公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『Happily Ever After』 / 演出: 根本宗子

www.nikkansports.com


TOHO MUSICAL LAB.

企画が立ち上がった(それでも 1 ヶ月前とたいへんに短期)ときと比べて、状況はより悲観的な方向に進んでいるように感じる。“要請”の解除によって劇場は大手を振って使えるようになった。ここ数週間で観客を入れての上演も復活してきた。劇場上演の形態に執着する限り何もできなかった1「劇場が使えなかった時期」と比べると、進歩があったと捉えるむきもある。一方で、解釈次第とはいえ連日の新規感染者数の推移であったり、全容も明らかになる前ではあるがこの時点で劇場公演におけるクラスターの発生と思しき事象も発生2したりと、取り巻くものと見通しは必ずしも明るくはない。

個人的にはかなり早期の段階から、もう元には戻らないと思っている側で(そもそも「元に戻る」とは何なのか…意味論ではなく)。かといって反復視聴の可能性を削いだストリーム配信上映は DVD 以下の価値しか提供できないと思っているし、Zoom 演劇は早々の飽和を見せて緊急事態宣言の終了と共に姿を消した。その中で、この企画はどちらかというと前者に近いコンサバな視覚を提供しつつ、「ラボ」と冠するようにあくまで実験公演である旨のことわりと、アプローチの発展を模索するという姿勢とをとっている。

果たして「ミュージカル」をもタイトルに冠するこの企画が、劇場での上演以外を選択肢に組み入れるまでに至れるのかどうかはわからない。可否は劇場への感情的な執着にだけ則っているわけではなく、楽器や音響ひいては“広場”を持たない日本の文化システムまで考慮した上で、劇場外でのミュージカルの成立可能性として検討される。最近だと気象の問題も無視できないし、「東宝」まで考慮するとスポンサー/テナントの事情も孕むのだろうけど…。

『CALL』/ 演出: 三浦直之

こけら落としとなる MUSICAL LAB. の初回上映作品として選ばれたこの作品は、無観客で完全な空席となった客席を舞台装置に組み込み敢えて画面に映すという手法で、通常の上演録画ものとは異なる何かを切り取る。観客の咳払い(今やタブーもタブーといったところになったが)や笑い声といった直接的な音声情報の欠如だけでなく、生体の不在をそれとなしににおわせる声の反響の違和感が、未だ元には戻っていない劇場環境をいやでも認識させる3

そういったみせ方も含めて、あくまで“上演演劇”のかつてを知っている演劇ファンあるいは関係者に向けた、喪失と追体験、そして癒しの話だったと感じる。チェーホフ『かもめ』をキーワードに、“上演演劇”の観念が基礎から喪われた世界を使って。


Happily Ever After』/ 演出: 根本宗子

一方で企画の後半を担った本作は、変容してしまった日常生活のベースとそれによって毀れつつあるもの(家庭)、喪われようとしているもの(以前の生活感覚や、“親密”な距離)を題材として、よりパーソナルでアーシーな感情に迫る。「劇場空間/文化の喪失」にフォーカスした前半の作品とは、想定しているスコープが大きく異なっていた。

それがより普遍的だと言いたいわけでもなく。よりリーチが広いとするのならば、それは普遍的だからではない。むしろ現状は全員が特殊な状況下に置かれていて、みえ方は似ていても本質はおそらく全く違う。

その特殊な、集団にじわりと蔓延しながらあくまで個々人に深く入り込んできた“病理”に、あくまで一対一で寄り添うこの肌触りが自分にとっての癒しとなりうる。背景に見え隠れする家庭崩壊とそれが子どもに及ぼす影響は不可逆で、劇中の“現実”もまた悲観的。けれども、悲観と前進は両立しうる。例えば ハラサオリ が「この状況は不安で絶望的な一方で、これから起こるであろうたくさんの変化が楽しみでもある」みたいなことを言っていた4。そういう状況解釈と可塑な適応が成すパフォーマーのクリエイションが、やっぱり見ていて楽しいじゃないですか。

現実と同じ夢なら、寝てる意味がない。

あくまでどこかしらに世相を織り込んでいないと古典かあるいはファンタジーになってしまう戯曲芸術に対して自己免疫疾患のように作用しかねない言葉であるとともに、作家がかつて劇場を訪っていた人々に手向けていた祈りの言葉。物理的に立ち現れてしまった第四の壁を突き抜けるもの。

ひとつ気になったのは、舞台上では同時に走っているポリ・フィーリングであるはずの riko の、カメラに入ってくる時間が極めて限定されてくるところ。上演芸術の特徴ともいえるポリ性が撮影配信で殺がれる部分は完全な解決をみていなくて、これは今後「ラボ」において研究を進めてほしい課題のひとつ!


  1. 一方で、脱劇場を志向した試みを模索する集団だったり、極端な例ではコロナ禍以前からの取り組みではあるが今となっては「自粛で劇場が使えないのはそれが公共物だからで、家が劇場なら使えなくなることもない」という論拠をまとう、自宅である長屋が劇場の貌も持つ個人のプロジェクト「家劇場」( https://iegekijyo.tumblr.com/ )といったものも存在する。

  2. https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2007/11/news032.html

  3. LinQ もラジオで、「(客の有無のステータスが視覚的に一切変わらないから)通しリハと本番との差を感じることができない、(本番特有の)視られることで分泌されるアドレナリンがない」と表現していたっけ(Buzz!!LinQ 2020-06-24)。

  4. ラジオ桃原郷 #8『家ラジオ meets 家劇場』