公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『組曲虐殺』 / 演出: 栗山民也

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井上芳雄という名の世界観のようなものが存在するのではないか、という漠然とした感覚が『グレート・ギャッツビー』以降あって、それが確かなものになった。井上芳雄という世界観だこれ。そして『ギャッツビー』のときも思ったけど、やはり音楽劇は可能な限り生演奏であるべきだ1。今回は小曽根真によるソロピアノの舞台音楽。ジャズのフィーリングが音楽パート全編を支配していたことで、ナマモノである…もとい舞台演劇、芝居であるという意義がしっかり生きてた。井上芳雄ソロ曲での井上と小曽根の呼吸は、間違いなくセッションのそれだった。

権力の伴う大衆からあぶれた者たちの希望としての、反権力的創作物たち。大事なのはアカだの治安維持法だのといった当時の世相や、右だの左だのといった現在にも通ずる思想ないし世論というよりは、ペンを、言葉を、暴力で封じてはならないということであって、これを、銃器でもって国家権力から自分を守ろうとしてくれた姉[演:高畑淳子]に対して小林多喜二井上芳雄]の口から語らせたという台本上の事実こそが、井上ひさしの思いなのではないだろうか。アカはアカでリンチだったり(年代は違えど)ゲバ棒だったりをやっているわけで。だからこそ普遍的なテーマになるべきであって、上演時の政局に結び付けるような特殊化をするべきではないと思うんだけど、ちょっと栗山に関しては 『木の上の軍隊』 で危うさを見た気がして。ただ今回に関しては、井上芳雄がかなりそのあたりにバッファをかけることができていたというか、世界観での包み込みというか、もうなんか凄いので、一回は井上芳雄を観た方がいい。観るなら生オケで。

そして今回のテイクホームメッセージである。ものを書くということにおいて、人は全力でそれにぶつかっていかなければならないと多喜二は、政局上の敵対者であると同時に文筆の弟子でもある特高警察官 山本[土屋佑壱]に説く。頭で、手で、書くのではなく、カタカタ…カタカタ…と、胸の奥底から溢れ出る制御できない思いを形にするということで。それは何も考えずに SNS 等に思ったことを垂れ流すということではない(それだと結局、脳で書いているだけだと多喜二に説教されるであろう!)。人によってはその全力を感情失禁であると、蔑み、忌み、嗤うかもしれない。確かにわたしだってそういったものに触れたとき、引くことがある。でも同時に、羨ましくなることもある。この侮蔑と羨望の背後には、なにか“しきたり”のようにして生来すりこまれているジェンダー観の横たわりを感じる。演劇でも小説でも、ブログでもそう。失禁できるひとはかっこいい。ただし×××に限る。

どうも周りからは相対的に、合理的だとか理屈っぽいとか思われている時期があった。職場なんかだと特にそうだったかもしれない。でもそれは、そう思っているあんたたちがただただボンヤリと生きているからであって、思考のしの字もまともに書こうと思ってないからなだけだろう?と。世の中もっといくらでも理詰めで、頭がよくて、バキバキに攻めていける人間はたくさんいる。わたしは物事の最終的な決断にかなり非合理な、言語化できない要素をぶっ込むことを、自分でだってわかっている(はずだ)。観た芝居の、最後の最後に評価を決定するものが、あと一歩の ものすごい観劇体験 の天井をぶち抜くかどうかが、感情を揺さぶるか否か、すなわち エモいか、否か なのです。右でも左でも、アカでもシロでも、男でも女でもなく。そんな一辺倒なカテゴライズ、二分化されただけの役割を、他人に期待するな。求めるな。そういうものをぶち壊すために、言葉が、文字が、表現の場所がある。ならばそこに、何か投げ込んでみよう。最近はそんなことを考えて、生きてみています。


組曲虐殺』

タイトルの「虐殺」は、喜劇から一変して終盤、極めてミクロに描写された一連の叙景、多喜二の拷問死のことだろうか。


  1. 劇団四季もたまにはマスよりクオリティを狙って、生オケ回帰公演とか打ってほしい。わりと本気で思ってます。

  2. https://horipro-stage.jp/stage/kumikyoku2019/#staff