公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『東京ノート・インターナショナルバージョン』 / 青年団

「望遠鏡で宇宙を見るって言ったって、宇宙からもこっちを見てるわけじゃないですからね」

jfac.jp

本当の国際化、グローバリゼーション、ってなんだろう。劇中に各国の挨拶がちょっとだけ話せるオバチャン(由美)がでてきて、空気の読めないタイミングで外国語での挨拶をドヤっと大声でぶちかますシーンがひとつ象徴的なんだけど、これがオリザのいう「東京と地方の格差は文化格差である」のひとつの射影じゃないかと思って。おらが村に外国人がやってきて大盛り上がり、一家団欒の食卓を囲む日本家屋に外国人をお招きして、人見知りの小学生くらいの孫に爺ちゃん婆ちゃんが「ほらー英語習ってんでしょー英語で自己紹介してみなさいよー」みたいにつつく、みたいなアレの延長。由美も地方出身者だという設定だし。というか東京自体が、そういうおのぼりさんを受け入れる「ハコ」でしかない、みたいなのは散々いわれつくしていると思うんだけど、つまりこの話は日本全体に敷衍できるのではないだろうか。まあいいや。そういう言語倫理、語学学習観。これ 2034 年っていう設定になっているから、オリザの先物観でもあるということですよね。で、それをより直截的に悪ーく描いてるのが中学生(ゆう)のシーン。中学生は英語の課題で 20 人と英語で話さなければいけない。手当たり次第に美術館にいる外国人っぽいひとに話しかけるんだけど、「どうして日本に来ましたか?」という質問(英語)に対する相手の回答(英語)が理解できずに固まったり、サンプルを捕まえたと思ったら帰化人で、「日本人です」という回答にデッドロックしたりして。それでも英語で会話してもらって、目標達成。お勉強がんばったね。おわり。…みたいな。

で、こういうお題目だけの国際化に便乗して何が起きるかというと、「言語は特定の個人ないしはコミュニティの思考に関するファイアウォールになる」という油断というか奢りというか、とにかくそういうものが生じて。美術館のロビーを模した舞台上で、多言語(日本語、英語、フィリピン語?、タイ語、韓国語、中国語、ロシア語)の同時並行会話劇が進行するんだけど、日本の美術館に来場している外国人は、どうせ日本人にはわたしたちの言語なんてわからないでしょうという感じでシリアスな話、汚い話あるいは、日本で働いてるけどなんか疲れちゃったから母国に帰ろうかなという話なんかを臆面なくしゃべる。日本人の前で。こういう外国人コミュニティは実際そのへんにいくらでもいるけど。九州の片田舎のココイチにも、大声でそんなしょうもない話をしている白人の集団がいた。まじで。まあそういう場合、逆(外国→日本 ではなく 日本→外国 方向のファイアウォール)も同時に存在している状態すなわち双方向の壁であることがほとんどであって、劇中でもそのように日本語は扱われているけれど。…話は少し戻ってこの「そういう壁が存在すると思っている外国人がいる(いた)」という事実というか、そういう解釈をできてしまっているというのが既に問題なんじゃないでしょうか。それは「ファイアウォール」が部分的に破れているということだから。集団的には未発達でも、それがその集団に属する個人の能力を一様に規定してしまうわけではないのだ。ただ、その破れも不完全である場合…たとえば話されている言語を部分的にしか理解することができないといった状況で破れに干渉してしまった場合に、事態はより一層深刻さを帯びる。フィリピンの「平和維持軍」に参加しようとする男(マニー)と、彼の友人である女(ジョイ)との会話を少し理解できてしまったばかりに、「戦争の話をしている」と傍らの男(橋爪)に話してしまう女(寺西)。フィリピン語はわからないから「戦争はんた~い」「ノートゥーウォ~」と間延びした反戦運動コールを投げる橋爪、フィリピン側に走るマジモンの緊張、みたいなね。ここで現出する、言語に続く第二のファイアウォール、すなわち文化/思想/思考の壁。言語社会学的な見地に基づけば、言語の壁が文化をも隔てるってことかな。舞台設定として、先述したように時は 2034 年。原因は語られないが、ヨーロッパは戦火に包まれている。アジア諸国の対応は各国各様。ワンシチュエーション会話劇である本作の舞台は、とある日本の小さな美術館のロビー。その美術館に戦火を逃れてやってきた欧州の様々な絵画が展示されるようになっていくという話。日本は地理的にも、そしておそらく政治的、社会的にも、今回の戦争の当事者/参加者ではない(ということになっている)。

「愛することは、参加することだ、分かち合うことだ」
  ・・・なに、それ?
なんか、そう言って死んじゃったんだって1
 死なないよ、俺は。
・・・
 戦争してるわけじゃないんだし。
じゃあ、私も参加したいよ。
 ・・・
参加したい。

参加者ではない国の美術館で交わされる、参加する/せざるを得ない側の会話。兵役か、あるいはヨーロッパ戦役の軍事訓練に参加する男(パク)と、その恋人(キム)。韓国語による、部分的な言語のファイアウォールを以って。

中学生ゆうのデッドロックのもとになったロシア系帰化日本人(ニーナ)。「日本人はあまりこういう話をしたがらない」と日本人の視点で自嘲する彼女も、係争関係に発展しうるフィリピン人弁護士(ニコル)の前でロシア語で悪態をついてみる。そのロシア語が(実は)ニコルに筒抜け、っていうチョンボをやらかすところとか、極めて(本作での)日本人像的。ここでつく悪態(「望遠鏡で~」)は、その後の日本人(元)家庭教師(木下)とタイ人学生(コイ)のパーソナルな会話、ないしはそれ以前から連綿と美術館ロビーで紡がれてきた会話劇そのものに対する悪態でもある。これを帰化人に言わせるんだからなあ。

木下とコイの会話は面白い。最初はお互い日本語で話しているのが、途中からコイは英語で話し、木下は日本語で返すようになる。所々でその関係性も変転し、お互いが英語になって、再び双方日本語に戻って、どんどん曖昧になって。変な風に見えるかもしれないけど、けっこうこれって合理的な気がしてて。入ってくるボキャブラリと、自分からアウトプットできるボキャブラリとのギャップって、あると思うんですけど。語学に限らず母語での読書なんかでもありますよね、意味は分かるけど自分の会話じゃあまず出てこない語彙は存在する。そういうギャップを解消しつつ双方がインプットできて、かつアウトプットしやすい異言語コミュニケーションの姿が木下とコイのそれであって。特にパーソナルな関係性においては充分に存在しうるんじゃあないかな2。会話の内容も含めて象徴的なシークエンスだった。それ以上に、こういった個人間におけるカルチベートを内包したやり取りからこそ、本当のグローバリゼーションが形作られていくのではないか、それがオリザからのメッセージなんじゃないかなって。それでも、異なる言葉がこうやって通じる最高の言語コミュニケーション状態からオリザが導いた結末が、アカシアの木が象徴するすれ違いっていうのが、また、ね。

とにかく凄く面白かった。一瞬たりとも退屈するところのないワンシチュエーション会話劇。それを実現できる本や役者の力量。美術も良かった。岸田戯曲賞受賞作がベースだというけれど、これは劇場で観ても(観てこそ)圧倒的でした。何もかも。


青年団国際演劇交流プロジェクト 2019
東京ノート・インターナショナルバージョン』


  1. サンテグジュペリの遺した言葉らしい。

  2. というかその実存に言及した Twitter での post を 5 年くらい前に見た気がする。