公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『顔も、声も、』 / 演劇引力廣島 第16回プロデュース公演

stage.corich.jp

意識的に広島県を訪れたのは、おそらくこれが初めてになる。神戸ほど洒落てはおらず、大分や山口(の瀬戸内海側)よりは自意識がある。良い地方都市感。あとローソンが赤い。

そもそも去年までは蓬莱竜太がプロデュースし、脚本から演出まで携わっていたというこの企画を、演劇を観るようになってこのかた、どういうわけか認知する機会がなかった。地方ならでは、なのかどうかは置いておいて、27 人との密なワークショップによって練り上げたのであろう面白そうな本を演ったり(『昼下がりの思春期たちは漂う狼のようだ』)、個人的に観たいと思っていた『デンキ島』『五十嵐伝』などの公演を打っていたりしたというのだから、知っていたら毎年通っていたに違いない。

今年からは蓬莱は制作を離れ、広島に軸足を置く象千誠にバトンが託されている。おそらくそこでは蓬莱の携わった残り香だったり、地方にしては珍しい制作が見られるのではないかと思い、観に行くことにした。

あらすじにあるとおり、本作はチェーホフの四大戯曲のうち 3 つ、『かもめ』『桜の園』『三人姉妹』から主要な着想を得ている。鑑賞当時は未読だったため、最低でも左記 3 作の台本を読んでから考えを整理しようとしたら、こんな時期になってしまった。

『かもめ』『桜の園』については、チェーホフ自らが副題に“喜劇”と冠している。これが中々にタチが悪い。革命前後における貴族あるいはインテリ階級の、時代の趨勢についていけずにアーとかウーとか言っている感じを群像的あるいは俯瞰的に描いて、この生き様の滑稽さが人間のおかしさでありますね、といった具合の、嘗ての“下層”が“上層”を見下すような構図をもってしてのコメディ…というコンテクストである。『桜の園』に出てくる親世代にこの“おかしみ”の色が強い(一方で『かもめ』においては、些かショッキングな結末でも描かれる若年世代の頭でっかちさに重きが置かれている印象)。

それらを取材し、現代日本に落としこんだという本作は、時代錯誤の栄光への執着を見るための喜劇では全くなく、上京という浮上を夢見て、しかしながら破れて沈んだままの失意を、湿度少なめに描いていたように思う。チェーホフを読めば、元ネタはわかる。タイトルが『三人姉妹』最終盤の或る台詞から取られている(少なくとも新潮版の神西清訳において、そのままの翻訳詞を観測できた)ことなんかは、オマージュ元を読破して初めて実感できるものだ。しかしながら戯曲の本質的には、チェーホフ喜劇の延長には無かった気がした。

地方ならでは感があったかというと、少なくとも、広島である意義というのは見つけ難かった。地方で都心っぽい制作をやりたいのか、地元に根ざしていくべきなのか、どちらにも振り切れていないまま走っているように見える。芝居の舞台は青森と東京近郊。『桜の園』の庭園に比定される東北のりんご畑は、より広島らしく、瀬戸内のみかん畑では駄目だったのかというと、鬱屈、荒涼とした木枯らしのような“雰囲気”が出せないのかもしれない。『かもめ』冒頭を意識した「人生の喪に服し」ている感じが出ないともいえる。画づくりという点では、柑橘はりんごのように丸かじりできないというのもある。“画”が先行していたのだろうか。

ではその画を成立させるためのディテールを、例えば蓬莱のようにガチガチに方言指導をキメて構築しているのかというと、そういうわけではない(特定の地方を舞台とする全ての演劇において、必ずしも方言等の再現が適切なアプローチだとは思っていないが…)し、その方向性に持って行くことが是となる座組というわけでもなさそうで。例えば、熟年に差し掛かっていてもおかしくないであろう「先生」の役や、より直接的には田舎の老婆の役には、20 台と思しき役者が配されている。別に役者と役の乖離があることが問題というわけでもない。その乖離を埋めるのが演技の醍醐味であるともいえる。ただ、本や演出は、そのあたりにもっとリアリスムを欲しているような印象を受けた。物語が先にあるのであれば、それに沿うようなキャストの確保が要る。地方演劇における課題の一端を垣間見てしまったのかもしれない。

孤独に死んでいった主役「倫子」の過去を遡るために東北へ“他人探し”をする若年バイト 4 人組や、倫子とは異なる道程で上京を模索する田舎のヤンチャ 3 人組といった、脇を固める学生~若手部隊が結構よかった。彼ら若手のうちどれほどが、倫子と同じように上京を選択する(した)のかわからない。上京をするという覚悟は、称賛されるべき素敵なものだと思うし、残ってやっていくのであれば、蓬莱から象に渡って本格的に地方プロジェクトの色を帯びてくるであろう今後の演劇引力廣島を、盛り立てていってもほしい。あるいは全く別の選択があってもいい。少なくとも、福岡のシーンなんかよりは、ポテンシャルや真摯な姿勢を感じた。

また広島を訪れるきっかけになっていけばいいと思うけど、そういう“インバウンド”が地方のシーンとして健全なのかどうかは、よくわからない。