公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『Whose playing that "ballerina" ?』 / 別冊「根本宗子」第8号

『バー公演じゃないです。』インターナショナルバージョン。

entre-news.jp

  • 話の内容は変わらない。というかやはり話が良いなこの戯曲。人は他人のことを、気持ちを、解りうるのかどうか。幼年期からアラサーにかけての女の子の 20 数年のあいだでテーマをひっくり返しひっくり返し、ラストスパートの渡辺の独白で否定の方向へ一気に引き込んでおきながら、最後の数フレーズで救いへと着地する。渡辺の見えない壁を融かさんとする堀井の最後の台詞も、その時点での彼女たちの属性を鑑みればかなりどうしようもないところが好き。

  • 冒頭での自己紹介は、口頭で 2 ヶ国語。役者としての自己(名前)紹介、人種的バックグラウンドの紹介(4 人中 3 人が日系ハーフ)、演じる役名の紹介。日本語でそれらを一通り行ったのち、英語でも同じように話し終えると、その後はほぼ全編が英語による上演。舞台美術奥の壁、上手側上方に簡単な根本文法の日本語字幕がオンタイムで投影される。

  • 言語的にも文化的にもネイティブな人間が、このねもちゃん系自意識日本人女子のドタバタを観るとどういう情緒を得るのかは、けっこう気になる。

  • 芝居の字幕付上演ってやっぱり難しいんだなと思った。そもそも視線に制約のない舞台という空間においては、例えば台詞を放っている役者を見るのも自由だし、聞き役側の表情の機微に意識を集中してもいい。構図もフォーカスも、舞台の端から端まで全てが対象になり得、観客が自由に決めることができる。その自由すぎる視野へ、不慣れな言語と母語字幕が投入されると、視線や構図に制約がかかる。役者の表情なんてそっちのけになってしまって、芝居の醍醐味はどこかへ散っていくのだ。隣のお客なんか、役者がどんどん下手に向かって移動してる最中もずっと字幕みてた。視覚で聴覚を代替してはいけない。

  • MVP は、堀井を演じたまりあ。まずディズニーランド高速プランニング早口上での、眼鏡ごしにガンギマった目にありがとう。 『スーパーストライク』 の横手南ことたむけんに見据えられていた根本はたぶんこういう目、キーボードクラッシャーの目を至近距離で見たのだ。オリジナルの長井短よりも「ヤバいガキ」だった。なんか顔もちょっと長井感が憑依してた気がするけど。逆に何者なんだ長井。園児時代のミャーミャー声での喧嘩も良かった。そして何よりもバレエダンス。あの体躯で舞うターン、独特の無国籍な感じが出ていて魅入ってしまったな。 過去の公演 では高橋役や夢川役を使って行っていたミスリードも、今回は幼少期の堀井からバレリーナ公演での見知らぬダンサーまで総てをまりあが演じていたことで、コンテクストに変容が見られた。

  • 縷縷夢兎による舞台装飾はスパースになっていたような。舞台は広く天井も高い上、今回は字幕のために壁に一部、投影スペースをつくらないといけなかったのもあるだろう。あの装飾は下北沢駅前劇場みたいなせっまいハコでギチギチに配されていた方が、段違いに映える。東佳苗監督作品『out of fashion』とか最高なので。だからけっこう残念であった。

  • まあ結局、他人の気持ちなんて解るわけないじゃないですか(ほりえもんの著書ごとに必ず一回は出てくる話だな)。我々はテレパスではない。言わなきゃ解らないし、言っても伝わり得ない。けれども、言うこと、伝えようとしそして伝えることによって起こる相互作用が生み出す、あの最後の👍の交錯。「友達」という一言と認識を屈託なく自分に投げてくれる存在。不本意なディテールの不一致はあっても、ふきんのごとくそんなものを払拭して、でもきちんと絞ってないから拭き染みはしっかり残していくかのごときあいつのことが、たまらなく愛おしいのだ。


別冊「根本宗子」第 8 号 『THE MODERN PLAY FOR GIRLS』
Whose playing that "ballerina" ?
そのバレリーナの公演はあの子のものじゃないのです。(English ver)

  • 作・演出 根本宗子
  • 舞台装飾 東佳苗(縷縷夢兎)
  • 出演
  • 開演 2020-01-26 18:30
  • 於 KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ