公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『Mann ist Mann』 / KAAT×まつもと市民芸術館共同プロデュース 演出: 串田和美

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舞台はグルカ戦争(英・ネパール戦争)。4 人で 1 組のとある英国機関銃小隊が現地での略奪の不始末で 1 人の欠員を生じ、点呼の数合わせのために一人の民間人をその欠員兵士に仕立て上げていくという話です。

劇中の戦争において兵士は名前と身分証番号、というよりもむしろ、それが刻印された金貨状の身分証で識別されます。それによって、原型を留めないほどに遺体が損壊しても、身分証にしたがって個人が識別され、生死判定、そして戦死した際の軍人墓地への埋葬が保障されます。これが、身分証が保障するその「人間」個人よりも、身分証そのものが個人を個人たらしめるという状況に転じます。こうなると、身分証を提げてさえいれば、その人間は身分証に書かれた人間であるということになってしまう。それを提げている人間が誰であろうと、本質的にはどうでもよくなる。

この道理(?)によって、先述した欠員の補充が可能となります。「員数主義」ですね。戦争における員数主義に関しては『一下級将校の見た帝国陸軍』に代表される、山本七平の日本軍関係の著書1,2がまず思い浮かびました。山本の著書は、というより、戦争は、マクロ(長期的)に見ればもちろん悲劇でしょう。ミクロ(短期的)に見ると、書きよう、あるいはそれを受容する人間の立ち位置によって、それは喜劇に転じえます。山本の場合は「ナニッ」「貴様ソレデモ国軍の幹部カッ」等の独特のカタカナ表記や、要所要所に登場する九州訛りのひょうきんな軍人たち。あるいは、軍司令部から次々と発信される「転進」をはじめとした荒唐無稽な指示の数々。実戦とは無縁の読者が受容するとき、それらはコミカルな笑いにすら転じえるわけです。もしくは演劇において、舞台上で展開される痴話喧嘩の修羅場。そこでは観客席から多くの笑い声が漏れるという状況に、しばしば遭遇することと思います。これも、フィクションというフィルターを通したときにシリアスがコミカルに変換される例でしょう。

話が進むにしたがってそれらの笑いは影をひそめ、戦争のダークな部分が大きくクローズアップされることになります。酔っ払いのダメダメ兵士ジンジャー・ギネスが略奪先の寺院に閉じ込められ帰ってこなくなったとき、他の 3 人は町の人夫ガーリック・ガイを様々な方法で篭絡し、ジンジャー・ギネスに仕立て上げる。その員数合わせは本来、その日の点呼のための一時しのぎであるはずだったのですが、戦場における異常な心理が彼ら機関銃隊どころか多くの軍隊の所属員を狂気に追い込み、「ガーリック・ガイ」を殺します。ガーリック、というよりかつてガーリックであった男(自分が何者なのか分からない)は自分の遺体を収めたという棺が埋葬されていくのを自らの眼で見届け、「ガーリック・ガイ」の死に立ち会わされるのです。それから彼は「身分証番号 CH6533J493」ジンジャー・ギネスとなり、ネパール側の強固な要塞を射撃によって陥落させる最も苛烈で精強な砲兵に変貌していく。彼の妻はネパール、シッキム地方出身の心優しい女でしたが、おそらく彼女も避難していたであろうその要塞へ、「ジンジャー・ギネス」は 5 発の砲弾を撃ち込み、要塞を破壊し、突破口をこじ開けるのです。彼はもう内実すら彼女の夫、ガーリック・ガイでは無くなってしまったのか。タイトル『Mann ist Mann』とは、「員数は員数である」という戦争あるいは社会への皮肉であると同時に、「俺は俺だ」という、殺されたガーリック・ガイという個人の悲鳴なのではないでしょうか。

改めて、ミクロには喜劇、マクロには悲劇、という構造について。本作では、カリカチュアライズされた戦争が、滑稽なシーンをコンスタントに産み出し、また演出も序盤は非常に喜劇の側に寄っています。しかしながら上述したガーリック・ガイの死と変貌が語られるころ、すなわち「員数主義」が未だ至るところに存在していることを観客が痛烈に意識してしまうとき、喜劇はどこかに去っていく。このグラデーションは脚色・演出もさることながら、何よりブレヒトの書き出したシナリオ4の力によるものでしょう。重たいです。

一方で、多くの劇作においては特に「劇場を出たときに嫌な気持ちであってほしくない」という、製作側の意図を感じることがあります。今回の上演台本では、このマクロな悲をさらに喜で包みこむために『Mann ist Mann』をサンドボックス化、すなわち劇中劇としています。開演前から演者がコックに扮して客席内を練り歩き、バスケット内の果物でジャグリングをしてみたり、S 席(なんと S 席では本格的な洋食ディナーが供され、食べながらの鑑賞が可能)の観客に料理の味を訊いてみたりしているのですが、そこからシームレスにコック達は壇上へと移動し、開演へと流れ込むのです。つまり彼らがキャバレーで『Mann ist Mann』の稽古をしているという設定が、冒頭から提示されているわけですね。役名もオリジナルとは異なり、ジンジャー・ギネスだとかガーリック・ガイだとか、非現実的でアイコニックな名前になっています。途中、あまりの描写に、彼らが劇中劇を演じる愉快なコックたちであったことすら忘れそうにすらなるのですが。しかしながらカーテンコールでは、茫洋とした人夫であった頃のガーリックが S 席から壇上に呼び出され、何だか自分が別人に変容していくような夢を見ていたとぼやくのです。そこで彼だけはサンドボックス外でもコックではなかったということにも気づきましたが。夢でよかったね、夢であって欲しいね、と。エクスキューズが開演前から提示されていたこともあり、またテーマそのものの重たさもあって、これはオブラートに包んで終わってくれて本当に良かったなと思いました。シリアスからシニカルに転じる劇中劇ラスト、からのカーテンコールでのコミカルへの回帰です5。だいじ。

本公演では特設ディナーテーブルである S 席のみならず、A 席すなわち通常の観客席においてもアルコール含めた飲食が可能という特殊な観劇環境となっていました。また、観客はどこで大いに拍手しても、あるいはブーイングしてもいいという「演劇の双方向性」が強調されており、開演前にはブーイング・ホイッスルが販売されていたり、あるいは片手に飲食物を持った状態でも拍手ができるように全席に「ブラボー・バトン」と呼ばれるハンドクラップ・トイ、つまり鳴子のように振ることで拍手のような音が出るおもちゃが配布されてもいました。ただ、そこはやはり「空気」を重んじる日本人である故か(?)、観客からの積極的なブラボーやブーイングの発信は、その機会が急に提供されたところで、結局は行われないわけです。壇上に立っていない時の役者たちも同じくホイッスルやバトンを持っており、要所で先導するように舞台脇あるいは観客席通路から鳴らすことで、ようやく観客からも連鎖的に鳴ってくるような空気感。ある意味で非常に「集団的」であるその反応を見て、この環境を考えた演出家にちょっとぞっとしました。そこまで考えていたのだとしたら、ね。そして最も興味深かったのが、ブラボー・バトンが配られると、観客は拍手をバトンでしかしなくなるんですよね。怖いものを見た感じ。その「空気」こそが英国軍あるいはガーリック・ガイを狂気に陥れたものだぞというのを、眼前でまざまざと見せつけられたような。凄かったです。

ですからカーテンコールでは、ちゃんと手で拍手をしました。

情報
日時
出演
  • 山口翔悟:スライス・オニオン(コック)
  • 海老澤健次:ボイルド・エッグ(コック)
  • 細川貴司:ブラック・ペッパー(コック)
  • 大鶴佐助:スモーク・サーモン(コック、ガーリックを陥れる最も冷酷な小隊員)
  • 近藤隼:ラム・レーズン(コック、スモークと同じ小隊の構成員)
  • チョウヨンホ:グリン・ピース(コック、スモークと同じ小隊の構成員)
  • 小椋毅:ジンジャー・ギネス(コック、スモークと同じ小隊の構成員、アルコール依存)
  • 深沢豊:ワン・タン(コック、仏教寺院の住職)
  • 武居卓:ガーリック・ガイ(放浪するアイルランド人の人夫、ジンジャーと同じ国籍かつ同じ赤毛の男)
  • 鈴木崇乃:メイプル・シロップ/ガーリック・ガイの妻(コック、オレガノの酒場の女/シッキム地方出身の現地人)
  • 万里紗:ホイップ・クリーム/寺男マー・シン(コック、オレガノの酒場の女/ワンの寺の下男)
  • 坂口杏奈:ハニー・パイ(コック、オレガノの酒場の女)
  • 串田和美:ファイヤー・ホットドッグ(キャバレーのオーナー、鼻の効く英国軍の鬼司令官)
  • 安蘭けいオレガノ・ベグビック(従軍する移動式酒場の女店主、未亡人)
演奏
  • Dr.kyOn:ピアノ
  • 徳武弘文:ギター
  • 木村おうじ純士:ドラムス&パーカッション

  1. 山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』 ( https://www.amazon.co.jp/dp/4167306050 )

  2. 山本七平『私の中の日本軍』 ( https://www.amazon.co.jp/dp/4167306018 ), ( https://www.amazon.co.jp/dp/4167306026 )

  3. うろおぼえ。たぶん下一ケタ以外は合ってる。

  4. これまで翻訳劇はあまり観ようと思えなかったのですが、ブレヒトの本はテーマが強いので、翻訳であっても観たほうがいいかもしれないと思いました。

  5. シニカルで終わっていても、それはそれで面白い後味だったかもしれない。

  6. 後述するようにベースレス・トリオによるジャズアレンジの生演奏劇伴。 宮崎県芸劇の『三文オペラ』 といい、ブレヒトの再解釈ってこういうアプローチが多いのでしょうか?両者の演出手法は非常に近かったと感じました。