公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『ピルグリム2019』 / 虚構の劇団

natalie.mu


例えば冒頭の劇中劇への観客のレスポンスに六本木が感じた過度の画一化と、それへの拒絶反応の原因。

ディストピア小説が売れるという路線に合わせようとしつつも、自らの書いたユートピアを壊すことに六本木が逡巡する理由。

ユートピアに辿り着くためには、なぜ彼の物語の登場人物は犠牲になっていかなければならなかったのか。

それらの根源である六本木の過去。

作家は自分の人生を切り売りすると同時に、自分の、あるいは他人の人生を生きなおすこともできるということ。

登場人物が作家の意思に反して自立し、歩き始める瞬間。

見えない者と見える者との交錯、特にラスト、カイが直太郎を生かす原動力になっている風景。

黒マントの男。

第三舞台版に比べると、物事の因果関係が細やかに書かれるようになっていたと思う。その分、想像の余地や、雰囲気による成立(これがどういうわけか第三舞台では物凄く重要なのだ)は薄れて、初演の持っていた魅力そのものは、そこには無かった。

ただ、そういう変化もあったことで、虚構の劇団の芝居にはなっていたと思う。『イントレランスの祭』や『ビー・ヒア・ナウ(深作健太演出…正確には虚構の劇団ではないが)』に近い。


  • 小野川晶には元々どこか長野里美を感じるところがあったけど、今回は完全に長野を“演らされて”いた。あれはどうなんだろう。

  • 森田ひかりは山下裕子ではない気がした。逆に 『グローブ・ジャングル』 の頃に近い演技の芯があったような。良かった。

  • ミッチーは…最初ほんとうにミッチーだと分からなかった(十数秒間は男だということすら認識できておらず、なぜ笑いが起きたのか分かってなかった)。あざとすぎる。今回の直太郎兄弟はどっちも LGBT なの?(表層は完全にそう…)


鴻上の芝居に何を求めている(た)のかと考えると、多くの芝居の最初もしくは最後に持ってこられる印象的な、長いキャッチコピーのような独白、あるいは群唱。『ピルグリム』なら、「狂うことは少しも恥じゃない」に集約される一連の、湿原とそこに眠る手紙の話1。極論をいえば、そこ以外の部分は全て“ツマ”なのかも。

もっと抽象然としていて、かつ芝居がその場限りの体験だったら、そのアプローチは重要で、それこそテイクホームメッセージとして機能し得たはず。説明過多になり、ある意味ではより小難しくなった「現代版」の展開において、そのパッセージがかつてほど力を持てたのだろうか。「久しぶりに観られて良かった」かつての観客たちへの、ファンサービス以上のものは持たなくなっているでは。

『2019』が群像色を増したように、ひとつのパッセージというよりは、構造が力をもつ時勢なのだとしたら、戯曲を使い回す限りはそのギャップに苛まれることになる。再演の意義というのは、やはりなかなか難しい。


『天使は瞳を閉じて』 ほどちぐはぐなアップデートはかかっておらず、しかしながら舞台設定は SNS 以降の日本である。六本木の書く小説の設定が殆ど変わっていないぶん、精査するとどうしてもそのギャップは目立つ(だからこそ彼は売れない小説家で終わっていこうとしているのかもしれないが)。っていうか SF だのミステリーだの以前に、今ならラノベだよね、あれ。

今回のアップデートで、「伝言ダイヤル」に相当する“逃げ場”は無くなっていた(あるいは原型を留めないほどに変質した?)と思う。インターネットは伝言ダイヤルではなくなってしまったから、それこそ狂える人間が狂える場所は…。


オアシスで立ち止まれば水は澱んでしまう。

共同体に殺される必要なんてない。

今生きづらさを感じている人たちは、何処にユートピアを夢見ているのだろう。高知県


  • 開演 2019-03-15 19:00
  • 近鉄アート館