公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『CATS』 / 監督: トム・フーパー

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前半は、どこ向いて作ったのかなこれは、と思ってました。キャッツって、主役級から名無しのアンサンブルまでいくつかの階層構造はあるものの、同時にたくさんの猫が出てきて彼らが群舞をする、ということが多いのですが、映画ではその群舞の視野/目線が強制される上に撮影方向もころころ変わるので、刷り込みで舞台ミュージカルと同じ意識で鑑賞すると“感覚”が狂うんです。言い換えれば、ミュージカル群舞としての良さはほぼ殺されてしまっている。これは舞台上演の映像化でもいうことができます。最近みた音楽劇だと 『プレイハウス』 がそうなっていました。ただし『プレイハウス』が舞台上演の編集映像であるのに対して、本作は始めから映画として構築し撮っているので、特に撮影方向の自由度という点で尚更、ミュージカルの感覚を前提とすると平衡が崩れ、心地悪さに繋がったのだと思います。

そしてこれも猫の同時性あるいは群像性によるところが大きいとは思うのですが、誰がどの猫を演じているか、がキャッツの楽しみ方の小さくない一部を占めていると思っていて。 四季版 のお客さんとか見てるとよくわかるんですけど。そして今回はそれを映画俳優(しかも外国の)が演じている。普段映画を殆ど観ない、芸能ニュースもチェックしない人間からすると、そのデータベースがすっぽり抜け落ちている。こうなると何がきついかというと、他方キャッツの登場キャラクターを全て詳細に把握しきっているわけでもないので、猫たちのアイデンティファイに非常に苦しむことになります。ステージを俯瞰した状態で逐次相対比較が行える舞台版のほうが、逆に早く同定が完了する可能性すら感じます。海外のミュージカルにおける俳優の文化がよくわからないので何とも言い切れませんが、映画化とスター俳優の起用は舞台から映画へと通じる“ライトな”懸け橋であるとは言いがたく、ある程度舞台版キャッツにも映画界にも通じた人間が観て初めて、キャッツのコアにたどり着けるような印象。キャッツ自体がメタなオタク心をくすぐる作品である上で、この映画、初心者向けのコンテンツじゃないよなあと。では一方で、映画から演劇への橋渡しにはなっているのか?というと、その方向へ誘導するような仕掛けもあまり感じ取れませんでした。

というかやっぱり舞台演劇と映画では方法論が違うから、舞台では成立する“猫縮尺”視覚効果を映画でそのままやると、やっぱり浮きますよ。頭身が猫じゃないもの。特に縮尺の違和感は前半において、かなり意図的に多用されています。わざとなのはわかった上での話。アップか引きかでその違和感も転々と換わっていくので、観ていてわりと疲れてしまいました。

と、悪いところばかりあげつらってしまいましたが、それで終わらせたいわけではありません。やはり映像作品においては役者の表情を大写しにでき、加えてそのタイミングを鑑賞者に(言い方は悪いですが)“強要”することができる。これの何が良いかというと、特に後半のドラマが作りやすいということ。どうなったかというと、なぜ娼婦猫グリザベラがジェリクルキャッツに選ばれたのか、それがこの映画版を観たことで腑に落ちたんですよね。猫たちの選出基準への共通認識に勘違いがあったのか、長老デュトロノミーすらも勘違いしていたのか、あるいはグリザベラの魂を削った歌唱に心打たれたデュトロノミーがジェリクルキャッツ選考のレギュレーションを変えたのか。いずれにせよ今回のグリザベラ選出の必然性がわかる成立がありました。作品自体は再鑑賞にあたるので、6 年前に比べると単に私が作品のテーマを汲み取るスキルを身に付けただけかもしれませんが。グリザベラ以外は、まだ自分のアイデンティティを確立して(あるいは手品猫ミストフェリーズのように劇中で確立を果たして)現世界で楽しくやってるんだよな。天上界での生まれ変わりというのは、それ以上の何かが約束されているわけではなく、あるいは“禊ぎ”に近いのかもしれない。もしかするとそこは、ロンドンよりも汚い・きつい・危険なところかもしれないし。満場一致(というより有無をいわせぬグリザベラの迫力)でジェリクルキャッツが可決したとき、ジェリクルキャッツや天上界が一体どういうこと/ものなのかという神学的なエッセンスに、全猫がなんとなく感づいたんじゃないかな。そしてスクリーンの前の鑑賞者(私)も自分なりに悟った。鉄道猫スキンブルシャンクスなんかはグリザベラのように地獄を味わってからが選択されるチャンスなのかもしれないし、劇場猫ガスに至っては誇り高いまま死ねるでしょうから、あとは勝手に輪廻に流されてから考えればいい。まあそういう風にテーマを演繹するところまでは今回いきましたけれども、結局それに同意できるかどうかは別でした。最近の自分の自意識の仕上がりかたからすると、現世を(だけを)生きろよと思ってしまう。転生あるいはそういう考えは、あっても最後の手段です。あくまで各自が何を拠りどころにするかの、まさに“宗教観”の問題ですが。

そんなことを考えながら観ていたスクリーンの前の鑑賞者に対して、最後に長老デュトロノミーは語りかけます。猫は誇り高き生き物。その猫たちと、この映画でのように語らいたいとき、あなたたち人間はどうアプローチするべきか。つらつらと歌い語られる長老の言葉の中にヒントが垣間見えるように、これは猫へのアプローチ方法ではないんでしょうね。ここも、長老をバストアップで映しながらそこで初めてカメラ目線を利用するという映像ならではの方法論で、メッセージがわかりやすくなっている。作品のテーマを感じ取りたいなら、この映画版はおすすめです。ただミュージカルである以上、やはり映像との相性は悪い部分が少なくないので、変わらず舞台版が根底にあるべきだとも思います。映画はあくまで、少なくとも一度はキャッツに触れた人間へのサービス的なコンテンツに位置づくんじゃないかと。キャッツはガチになると楽しみ方が複雑難解、メタとコンテクストの塊であるという認識は変化しませんでした。

色々と御託を並べましたが、テイラー・スウィフトがまあ、えっちだった。


『CATS』