公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『木の上の軍隊』 / こまつ座

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創作から普遍的なテーマを取り出して実体験に当てはめていき、そこから考えを展開させていくというのはおそらく、フィクションをある程度たしなむ人間にとっては当たり前の作業でしょう。では、対象とする創作そのものの帰着点が普遍的というよりは、より限定された事象に収束していくとどうなるか。そういうやり方はあってもいい。創作する側もまた人間であって、彼らの微視的な実体験が反映されることによって、細かい描写から全体のテーマに至るまでがよりリアリティを持ち得ると思うからです。しかし、収束しすぎることによる帰着点の限定は、プロパガンダになってしまうのではないか。本作を観て、そう思ってしまいました。

舞台は沖縄戦。撤退(直接の明言はされないが、これは彼らの規模においても「転進」に変換、正当化されていく)の果てに島の巨木のウロに逃げ込んだ「上官[演:山西惇]」と「新兵[演:松下洸平]」は、その後 2 年間、すなわち終戦後も、木の上で 2 人だけの軍隊生活 ― 終わることのない戦争を続けることになります。無計画な突撃を行おうとする新兵を当初は厳しく律していた上官。「鬼畜の食べ物」であるところの連合軍拠点の残飯、あるいは敵兵の屍体が背負う糧食を貪ってでも空腹を凌ごうとする新兵を非国民と罵っていた彼は、その敵軍キャンプが拡大していき、彼らの出すごみから酒やタバコ等の嗜好品が得られる頻度が増すにつれ、「軍隊」の規律を自身に有利なように改定していきます。数年越しに戦争の終結を自覚する(気づいていなかったふりをしていたのをやめたと表現してもいい)頃には、病を得た新兵よりも肥え、銃器は錆び付き、寧ろ自らが「木を降りたら世間から非国民と罵られる」であろう状態になってしまっていました。少しでも多く敵兵の命を奪おうと自分なりに考え動こうとはしていた新兵と、立場は逆転してしまっていたのです。島の牛飼い少年であった新兵にとっては、戦場として蹂躙され、拡大の止まらない敵軍キャンプに浸食され続ける「故郷」を眼前に呈され続ける日々はまさに地獄の非日常以外の何物でもなかったわけですが、おそらく本土出身であり「島のため」ではなく「国のため」に派兵されてきた上官は、樹上の軍隊生活が或る均衡に陥り、それが日常と化したときに、そこから脱出するインセンティブを完全に失ったということです。それは、上官にとって沖縄は故郷ではなかったからではないのか。守るべき「島」ではなかったから。新兵が訴えるこの、身を切るような叫びは、最終的に「軍隊」が木を降りるきっかけにもなります。

そして、膨張を続けた敵のキャンプは、終戦後もなお残っている。それどころか、近代化が進められ更に拡大していくかのようだ。ラストシーン、当てどなく膨張を続ける黒々とした何かを見ながら、樹上に残る 2 人の幻は言葉を交わします。轟音のヘリコプターの音をバックに。このヘリコプターの音は「オスプレイ」に比定されています。演出家が、そう断言している(冒頭の埋め込み記事を参照)。決してそのインタビューを読まずとも、これは現代にまで続く沖縄の米軍基地に関わる「問題」にそのまま繋がるものであると、誰もが理解するはずです。

なにか、限定的すぎはしないかと思うのです。その限定に非常にマッチングする意見を持つ人間がいたとすれば(間違いなくいるでしょう)、これはそのまま彼らの主張を代弁するものとなり得ます。同時におそらく、私のように違和感を持つ者は、本作における上官のように、その問題の当事者ではないから、当事者でないと思い込んでいるから…そういったエクスキューズをも上演台本(あるいは演出)が内包してしまっているような、反駁を許されないような空気のタネが蒔かれているような、居心地の悪さを禁じ得ませんでした。もちろん普遍的なテーマも見出すことはできました。細かい設定に違和感も持てど、決してつまらない芝居というわけでもなかった。しかし、やはり最後の演出には凄まじい整流と収束の圧力を、あるいはそれによる疎外を感じてしまいました。

この整流はどの段階で付与されたものなのかが、とても気になっています。井上の原案というものは果たしてどの程度、骨格を成していたのか。戯曲に仕上げるにあたって、その骨格をどう演繹していったのか。上演にあたってどのような演出が付与されていったのか。「戦犯」探しをしているようで、これはこれで自己嫌悪もあるのですが、居心地の悪さの原因が気になるのです。これまでの蓬莱戯曲や栗山演出には好みなものが多かったから、余計に。

近年の、私の戦争(というよりもより具体的に、太平洋戦争)観には、山本七平のフィリピン戦線従軍体験に関する書籍群が大いに影響しています。これは「故郷」に拠った感覚には決してなり得ない。実体験でもない。では果たして、それらを読んで湧き上がったものは、「島」の感覚がないからといって、劣ったものとしてレッテルを貼られて終わってしまうのでしょうか。そもそも、生まれたときから米軍基地のある人々の方が、これから更に増えていきます。「浸食」の過程を実体験として知らない世代は、しかしながら成長を通して米軍が間近に存在し続けることで、何かに相対しているそれに「ぐちゃぐちゃ」を抱きつつも信じるしかないという最前線には立たされるのかもしれない。でも、この新兵の「ぐちゃぐちゃ」と「信じる」の綯い交ぜ、すなわち不安と楽観の複合体のようなものを抱き続けながら生きていくという話は、本土にだって拡大できる話だと思うんですけどね。では果たして、あの収束をした演出の着地点はどこに、どういった層に刺さるのだろう。「風化させないため」には、疎外を感じるような表現であっていいとは思わない。うとましい主張だと思わせていいはずもない。だからこそ、よりオープンな解釈へのガイドラインを望むように、何かやりきれない気持ちで劇場を出たのだと思います。

表現ってこんなに不自由なものだっけと思ったりもしたのですが、これこそ表現の自由だと思う人が一方で存在してもおかしくはなく。

少なくともこれを起点に芝居が観づらくなるような自己完結を起こしたくないと考えてはいます。『命の三部作』の残り 2 作、少なくとも井上の手による『父と暮らせば』を、こまつ座にて、最低でも観る必要があるのかもしれない。今回はそう思いました。