公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『アジアの女』 / 演出: 吉田鋼太郎

spice.eplus.jp

あらすじ

「震災」後の避難区域で細々と暮らす竹内兄妹のもとに、かつて兄 晃郎[演:山内圭哉]を編集者と仰いでいた鳴かず飛ばずの作家 一ノ瀬[吉田鋼太郎]が訪ねてくる。一ノ瀬の来訪を機に、妹 麻希子[石原さとみ]に恋心を抱く警官の村田[矢本悠馬]を含めた、竹内家周りの避難生活に変化が訪れる。

病気を患って以来、外に出たことのなかった麻希子は、久しぶりの出先で鳥居[水口早香]という女に出会い、「ほどこし」とよばれる仕事で配給以上の生活を手に入れようと奔走をはじめる。竹内家の周りで居候をするようになった一ノ瀬は、晃郎をそそのかたり、村田の落としていった官能小説を盗作したりすることで、次なる作品の執筆を為そうとしていた。が、自宅の前、陽も当たらない避難区域の「はたけ」、いつ芽が出るとも知れないそこへなけなしの水をやり続けるだけの生活から、「ほどこし」によって外なる世界の聖女へと飛翔せんとする麻希子こそが、次なる小説の題材「アジアの女」となりうることを閃く。

事実にインスピレーションを得た創作が形を成そうとする時、その創作に込めようとしていたメッセージを一度にひっくり返すような「災い」が唐突に起きる。

感想

作中の災害におけるデマの価値観や、避難生活周りのシステムから、解説はなくともその「災害」は関東大震災をモチーフとしていることが読み取れる。それは東日本大震災を経た 2019 年の再演1においてもなお、モチーフをアップデートせずに維持しているということでもある。つまり、再演の意図は概ね、3.11 前に描かれた予言的な戯曲を 3.11 を経て改めて上演することによる、戯曲そのものへの新たなコンテキスト付け、といった感じだったのではないだろうか。

結果としては、3.11 後の 『天使は瞳を閉じて』 と同じような感想になった。予言的な戯曲は予言的な戯曲で終わらせるべきなのかもしれない。それを再演するという決断そのものが、事実への敗北を決定づけてしまうから。『天閉じ』の場合は、冒頭のシークエンスそのものを現実すなわち 3.11 に寄せてしまい、一気に戯曲の神話性・寓話性が喪われてしまっていた。本作では、結末における「事実は小説より奇なり」にも似たメッセージを、上述の再演するという作為そのものでメタ的に変奏してしまうという、より高レベルなコケ方をしてしまっているような、そんな感触を受けた。

石原さとみの、病気から快復しきっていない娘を演じる目の焦点の合ってなさは、終盤かなり恣意的なピントを帯びるところで漸く演技的な気色悪さを醸してくるのだけれども。それがいまひとつはっきりと浮いてこない序盤では、この妹は盲(あるいはそれに近い)なのか?と誤認するようなギリギリぼんやりとした感じで、目ではなく精神を病んでる感はなかなか確信につながらなかった。避難所の灰ばんだ黒に、彼女の衣裳である鮮赤や純白の衣裳が映える。なんとなく『最後のジェダイ』を想起した。蜷川幸雄の文脈なんだろうけど。

ラストのシーンは、インタビューをみるに今回追加した演出だろうなあ。

情報

『アジアの女』