公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『ゴドーを待ちながら 昭和・平成ver.』 / KAATプロデュース 演出: 多田淳之介

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東京デスロック主宰が演出する今回の公演は、【昭和・平成(SH)ver.】と【令和(R)ver.】の W キャスト上演。SH ver. では 60 代のキャスト 2 名が、R ver. では 30 代のキャスト 2 名が、それぞれウラジミールとエストラゴンを演じ、またポゾーとラッキーの配役も SH と R とでは逆転する。

『朝日のような夕日をつれて』 にてウラジミールの翻案であるウラヤマを 30 年は演じ続けてきた大高洋夫にとっては、まさしく本懐といえるウラジミールでの抜擢である。そしてそれ目当てで SH ver. を鑑賞。

同演目となるとどうしても比較してしまうのだけれど、鑑賞のリファレンスとなる 時空の旅版 で受けた印象と比べると、『ゴドー』ってこんなに面白かったんだ、という率直な感想が出る。あちらはバイタルサインを意図的に躓かせるような事ある毎の一時停止があって、それは難解な台詞をリアルタイムに咀嚼する時間を与えてくれているような一方で、唐突な流れの堰き止めの連続がよりマクロなレベルでの理解を妨げているような感もぬぐえなかった。今回はそういった小細工も無く、進行としてはきわめて普通に流れていったから自然に会話も入ってきた。そこに咀嚼を要するような難解さが伴わなかったのは、制作や役者も言及しているように、今回の台本に採用した新訳1の影響が大きいのだと思う。

そう、翻訳劇だからこそ、原語では一言一句の修正すら許されないといわれる『ゴドー』の台本の、組み換えができてしまうのである。一見ガチガチに固められているようなレギュレーションも、例えば翻訳という言語的な隙を突く以外にも、役者の性別は指定されていても年齢は指定されていない2だとか、いろいろ着目のしようがあるのだ。古典『ゴドー』を現在に上演するということはむしろ、そういった抜け駆け争い(?)なしには語れないのかもしれない。だからといって奇をてらいすぎると、本筋がますます分からなくなってしまうのだが。

大高のウラジミールと、呼応する小宮のエストラゴンとの会話のテンポは、『朝日』のウラヤマ・エスカワのそれそのままといえた。つまり、『朝日』のあのパートは鴻上が見た『ゴドー』の風景そのものであり、かつ延長世界だったのかもしれない。同時に、「木」の人文字ネタとか、太極拳風演舞とか、果ては幕間の YMO とか、床に散らばるスーパーファミコン(=おもちゃ)の欠片とか、いたるところに『朝日』のモチーフが散りばめられてもいた。かねてから『朝日』こそが日本人にとっての『ゴドー』として充分に機能し得ると思っていたのだけど、今回の SH ver. に関するあれこれを見る限り、80 年代からテン年代にかけての(少なくとも今回の演出家にとっての)『ゴドー』とは、まさに『朝日』だったのかもしれない。

その『朝日』は力を失いつつある。 大高と小須田がいない処で更新のある『朝日』は成立しえない し、その 2 人も今や老齢に差し掛かっているから。だからこその『ゴドー』への回帰であるのかもしれない。そして改訳によって『ゴドー』は新たな力を得たんじゃないだろうか。現代的な言葉が真に機能するであろう R ver. は一体どんな感じに仕上がったんだろう。

面白かったと同時に、不条理というよりはグロテスクな感じを受ける舞台だった。特にラッキーが、生理的に無理な近寄りがたさを醸し出していた(褒めてる)。ウラジミールとエストラゴンの間で成立する昭和ないしは第三舞台の雰囲気とはまた異なり、原著の成立年代における「大戦」のような炸裂と硝煙のにおいが、奴隷とその主とを取り巻いている。ある日突如として光や声を喪うことになる彼らが象徴するのは、平和と戦争かもしれないし、より漠然とした社会不安とその現出かもしれない。そして彼らを物珍しげに観察し、ゴドーを待つための暇つぶしに転化を試みるウラジミールとエストラゴン。暇つぶしという刺激によって彼ら浮浪者は体感時間の経過を早め、少年の訪ねてくる夜のとばりを誘い込むのだが、その彼らに対して、そして鑑賞者に対して、第 2 幕のほうでこそ早く夜が訪れてしまう…ポゾーが盲に、ラッキーが物言わぬようになり、そこはかとない気まずさと薄気味の悪さが全体を圧し包む第 2 幕で。そういう芝居だったということに改めて気づかされて、ベケットに対してぞっとする。

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