『もっとも大いなる愛へ』 / 月刊「根本宗子」第18号
2020-11-07 19:00
言葉から逃げているような、あるいは言葉の力そのものを蔑ろにしているのではないかと思えるような他者に出会い、憤りのような、あるいは失望のようなものをおぼえてしまったことがありました。自らの言葉で綴ることに、綴ったものに責任をもつことに対して向き合えと思った。誰もが当たり前のようにそれを為せると期待したかったのかもしれません。
そこから間もなく自分も世界も激変します。世間の退屈は言葉を奪い、私においてはまず活字がそれまでほど頭に入ってこなくなりました。それは、自らも言葉を綴ることに拘泥することがなくなってしまったことを意味します。あれほどまでにヴォイスに拘れと憤った過去がありながら、しかし本当にオリジナルなヴォイスというのは極めて稀有なものであって、自分のヴォイスだと思い込んでいたものも食い散らかしてきたテキストや音声、あるいはそのほかの五感から意識的/無意識的を問わず行った接ぎ合わせだったのかもしれないと、深層で知覚したのでしょうか。己のヴォイスがパッチワークの範囲を出ないのか、血肉とできているのかは、何を指標や閾値として区別できるのか。その区別の基準すらも付け焼き刃になっていないか。そんなことも考えつつ、いつの間にか随分と言葉に対して疎遠になっていました。
劇場やライブハウス。あるいは美術館もそう。表現を受け取る「集会所」がかつてのように機能しなくなったいま、それはインターネット配信といったパーソナルなプラットフォームを通してより直接的に、1 対 1 で人に入り込み、個々人その人限りの解釈を引き出す可能性を強めたようにもみえます。少なくとも私は意見を分かち合える機会というものを悉く喪った。そこで薄々と、言葉に向き合ってほしいだとか、同じものを観て価値を共有したいだとかいう望み自体が説教くさい預言者然としていたであろうことに、感づいたのかもしれません。チャネルが外に開かなくなると残るのは己の思索だけなのだから、否が応でもその独善性に自身が突き当たるときは遅かれ早かれやってくる。
自身の言葉への信頼がゆらぎにゆらいだそこへ更に、踊り子が袖を引っつかみにくるのである。
個々人の解釈の、1 対 1 の時代であるのならば、たとえば手帳のような完全に閉じた場所へそれを書けば良い。けれども私がそうならない、そうなれないのは独善の残滓か、あるいは伝達手段としての言葉を信じたいという呪いか。
共有したいものができたとき、死ぬまででいいから観てみてほしい、読んでみてほしい程度の長期的で希薄な望み程度のものは誰しもが持ち得ます。しかし演劇の場合、そのシェアが可能な期間はきわめて短い。だからこそ、そこで本当に必要なのは執心じみた推薦では決してなく、鑑賞後に自らに残った余韻を血肉とする努力と、その血と肉をもってその後を生きていく覚悟をすることなのでしょう。それは、その表現を引き受けて他者へ共有するということの、広い意味での実践だということ。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。不義をよろこばず、真実をよろこぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。
コリントの信徒への手紙 13 章
2020-11-08 13:00
改めてカメラワークが途轍もない。独りよがりになりすぎない画角とピント。観ているものがあくまで芝居であるということをメタに意識する余地がないし、そのくらい視点や焦点に不満を感じることがない。本多劇場の空間的な奥行きまでわかるのは何がそうさせるんだろう。
特にぐっときたところは、sugarbeans アレンジのベースが入ってくるところでピントがにじむところ。そして昨日も思ったけれど、斜めに断ち割られたイエローとピンク…床と壁紙が形づくった二者の世界を分かつ境界線に、カメラの射線が一致するとき。
『コリント人への手紙』の一節を諳んじるシーンで睫毛の陰影が少女の顔をおおう。伊藤万理華、1 年前に新国立で観たときとは何もかも違ってみえる。ここまでのものが観られるとは。