食べる」という行動がおそらく異常なものとして提示されているんだけど、これはいわゆるアニミズムというか、山本七平のいう「臨在感的把握」1そのものか。肉親の遺骨を食べるという行動で、骨というもはや生命は持ち合わせていない「物質」に対しての感情移入と一体化、客観的分析への拒絶がはじまる。自身の一部を外的化した「母親」は、本来の母親なら知っているような事実を知らないであろうことが、語り口からもわかる。それ以前に、劇中の娘のモノローグを「母親」が語るという特徴的な手法によって、「母親」が母親の真なる「霊」ではないことが始終提示されてもいる。あくまで倒錯の話。

冒頭の象徴的行動を「臨在感的把握」として相対化してしまうと、もうそこでサンドボックスが形成されてしまうので、芝居そのものには没入しづらくなる。前提が物凄く強くて、入れるかどうかは冒頭の「異常行動」をどう感じるか、規定するかであらかた決まってくるとも思う。あらすじにも、タイトルにもその強さはありありと出ている。観劇タイミング的には更に微妙で、まさに今、同じく山本の著した『聖書の常識』2を読んでいる。この本には、聖書の浸透する宗教界の世界観では、親も子も等しく各々が神と契約しているので、東アジアのように「罪九族に及ぶ」状態には至らない、といったことが書いてある。設定の強さは民俗的文化と強く結びつく。「個」の意識とその阻害、そして「臨在感的把握」。『共骨』の骨子が強烈にそれらに依拠している以上、なんかもう、しょうがない。そこでメタに把握してしまうというのが却って自己規定、可能性の制限な気はしていて、もうちょっと自分自身が芝居に入っていけるといいなとも思う。

逆に骨を食べるというシーンが無い場合、どうだろう。ツカミのインパクトは別として、テーマは成立するんじゃないだろうか。故人を内在化し、魂なき者に感情移入し、他者(?)の人生を生きてしまう人には普遍性がある。こういうテーマはこれまでも何本も観てきていて、特に「死者の人生を生きてはいけない」というテーマでは、屈指の芝居を数本観た。『共骨』の娘、美沙は不幸なことに死者の人生と生ける他者の(ための)人生、両方を体験せざるを得なくなっていたのが特徴的で、その不幸せを(まだ相対的に把握できないような年端だったとはいえ)自ら積極的に被りにいく行動を起こしてしまっているという点も含めて、より多層的な感覚はあったように思う。生きている他者の人生を生きるのと、死者の人生を生きるのと、どっちが質が悪いかみたいな比較が許される人生ではなかったし、取りに行ってしまう人間はどちらも取りに行ってしまうってことなんだ。

演出面では、想像以上に抽象的でスパースな舞台だったこともあって、特に主演の新垣里沙が支配する領域の膨張と伸縮がみてとれる(実際に可視なものではないけど)のが面白かった。舞台の空白が目立ちすぎる時間と、観客席まで含めて呑み込む瞬間とのメリハリ、コントラスト。

美沙の人生に所々で影響を及ぼしていた泰斗と奈々海が、スッとフェードアウトしてそれきり出てこなくなった気がするけど、そのへんの人間がどうでもよくなるほど最終的には自身の現在と未来を見つめることができるようになった、ってことなんだろうか。「母親」が見えなくなったのと同じように。でも最終的に結ばれたあの二人の世界が狭すぎる気がしていて。骨ではなく「血」が歪んでいる感じもあって(美沙と朝希って三親等では?)、アニミズムなんかよりももっと具体的な呪いを内包しているような気がしてならない、少し薄気味悪さも残す幕引き。

『往転』 / KAKUTA presents Monkey Biz #1

entre-news.jp

「属性」が混乱した人たちの話かな、と思った。吾郎[演:入江雅人]は肩たたきにあって会社員という属性を、その後いろいろあって一家のお父さんという属性をも喪っている。宣子[峯村リエ]は生まれた時から家族に無縁で、死んだときに遺骨を世話してくれたのは社会的には不健全な関係にあるとされる吾郎。晴喜[米村亮太朗]は優れた双子の兄の陰として生きていた挙げ句、津川浅子[小島聖]にその兄の面影を追われてアイデンティティが混濁するし、その浅子に至っては最貧困女子すぎてバックグラウンドらしいバックグラウンドが存在しない。照美おばさん[岡まゆみ]とジノン[成清正紀]の関係性も、夜行バスでのやり取りを経るうちに「地元で近所同士だったおばさんと、その息子の友達」の偽装から抜け出せなくなる。知花[吉田紗也美]は、レズビアンであるという属性を両親にカミングアウトし否定されたことから病室送りに。庵野くん[長村航希]に至っては、劇中意思をもって動く彼は知花の想像上の産物であるため、病室で寝ている実際の彼はどのような人間なのかが明かされないまま終わる。なぜ夜行バス横転事故を起こしたのかも含めて。

2011 年、東日本大震災の前どころか年始すぐに書き上がった、福島を舞台(の一部)とした災害(人災だけど)にまつわる話ということで、何かとそういうリンクで語られがちな属性をこの芝居自体が持っていそう。実際こういった生命の維持になかなかの支障をきたす(うち何人かは本当に死んでしまう)災害に巻き込まれると、社会的機能や社会的属性は個人から案外すんなりと剥がれうる。避難所で毛布にくるまって朝を迎える際々において、肩書もその後ろだても何もかも無くなる。その地帯からなんとか外側に這い出て、混乱しつつもようやく何かが手元に戻ってくる。そのとき、手元にあるものが意味あるものとして輝きを放ち続けているかどうかは別として。あるいは、それははじめから輝きなど放っていなかったのではなかったか?

経験者には彼らの右往左往がわかる。そうでなくても目の前で展開されている芝居と個人の想像力によって、これからのいつか自分の身に降りかかるかもしれない唐突な「それ」に対する心づもりができるかもしれない。しかし、この芝居独特の構造と展開とが、感情移入という手段での追体験や想像をなかなか困難にする。属性のない人間に対して感情移入するというのも変な話かもしれないけど、個人的に私は誰に対して共感した、みたいなことは観劇後にしっかり整理すればできるかもしれない。それなりのリソースとエネルギーを消費してなら。

その構造と展開は、一見すると複雑な時系列成型によってなされている。当日の折り込みから察するに『アン・チェイン・マイ・ハート』『桃』『いきたい』『横転』の 4 編からなっているようなのだが、各々がさらに細切れのチャプターにされ、シャッフルされた状態1で『往転』というひとつの長編にまとめあげられている。4 つのシチュエーションを内包する時系列シャッフル劇と考えた方がいいのかもしれない。前後関係反転のトリックは演劇という動的なフォーマットにおいて活きるから、元(今回が初演ではない)からこのような凄まじいシャッフルが行われていたと考えられる。それにしても演出の方向性とも相まって、かなりテクっているなあという印象をこちらに与えてくる。逆にそこで冷静になるというか。一歩引いてみないとテクニックの「映え」に呑まれるだけで終わりそう。ちなみにそうならないために、時系列の詳細等を記しているらしいパンフレットを開演前から物販で売っていたようだけれど、そうまでしないとついてこれないものを作っているという自覚が制作側にあるのならば、そこに芝居の双方向性はあるといっていいのだろうか…2

  • 作・演出 桑原裕子
  • 開演 2020-02-29 18:00
  • 本多劇場

  1. 4 編は時系列的には『アン・チェイン・マイ・ハート』(前日譚)→『横転』(事故前後)→『いきたい』/『桃』(後日譚・2 編オーバーラップ)といった具合に連なっていると考えていい。ひとつの短編に注目すると、細切れにされてはいるものの、その短編の中での前後関係は保存されて進行する。

  2. これに関して突き詰めていくと、作・演出のブログエントリ( https://ameblo.jp/torobeyagaiden/entry-12574038238.html )で示唆されているように、ショウビジネスとしての演劇制作においては必ずしも演劇の双方向性にまで考え至れるほど充分な時間的/人的リソースが備わっているわけではないのでは、という別の問題が出てくる。いち観客としては、そこまで深入りしたくはない…。

『東京ノート』 / 青年団

「私の絵、描いてくださいよ。ちゃんと私のこと見て」

http://www.musashino-culture.or.jp/k_theatre/eventinfo/2019/11/-81.htmlwww.musashino-culture.or.jp

直前まで同じく吉祥寺シアターで上演されていた 『インターナショナルバージョン』 の源流であると共に、その上演順によって今回、こちらも単なる再演とは異質な、メタなコンテクストを背負っての公演となっていた。

美術館のロビーという密室環境で交わされる多言語会話が一種のファイアウォールとして機能し、芝居全体に不穏な膜のように間仕切りを張り巡らすギミックとなっていた『Intl. ver』とは一転。全役者が所謂“日本人”によって構成される今回のオリジナルバージョンに、そのファイアウォールはない。隣の会話の壁、全とっぱらい。『Intl. ver』では異質な言語の会話に対して文字通り異物への好奇の目をやる風だった“日本人”たちも、今回おなじように隣の会話に目をやり聞き耳を立てるようでいて、その瞳には筒抜けの会話内容に対する好奇のニュアンスが含まれているような気がしてならなかった。多言語版では壁の穴として機能していたマルチリンガルの不在、ひいては単一言語による密室での同時会話並行は、ロビーの各人へ等しくカクテルパーティー効果を与える。ある集団のシリアスな会話が他の集団のひとりの意識を上の空にさせ、そこから彼/彼女の属する側へ空気が伝播していき、会話の地合いが変わる。チラと隣に目をやった瞬間からそれは始まっている。この会話という行動を切り取っての、その挙措のリアリティ。本当に芝居なのかというほどの演技の追求は、オリジナルバージョンに更なるメタな視点を供してる。

言葉によるやり取りがどんなに滞りなく行われようとも、それがコミュニケーションそのものの成否とは全く関係のないものだというのは、『Intl. ver』での木下とコイとの会話に凝縮されていた。これがオリジナルバージョンでは、単一言語であるぶん全般的に悪化しているきらいもある。橋爪の「戦争はんた~い」はもっと直截的に共感性羞恥を喚起させるものだったし、学芸員(串本)は、弁護士(小野)に日本語で面と向かって「望遠鏡で宇宙を見るって言ったって、宇宙からもこっちを見てるわけじゃないですからねえ」と言ってしまうのだから、悲惨なことこの上ない。串本の小野に対する、あんた読解力ないでしょ感、言ってやった感。うひゃ。そのぶんその件を、より多くの(絵画の寄贈に関する)当事者の居る場で蒸し返した時の、小野弁護士の強かな恐さも半端じゃなかったけど。2034 年にもなってあんな人間性、あんなやり取り、あったらいやだなあ。昭和でやめよう。

各国の挨拶がちょっとだけ話せる空気の読めないオバチャン、という役割をオミットされた由美は、かといって手持ちぶさたになったわけでもない。上京を機に絵を描くことをやめ、プレイヤーではなく傍観者…プールサイダーになった彼女は、今まさに離婚を決断しようとしている弟の嫁(好恵)と共に、『Intl. ver』では多言語ギミックの後ろに隠れがちだった参加/不参加の問題1の核となっていた気がする。「愛することは、参加することだ、分かち合うことだ」 …韓国人カップルの会話パートに代わって今回しっかりと日本人カップルに同じことを言わせていたけれども、彼らカップルにしてみれば由美は愛することをやめてしまった人、好恵は愛せなくなったばかりに参加することをやめようとしている人。限りなく当事者であるようでいて参加者たりえない二人による「逆にらめっこ」で暗転するラストは今回、それが主要なテーマとして表出したことも相まって、絶妙に悪い余韻を引いて残す。由美はおそらくもうプレイヤーたり得ないことは、彼女がキャンバス代わりに持ち歩くデジカメのファインダーに、離婚を仄めかした後の好恵の、ベンチに座るその悲愴さを何気なく収めようとする(そして彼女に止められる)ところからも感じ取れる。その後に、写真ではなく絵で、今みずからが所属する“家族”から去っていくであろう自分を切り取って残してほしいとせがんでみる好恵の機微。写真と絵の違い。覚悟の差かなあ。でも、暗転の先に仄めかされる「逆にらめっこ」の勝敗から考えるに、覚悟が足りないのは由美ではなく。

木下の駄目な感じは、なんか言葉の双方向性があいまいな時に増幅されるのであろうよくわからないロマンチシズム、のとっぱらわれたオリジナルバージョンで、さらにひどくなっていて。せっかくついてきてるんだからさあ。誘った側が、一緒に、誰と、見たいかって話じゃん。って思うんだけど、読書とか観劇とかそういう芸術体験の共有って本当に相性だから、難しいってのも分かる。好きなものひとつでその人の人間性を判断しようとするほど浅はかなことはない、という考えも誰しもが持ち得ているわけではないようだし。それでいて、こうやってブログにでも書かない限りは、最近はどうも観劇体験の共有は臓物さらけだしてる感じがしなくもない。臓物だよこんにちは。まあでも結局、野坂の困り眉はきっとそういうことなのだ。そこで傷ついた彼女を、今しがた改めて傷つけてしまった脇田の「想い出のアカシア」にかこつけて庭園に連れ出す木下に笑ってしまった。でもきっとそれが作用の起点で、木下にとっての共有の、参加の始まりなんだろう。


青年団 第81回公演 『東京ノート


  1. 舞台設定でいえば、日本という国も 2034 年現在の戦争において蚊帳の外にあり(それゆえヨーロッパ絵画の避難先になっている)、「不参加」という属性を抱えている。串本(あるいは『Intl. ver』のニーナ)の「立場なんてないでしょう日本には、最初から」という台詞からも、状況が垣間みえる。

『東京ノート・インターナショナルバージョン』 / 青年団

「望遠鏡で宇宙を見るって言ったって、宇宙からもこっちを見てるわけじゃないですからね」

jfac.jp

本当の国際化、グローバリゼーション、ってなんだろう。劇中に各国の挨拶がちょっとだけ話せるオバチャン(由美)がでてきて、空気の読めないタイミングで外国語での挨拶をドヤっと大声でぶちかますシーンがひとつ象徴的なんだけど、これがオリザのいう「東京と地方の格差は文化格差である」のひとつの射影じゃないかと思って。おらが村に外国人がやってきて大盛り上がり、一家団欒の食卓を囲む日本家屋に外国人をお招きして、人見知りの小学生くらいの孫に爺ちゃん婆ちゃんが「ほらー英語習ってんでしょー英語で自己紹介してみなさいよー」みたいにつつく、みたいなアレの延長。由美も地方出身者だという設定だし。というか東京自体が、そういうおのぼりさんを受け入れる「ハコ」でしかない、みたいなのは散々いわれつくしていると思うんだけど、つまりこの話は日本全体に敷衍できるのではないだろうか。まあいいや。そういう言語倫理、語学学習観。これ 2034 年っていう設定になっているから、オリザの先物観でもあるということですよね。で、それをより直截的に悪ーく描いてるのが中学生(ゆう)のシーン。中学生は英語の課題で 20 人と英語で話さなければいけない。手当たり次第に美術館にいる外国人っぽいひとに話しかけるんだけど、「どうして日本に来ましたか?」という質問(英語)に対する相手の回答(英語)が理解できずに固まったり、サンプルを捕まえたと思ったら帰化人で、「日本人です」という回答にデッドロックしたりして。それでも英語で会話してもらって、目標達成。お勉強がんばったね。おわり。…みたいな。

で、こういうお題目だけの国際化に便乗して何が起きるかというと、「言語は特定の個人ないしはコミュニティの思考に関するファイアウォールになる」という油断というか奢りというか、とにかくそういうものが生じて。美術館のロビーを模した舞台上で、多言語(日本語、英語、フィリピン語?、タイ語、韓国語、中国語、ロシア語)の同時並行会話劇が進行するんだけど、日本の美術館に来場している外国人は、どうせ日本人にはわたしたちの言語なんてわからないでしょうという感じでシリアスな話、汚い話あるいは、日本で働いてるけどなんか疲れちゃったから母国に帰ろうかなという話なんかを臆面なくしゃべる。日本人の前で。こういう外国人コミュニティは実際そのへんにいくらでもいるけど。九州の片田舎のココイチにも、大声でそんなしょうもない話をしている白人の集団がいた。まじで。まあそういう場合、逆(外国→日本 ではなく 日本→外国 方向のファイアウォール)も同時に存在している状態すなわち双方向の壁であることがほとんどであって、劇中でもそのように日本語は扱われているけれど。…話は少し戻ってこの「そういう壁が存在すると思っている外国人がいる(いた)」という事実というか、そういう解釈をできてしまっているというのが既に問題なんじゃないでしょうか。それは「ファイアウォール」が部分的に破れているということだから。集団的には未発達でも、それがその集団に属する個人の能力を一様に規定してしまうわけではないのだ。ただ、その破れも不完全である場合…たとえば話されている言語を部分的にしか理解することができないといった状況で破れに干渉してしまった場合に、事態はより一層深刻さを帯びる。フィリピンの「平和維持軍」に参加しようとする男(マニー)と、彼の友人である女(ジョイ)との会話を少し理解できてしまったばかりに、「戦争の話をしている」と傍らの男(橋爪)に話してしまう女(寺西)。フィリピン語はわからないから「戦争はんた~い」「ノートゥーウォ~」と間延びした反戦運動コールを投げる橋爪、フィリピン側に走るマジモンの緊張、みたいなね。ここで現出する、言語に続く第二のファイアウォール、すなわち文化/思想/思考の壁。言語社会学的な見地に基づけば、言語の壁が文化をも隔てるってことかな。舞台設定として、先述したように時は 2034 年。原因は語られないが、ヨーロッパは戦火に包まれている。アジア諸国の対応は各国各様。ワンシチュエーション会話劇である本作の舞台は、とある日本の小さな美術館のロビー。その美術館に戦火を逃れてやってきた欧州の様々な絵画が展示されるようになっていくという話。日本は地理的にも、そしておそらく政治的、社会的にも、今回の戦争の当事者/参加者ではない(ということになっている)。

「愛することは、参加することだ、分かち合うことだ」
  ・・・なに、それ?
なんか、そう言って死んじゃったんだって1
 死なないよ、俺は。
・・・
 戦争してるわけじゃないんだし。
じゃあ、私も参加したいよ。
 ・・・
参加したい。

参加者ではない国の美術館で交わされる、参加する/せざるを得ない側の会話。兵役か、あるいはヨーロッパ戦役の軍事訓練に参加する男(パク)と、その恋人(キム)。韓国語による、部分的な言語のファイアウォールを以って。

中学生ゆうのデッドロックのもとになったロシア系帰化日本人(ニーナ)。「日本人はあまりこういう話をしたがらない」と日本人の視点で自嘲する彼女も、係争関係に発展しうるフィリピン人弁護士(ニコル)の前でロシア語で悪態をついてみる。そのロシア語が(実は)ニコルに筒抜け、っていうチョンボをやらかすところとか、極めて(本作での)日本人像的。ここでつく悪態(「望遠鏡で~」)は、その後の日本人(元)家庭教師(木下)とタイ人学生(コイ)のパーソナルな会話、ないしはそれ以前から連綿と美術館ロビーで紡がれてきた会話劇そのものに対する悪態でもある。これを帰化人に言わせるんだからなあ。

木下とコイの会話は面白い。最初はお互い日本語で話しているのが、途中からコイは英語で話し、木下は日本語で返すようになる。所々でその関係性も変転し、お互いが英語になって、再び双方日本語に戻って、どんどん曖昧になって。変な風に見えるかもしれないけど、けっこうこれって合理的な気がしてて。入ってくるボキャブラリと、自分からアウトプットできるボキャブラリとのギャップって、あると思うんですけど。語学に限らず母語での読書なんかでもありますよね、意味は分かるけど自分の会話じゃあまず出てこない語彙は存在する。そういうギャップを解消しつつ双方がインプットできて、かつアウトプットしやすい異言語コミュニケーションの姿が木下とコイのそれであって。特にパーソナルな関係性においては充分に存在しうるんじゃあないかな2。会話の内容も含めて象徴的なシークエンスだった。それ以上に、こういった個人間におけるカルチベートを内包したやり取りからこそ、本当のグローバリゼーションが形作られていくのではないか、それがオリザからのメッセージなんじゃないかなって。それでも、異なる言葉がこうやって通じる最高の言語コミュニケーション状態からオリザが導いた結末が、アカシアの木が象徴するすれ違いっていうのが、また、ね。

とにかく凄く面白かった。一瞬たりとも退屈するところのないワンシチュエーション会話劇。それを実現できる本や役者の力量。美術も良かった。岸田戯曲賞受賞作がベースだというけれど、これは劇場で観ても(観てこそ)圧倒的でした。何もかも。


青年団国際演劇交流プロジェクト 2019
東京ノート・インターナショナルバージョン』


  1. サンテグジュペリの遺した言葉らしい。

  2. というかその実存に言及した Twitter での post を 5 年くらい前に見た気がする。