公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

【再演】『母と惑星について、および自転する女たちの記録』 / パルコ・プロデュース 演出: 栗山民也

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再演

初演も観た。

cobayahi.hatenablog.com

観劇録

どうして初演ではおぼえていなかったのだろう。シオの独白は、これから共に人生を歩んでいくことになるかもしれない相手への、手紙だったということが最後の最後に明らかにされていたのだ。

産む/産まないの選択や、呪いが引き継がれるかもしれないといった懸念は、(婚前妊娠によって物事の前後関係が多少おかしいことになっているとはいえ)この芝居の本質ではないのかもしれない。これは、似たような境遇にある/あった人間がシオの選択に対してああだこうだと述べる話ではなく、もし相手がシオのような人生を送ってきた人であった場合でも受容できるかどうか、もとい受容ができるようになるための話。あるいは、かつてシオだった人、今もシオであるという人…むしろ三姉妹の誰であってもいい、「普通の家庭を知らないのではないか」と懊悩する人たちが心を開く一歩を踏み出すために、蓬莱が贈った後押しだったのではないか、と。

『消えていくなら朝』 よりも前に、家庭に関する話を部分的にではあるが描き出そうとしていたのだな。同作を観てから本作に触れ直した結果、見えてきたところがある。ここからさらに『まほろば』に触れたとき、どのような心象が立ち上がってくるのだろう。

2 年半前にはどうしてここまで考えが至らなかったのか。間に観てきた数十本という演劇、そうでなくとも単純に年月の経過によるものが、感想を変えたのかもしれない。でもおそらくは、2 年前の初演では入り込みきれなかった切迫のシークエンスに、すなわち物語に引きずり込む演技をみせた、芳根京子の力によるところが大きい。

そして、キムラ緑子もまた素晴らしかった。初演の斉藤由貴が醸し出した、浮世離れした美貌の残る「ママ」とは対照的な、生々しい熟女感と演技。コミカルなト書きに対してもよりコントラストを増したアクションで応えつつ、芳根の爆発を受け止める二人芝居の場面では、その切迫を引き締め、芝居をひとつ上のステージへと確実に持ち上げていた。

紀伊國屋ホールに現出する“八百屋”(すなわち、 『朝日のような夕日をつれて』 )に立ち会えたというメタな感慨も、初演を観た北九州芸術劇場よりもこじんまりとした舞台におぼえた少し閉鎖的な視野感覚も、途中から完全に失せる。最後には、そこにイスタンブール「母」を見た。

情報

  • 作 蓬莱竜太
  • 演出 栗山民也(初演より続投)
  • 開演 2019-03-16 18:00
  • 紀伊國屋ホール

出演者