公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『化粧 2幕』 / 劇団ドラマ館

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実は今(2019 年 6 月現在)、井上ひさしの遺した「こまつ座」でもやってるんですよね、これ。

ただ、( 『木の上の軍隊』 が意外と簡単に取れたというのもあって)甘く見ていたらチケット完売につき買い逃しました。そして偶然か、その裏でやっていたこの市民劇団による上演を把握して、観て、理解しました。

面白い。こまつ座は取れなくて当然かもしれない。

手垢のついた「メタ」という言葉を遣うのがおこがましいほど精緻な構造化が、多重に施されています。第三舞台『リレイヤー III』の着想なんかは、本作から得たのではないかとも感じました。より直接的なオマージュ(というよりサンプリングか)としては東葛スポーツ 『袋とじ「根本宗子」』 がありましたが、あれを観てそのまま源流を辿ろうとはとても思えなかったので、今年は井上ひさし関連の別作品 2 本の観劇で助走をつけていてよかったと思います。


惜しかったのは舞台装置。序盤でちょこっと触れられる劇中の「劇団」ならびに「劇場」の事情、その真意が第 2 幕で明らかになる瞬間の場面にて。

話の流れを考えれば、おそらく本当は後ろのカーテン状の幕がバカッと左右に開いて「町」が露になるはずだったのかもしれませんが、レールがうまく動かなかったのか半分くらい動作したところで止まっていました。あれは「劇場」の取り壊しが進行して露天になっちゃったというシーンなので、ユンボで雑に取り壊したら「半壊」っぽくなった、といった解釈を取れなくも無いのですが、それまでごくオーソドックスな演出をしていたので単に装置不良なのだと思います。初日だし仕方が無いですね。


といったことを観劇中に考えていながら、同時には全く気づけないまま暫くいたんですけど。劇中でまさに「劇場」の解体が進行していたように、そんなところに客は入らないし、上演もない。つまり始めから狂人が取り壊される劇場の中でやっていた、異常行動の話だったということ、に。

「ない」ものが「ある」ように脳内で補完していく「観劇のお約束」に、一人芝居という本作のフォーマットが組み合わさったことで、おそらく完全に先入観がはたらいて術中に嵌っていたのだと思います。五月洋子が自分以外に誰も「居ない」のを理解していながら座組と話したり来客に応対したりしていたということに、ふと気づいた瞬間、「メタ」な喚きだと思っていた「どうしてこの芝居には誰も出て来ないんだよ!」という叫びが、目の前で息子が息子でなくなっていくあのシークエンスが、ふっと消える観客席のざわめきが、あのラストシーンが、一気に構造として立ち上がってくるんです。冒頭の「メタ」というにはあまりにも…といった感覚や『リレイヤー III』とのリンクがそこで顕現して、遅まきながら決して不親切というわけでもないその捻り技に完全に持っていかれました。文学賞も嘗める国民作家は伊達じゃないですね…。


人間、毀れてしまってもその精神世界のサンドボックスの中ではどこかで事実を正しく認識してもいて、現実と転化の共存の中で今できる最高の結末にひた走ろうともがく。一見すさまじいホラーでありながら、しかしそれを悟りさえしなければ喜劇にもみえる。あるいは、悟ってすらなお喜劇とみえたかもしれないあの終わらせ方は、芝居というサンドボックスあるいは一種の集団催眠から後腐れなく観衆を解き放てる筆の力なしには不可能な芸当だと思いました。

いつかこまつ座でも観てみたい。


劇団ドラマ館 第 34 回公演『化粧 2 幕』

  • 井上ひさし
  • 演出 阿部道雄
  • 出演 あべ敬子
  • 開演 2019-06-15 18:30
  • 於 多摩市立関戸公民館 ヴィータホール

鏡なしに、客席に向かって大衆演劇の舞台化粧をしないといけない本作の役者は大変だ。