公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『天使は瞳を閉じて』 / 虚構の劇団

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第三舞台の同作の再演。虚構の劇団による再演は 5 年ぶり 2 度目となる1

旗上げ時はその平均年齢の若さを押し出していた役者陣も(劇団員の新陳代謝的な入れ替わりを経つつも)順当に齢を重ね、ついにマスター役を客演ではなく生え抜きのメンバー[渡辺芳博2]が演じるようになった。

脚本はオリジナル(第三舞台版)から大きく書き換えられている部分が存在する。3.11 を経た今、その序章は架空のメルトダウン事故から、福島第一原子力発電所事故をなぞった導入へ。

鴻上脚本にしばしばつく評として、彼の描いた世界観に数十年後の現実世界がシンクロするというのがある。第三舞台が今から 20~30 年前の劇団なので、特に最近の再演評でこのシンクロに関する言及をしばしば見かける。その先見性のようなものは確かにすごいと思うのだけれど、では実際にそれが起きた場合に、フィクションをノンフィクションの側にすり寄せていくような改稿が良いかというと、そうは思わない。物語のスケールを逆にこじんまりとさせてしまっている感じがするし、何より「事実は小説よりも奇なり」に自ら屈してしまっているように見えなくないからだ。創作は創作として、超然とした立ち位置に居てもいいはず。予見していた側なのだとしたら尚更に。

この本に限った話ではないけど、そういった従属関係の逆転が最近の鴻上の本には見られるようになってきている印象がある。特にネットワーク(インターネットなど)周りに関しては、彼の理解は現実に追いつかなくなってきていると思う。再演の場合は、改編して妙に現実に寄った部分と、改編せずにそのままファンタジー/フィクションの雰囲気を残した部分とのコントラストが悪い際立ち方をしてしまい、観ていてちぐはぐだなあと感じる部分も少なくない。

初見の虚構の劇団版では、天使 1[小沢道成]が現実世界に積極的な介入を始めてしまうターニングポイントだと思っていた、ウソ発見器のパートがごっそりと削られてしまっていた。ウソ発見器がもう時代にマッチしていないのは承知だけど、代わりになるようなパートがないのがストーリーラインとしては致命的で、天使 1 がこわれていく物語性が唐突になって説得力を持たなくなってしまったような気がした。

ラストパート、再度の崩壊を迎えてしまった人間界にひとり残された天使 2[森田ひかり]が地上の仲間たちを偲ぶシーンにて、直前のパート(天使 1 の崩壊)で排出されなかったと思しき小道具の羽根が天井から一枚、ひらひらと落ちてきた。画としては合っていて、こういった偶然性3も舞台の醍醐味なんだけど、この偶然が無かったらもっと悪い後味を持ったのかなと一度でも思ってしまうと、そこから白けモードに入ってしまうことにもなる。

本作の第三舞台(インターナショナル)版はとても好みで、しかしながらそれは記録メディアで当時を再生することでしか得られないものがあるからなのだと理解しつつある。生きた舞台だからといって、再演で同じ、あるいはそれ以上の良さを享受できるわけではないということなんだろう4、と改めて思う。


  1. 前回の虚構版は未鑑賞。

  2. 大高洋夫に声が似ていると言われることもあるという彼が大高ポジション(虚構による 1 回目の再演でもマスターは大高が客演していた)を演じることになったというのは面白い。虚構でマスターに適役と言ったら渡辺さんしかいないとも思うし。

  3. だと判断した。

  4. 【2016-12-22 追記】こういった体験もあって、直後の鴻上の新作『サバイバーズ・ギルト&シェイム』もスルーしてしまった。