公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『ドキュメンタリー』 / 劇団チョコレートケーキ

自らを被験者にすると、観察ができなくなるもの、こと。それはなにか。どうしてか。

natalie.mu


ある事柄に対して、理解のできる理由があるということは、実はとても人間を安心させます。
(略)
創作において、理由を与えるというのは実は優しい行為なのかもしれません。同時に現実の厳しさを薄める行為なのかもしれません。しかし、私は理解しやすい理由を見つけることは創作にとってとても大事な作業だと思っています。

脚本 古川健による「ご挨拶」より

このあたり、突き詰めると非常に面倒な話だと思っています。エンターテイナーとしては誠実かもしれない。が、本作のように明らかにモデルとなる事件が存在する場合、そうでない創作に比べて気をつけないといけないことが出てくるはずです。

つまり、理解しやすい理由、すなわちある種の回答を与える側は、より多角的にそのモデルを検討していなければならないのではないかということです。

本作のリーフレットにおいては下記 3 つの参考文献が明記されているほか、

以下の 1 冊が劇中において登場します。

文献が 4 つ…ページ数では計 1100 ページほどになりますが、視点(インタビュー等により得た複数のソースからの情報を含む書においても、精査や編集という取捨選択の作業を通すことで、1 冊あたりの視点は取捨選択を行った個人または法人による 1 人の視点に収束するものとします)は 4 つと考えてよいのではないか。これが少ないのかどうか、こういった劇作の類では比較対象も少ない(というより、参考文献まで例示するケースは少なく、その面ではこの方はやはり誠実なことに変わりはないのかなと思います)ため分かりかねますが、決して多いということはないのではと思います。また『ミドリ十字731部隊』および『悪魔の飽食』の 2 冊は、本作と 『遺産』 とをある題材で紐づけるため…すなわちミドリ十字薬害エイズ問題と大日本帝国陸軍 731 部隊とを紐づけるために恣意的に引用されているきらいがあり、4 つの資料には偏りがあるように見受けられます。“理由”を補強するために必要な 2 冊であることは理解できますが、それらが半数を占めるポートフォリオで多角的に事象を検討できているかというと、疑義は生じるでしょう(私も今すぐに全ての文献を読める環境にはないため、精査を経ての断定を行える状況には未だありません)。

次に、“医療問題として”このような提起をする必然性があったかどうか。

利潤追求やそれに伴う組織的隠蔽すなわちモラルの欠如の問題は、日本では医療分野に限らず近年はむしろ製造業において顕著でなかったか1,2,3,4,5。果たして“闇”は、731 部隊の幹部が戦後に医療業界に拡散したことによる生命倫理の欠落だけなのでしょうか?ひとつの切り口としてはそうかもしれません。ですが、もう少し大きな問題ではないのか。日本全体の体質あるいは国民性の問題…それを“戦時”に紐付けるのであれば、大日本帝国陸軍そのもの、ひいては“日本軍”という、より大枠に帰結しはしないか?

…話が大きくなってきました。これを 3 人芝居でやるのは酷ですね。本作はそもそもが 731 部隊を題材とした次作 『遺産』 の前日譚という位置づけで制作されているはずなので、この『ドキュメンタリー』の側で論ずるべき問題ではないかもしれない。731 部隊を下敷きに医学の発展と生命倫理といったテーマを中心に据えるのであれば、前日譚すなわち従属する立場である本作も必然的に、医療分野における取材になってくるのは仕方がないことです。また、上記の従属に基づいた恣意的な設定であるものの『ドキュメンタリー』の舞台は 1980 年代であって、決して現在ではない。くわえて医療は人命に直結するため、“理解しやすい”理由としては最適な題材ということにもなってしまいます。

ですが例えば製造業において、メーカーが建材の欠陥を隠蔽してそれが建築物に採用された場合、人命に直結していないといえるのか?不祥事の発覚した彼らは、エクスキューズとしてどのような経営体制を挙げ得る/挙げたでしょうか。あるいは医療分野でなければ、題材として“センセーショナルさ”に欠けるのでしょうか。欠陥だらけのエスカレーターに巻き込まれて亡くなる事故は、センセーショナルでないのでしょうか。

狭義の“産業”にすら限定する必要はないかもしれません。人を人として扱わない風潮は SNS においてヘイトスピーチとして一般化しつつありますが、これは他の劇作家(誰とは言わない)に書かせておけばいいのでしょうか。

限定的な問題提起から、観た人間がどのように視野や思考を拡げていけるか。そのきっかけとして機能しうる面白さはありましたが、文献のラインナップや、生命倫理(のみ)をセンセーショナルなものとしかねない切り口は、少し危うい領域にあるかもしれないと思いました。

そこまで想像のできる人間ならば、こういった作品を観ずとも世相に想いを馳せることはできるかもしれない。ならば、本作のような会話劇でなく書籍を読めば良いのではないか、その方がより純度が高いのではないかと思うかもしれません。

ただ、登場人物である街の老医師がおぞましい、人のあり方を問う逸話を、時に深刻そうに、時に(科学者として)楽しそうに話している。その時に老医師の背後で、彼を見ないように背を向け、メモを書き付けることもなく作業机にただ座っているジャーナリストの後ろ姿を、その背中や肩を生々しく想起できる力を、書を読む者が持ち得るか。私は、この芝居でその画を見たときに、自分にこの背中までを独力で想像し得る力は無いなと感じました。役者という“人”を介したときに伝わるもの、あるいはその“介する”という能力そのもの。これらはひとえに戯曲と演出そして役者が織り成す、芝居にしか為し得ない表現であり、彼らの力です。やはりそこでも感じた、演劇という表現に携わる者としての誠実さを、もう少し信じてみたいと思わせる芝居でした。

小劇場楽園というとても小さな空間。それ故に客席の足元まで散らばるように敷き詰められたジャーナリストの収集資料。一見すると邪魔な、劇場としては致命的な位置にあるように思える一本の太い柱を使った効果的な“隔絶”。劇場の間取りまで味方につけた良い演出も、3 人芝居としてはこれ以上になくスケールしていました。こういった空間の成立もまた、“力”の賜物なのでしょう。

  • 脚本 古川健
  • 演出 日澤雄介
  • 開演 2018-09-29 17:00
  • 於 下北沢小劇場楽園