公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『ビューティフルワールド』 / モダンスイマーズ 20周年記念公演

stage.corich.jp

プロットは、蓬莱プロデュースの劇団外公演も含めて、様々な過去作を髣髴とさせる。 『句読点』 の先、というよりは、記念公演らしい 20 年の総決算という感じがした(直接的には直近 5 年間くらいしか観てないけど)。大まかには 『回転する夜』 『星回帰線』 をベースに 『悲しみよ、消えないでくれ』 をまぶしたような手触り。その上で「心の依りどころであった内面的な趣味が要らなくなるほどの生活・精神のシフト」「同居する加害と被害」「破局の貧乏くじ」「修羅場の客観視から来るシリアスな笑い」あたりを強いテーマとし、芝居を引っ張っている。


心の依りどころであった内面的な趣味が要らなくなるほどの生活・精神のシフト
  • 「生まれてから何をやっても冴えない男」にとってのゲームやアニメ。「長年連れ添った夫から全く愛されていない妻」にとってのヒッキー(宇多田ヒカル)。その二人がくっついて、ゲームもアニメもヒッキーも、彼らのセカイからは要らなくなる。

    • 特に女の側は、自分のその趣味(だったもの)が、可換であったことに半ばショックを受けているような心理描写もある。

      • 音楽という趣味の可換性でいうと、自分の中にも 2 段階の交換があったことに最近になって気づいたんだけど。1 段目は、別にプレイヤーでなくリスナー(芝居だとすればウォッチャー/ゴアー)としてのみであっても全く問題がなかった/問題なくなってしまった、ということ。曲がりなりにもプレイヤーだった頃には、こんな状況、想像もできなかっただろう。2 段目として、最近は音楽を単体でほとんど聴かなくなったこと。芝居や映画といった視覚情報への附随物、といった距離感になってしまったといってもいいと思う。プレイヤーを“業”に当てはめると(アマチュア趣味を“業”と言っていいのかは議論の余地があるが)、直近では町山智浩の『愛がなんだ』ムダ話における「少年時代、対価に関する何のしがらみもなく好きな映画をひたすら観ていた頃は、映画評論家としての今よりも本当に映画を観ることが楽しかった」(要約)といった懺悔が良かった1。2 段目は、単純にホットなメディアを消費できる時間的リソースというのは人間にとっては有限であるというだけの話で、演劇鑑賞にそのリソースを全振りするようになった今、音楽をそれ単体で聴く暇がなくなってしまったということ。多少のショックはあるのかもしれないけど、今となっては乾いて索漠としている。前を向いた変化ではあっても、過去に対してはちょっと残酷だよね、それが可換であることっていうのは。いつか演劇鑑賞もそうなっていくんだろうか。
同居する加害と被害
  • 人間関係を更新したつもりになっても結局、相手が更新前と同じような人間性に収束していってしまうのはなぜでしょう?!

    • 本作で一番の比重を占めるテーマだったと思う。 『遺産』 なんかでも思ったけど(あれは蓬莱の芝居ではないが)、自分が被害者たりえることに意識がいきすぎていて、加害者たりえることに無頓着になりすぎてはいやしまいか、というのをより直接的に問うてきている感じがあった。引きこもりの男にとっては、火事で家を喪い、なし崩しに親類の家に居候せざるを得なくなったシチュエーション。そして彼自身がコミュニティの不純物であったこと。ヒッキーを依りどころとしていた女にとっては、夫からのハラスメント。そして、かつて引きこもりだった、今は変わった彼の、収束の原因そのもの。

      • 今回の蓬莱節のサビ。
破局の貧乏くじ
  • 破局潜在的な綻びの積み重ねの結果であるはずなのに、最後にその風船を割ってしまった人間がすべての罪を被るようにできている。抵抗は、口ごたえである。

    • せつね!

      • そこで助けを訴えていてもどうにもならなくなった人間が、最終的にやり場の無いそれを爆発させて加害者に変態を遂げてしまった、というふうに「加害と被害の因果/表裏一体性」にも繋がっていく話で、これは弱者の芝居なんだなあとここで痛感するようにできている。鑑賞中、引きこもりの一挙手一投足に対してイライラしていそうな観客の気配というのが至近にあったんだけど、それを板の上というフィクションの構造の外にまで展開できてしまう台本構造・演技・演出まで含めて、蓬莱とモダンの技術は円熟の極みといえるかもしれない。あそこでイライラする人たちのための芝居でもない気がしていたぶん、どう反応するかで観客をふるいにかけているかのような印象すら受ける。
修羅場の客観視から来るシリアスな笑い
  • あのクソみたいな人間関係の修羅場に入りたい!!世界ってこんなに面白いのか、なのに当事者になれない今の自分がものすごくもどかしい!!

    • 『句読点シリーズ』のように災害を軸としていないぶん(今回の不均衡の発生するきっかけは住宅火災と、スケールは『句読点』に比べるとそこまで大きくはない)、修羅場における笑いへの転化成分はここ数年の作劇に比べて過剰というか、ここで笑っていいんだよ、という風にちゃんと作ってあった。本当に露骨に、ワークショップかよ、というくらい露悪的に、満を持してスローモーションを使っていた。そこでの生越の手本のような所作。

      • 『悲しみよ、消えないでくれ』なんかでは、変に笑いに転化できない(“不謹慎”に対する空気だろうか)ぶん、それに対する防衛規制のように本当にびっくりするようなところでドカンと笑いが入ることがあり、あれはあれで極まった「演劇の双方向性」だったけど。
その他
  • 公演前のあらすじでは、男の引きこもり設定が無かったように読み取れる。この初期プロットでの完成形も見てみたい感じ。「引きこもり」は“加害”の軸に対して重要なトリガーとなっているので、テーマから着地点まで、ずいぶん毛色が変わり得たのではなかろうか。

  • 古山憲太郎の比重がとても少なかった。出演時間も 10 分切ってるんじゃないだろうか。期末調整っぽい。

  • 座長がああいう役を演じると本当にひどいな。

  • 成田亜佑美の役は、いつ何がきっかけで男主人公のようになってもおかしくはないというギリギリの渡世であって、生きづらさのサブプロットだった。それとは全然関係ないけど声が好き。

  • 菅原大吉のバイプレイヤーぶりが圧倒的。悪酔いの演技と、配偶者を取られて庭いじりに呆ける姿との切り替えは、何でもないような転換でありながら、それだけで目を持っていかれる。


『死ンデ、イル。』 直後の劇団員のコメントからすると、次回公演までもっとブランクが生じるのではないかと思っていたが、今年は 20 周年だったのだ。確かに劇団の「現在」ではあったかもしれないが、決算色が濃く、観たかった「その次」という感じではなかった。かといって決して不満というわけでもなく、ただただ「現在」なのである。近年は蓬莱も産みの苦しみに苛まれつつあるようだけれども、自分を追い立てるようなことなく、りきまずに、これからも本を、芝居を、作っていってほしい。20 年、おめでとうございます。

日時

  1. https://tomomachi.stores.jp/items/5d0d4448698fa51f6fe0830f 、みんなも 216 円(8% 税)の対価を払って聴いて町山さんを苦しめよう。