公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『外地の三人姉妹』 / KAAT×東京デスロック

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今年は韓国発の表現に足を踏み入れた年だった。演劇を思うように観られなくなって音楽に対する揺り戻しが来たときに、どのような経路をたどるにせよ K-POP を聴くことになるのだろうという漠然とした予感が先ずあった。その予感が現実に近づきつつある頃に演劇の側から『愛の不時着』に対する絶賛の評が舞い込んできて、飛びついたところ見事に持っていかれた。流れで NIZI Project を観てからは、もう彼の文化が生活の中に入り込んでいるといっていい。彼らの創作におけるある種のかがやきのようなものには、思えば年始に『パラサイト』を鑑賞したときから中てられていたという気がするし、漠然とした K-POP への予感もそこに端を発していたといえる。ということは、本作の鑑賞は年頭からまるまる一年かけた韓国カルチャー行脚の総括になるのだろうか。

もともと本作を観ようと思ったのは(もちろん韓国の取材を意識しなかったとは言わないが)どちらかというとチェーホフの文脈で、昨今の状況もあり遅れに遅れたチェーホフ演劇鑑賞実績を、完全ではないにせよ解除するという目的があった。というわけでこの『外地の三人姉妹』、舞台設定は第二次世界大戦前後の日本統治下の朝鮮に組み替えられているが、下地はほぼ完全にチェーホフ『三人姉妹』を踏襲している。では、そのようなテーマの借用でナショナリズムに関する表現が成立する場合、〇〇(国名)カルチャーというのは一体なんなんだろうか?ということでもある。『ライトアップ・ザ・スカイ』で BLACKPINK のプロデューサーが似たようなことを言ってもいる。『韓国語で歌っているからそう呼ばれるのだろうか?「K-POP」とは一体なんだ?』と。

だから、この芝居を単純に日韓で語ること自体は微妙な向きがある。国名ないし土地の舞台設定でラッピングしてしまえばそのように見えてしまうこと、原作がロシア戯曲であることを忘れてしまうというポイントがこの芝居の面白さであることは間違いない一方で、仕組まれた罠にも似ている。言語によって隔絶された文化、あるいは文化によって隔絶された言語、によって醸成される社会群とその多様性は意識しながら『三人姉妹』のトレースであることを踏まえる。そのうえで外地入植者の内地「東京」への慕情、帰京への思いをパースすると、当時のとある階級、とある特殊な立ち位置からすればこれは普遍的な現実だったのだろう。見えてくるのはこの帰京という言葉とは対照的であるものの、上京になぞらえると現在でも散見される感情である。生まれ育った土地を離れて上京するという選択、文化や社会の基盤が異なる土壌への転進に際して「帰る場所があるからがんばれる」という言葉を聞くことがあるのだけれど、その帰る場所というのがまさに本作における内地、原作におけるモスクワだとすると、ひとはいかに実際は後ろ盾にもなんにもなっていないものを依りどころとして生きているのだろう。

全体を取り巻く不安、秩序の喪失、ロールモデルのリセット。コロナ禍でますます浮き上がってきたこれらは、すべて戦時に似ているのだと思う。その中で前を向いて生きること。「前ってどっち?」…たしかに必要なその前を向くということに対して劇中、出征する婚約者を同僚で「あるはずの」日本軍関係者に斬殺されてしまった三女が慟哭とともに問う。それに対する長女の返答が「皆が向いている方でしょう?」と同じく涙ながらに応えるのだけれど、皆が前進していったその先、結末を我々は知っている。このくだりから始まる原作にはない展開、特に『三人姉妹』にはない(あるいは限りなく薄められている)ナショナリティの混在が強く現れるのがラストシーンで、三幕にて開いた床の大穴に日本人たちが消えていったあと、開場時から無造作に置かれていた赤銅色に煤けた小道具たちを残った朝鮮の人びとがその穴に仕舞っていく。そしてユニット床で完全に蓋をしてしまうのではなく、舞台装置に使っていた純白のスクリーンを不完全に上に被せることで「片付け」終える。

静謐さの後ろに流れる感情を隠しはしないこの演出が匂わせるように、日韓関係において完全に片付けることは難しいであろう何かが存在はする。それが尾を引いているからなのか、あるいは別の観点(例えば配給側の的を得ないことこの上ない「韓流」コマーシャルなど)からなのか、「韓国カルチャーだから、観ない」という選択をしてしまっている人も少なくない。人間である以上、感情の問題は切っても切り離せないので仕方がないといえば仕方がない。けれども創作からかけがえのないエッセンスを得るためにはそういった感情の捨象は必要で、感情の、自己のある程度の客体化があってはじめてたどり着ける祈りのステージがあるのも実際ではなかろうか。感情を拾うためには感情を捨てるプロセスを経ないといけないことが少なくなくて、だから創作を観て心を動かされるからといってそのひとにすべての感情が兼ね備わっているかというと全くそういうわけではないと思う。このあたりの心の断絶みたいなものに対しては依然として複雑な思いがあるのだけれど演劇は自分にとって、少なくとも公演中はそういった(自己の内面に起因する)ものから客体の側に良くも悪くも自分を引き抜いてくれる。そこに劣等感を抱く理由は多分ないのだけれど、全体としてのバランスを欠かないようにしないといけない気がしている。

いずれにせよ「文化を受容する」って、「(その文化を育んだ)社会の病理を受容する」ことだと思うんだよな。前者を行うにあたって後者の存在を忘れないっていうこと。


KAAT×東京デスロック『外地の三人姉妹』

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