公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

【再鑑賞】『死ンデ、イル。』 / モダンスイマーズ 句読点三部作連続上演

句読点三部作連続上演

『嗚呼いま、だから愛。』
  • 2018-04-19 → 2018-04-29
『悲しみよ、消えないでくれ』
  • 2018-06-07 → 2018-06-17
『死ンデ、イル。』
  • 2018-07-20 → 2018-07-29

中央公論新社www.chuko.co.jp

けっこう前ですけど、話題になった北条裕子『美しい顔』は読みまして。批判問題の是非は置いておいて、内容としては良かったと思うんですよね。女の子の自意識の膨張と収縮とが、場所場所で必要十分といえるテンポに乗っかって展開していく。未曾有の災害下において顕現した非日常すぎる非日常への高揚、それによる生命活動のギラつき。それだけでなく、その非日常が日常へと変容する、あるいは回帰することへの恐怖が、説得力のある適切な筆致にノっていて。ノンフィクションのような捉え方をされるとはいうけれど、あの筆致は完全にフィクションのものだと思いますし、良さはそこにあるとも感じている。

まあでも、東日本大震災津波を直截的に描いているから、ノンフィクションチックに捉えられても仕方がない。津波被害の視覚的描写や、問題にもなった遺体安置所のシーン。それらのダメージを受容し、前に進もうとする等身大の姉弟が、疎開先での決意を共有するシークエンスで『美しい顔』は幕を閉じます。

が、災害は本当にそこで終わるのか。例えば、『美しい顔』で姉弟の引き取られた先となった親戚のおばさん。彼女には彼女の事情があり、引き取った姉弟の親、すなわちおばさんにとっての兄弟姉妹、との関係性が良くなかった場合。天災の先、避けようのない天変地異ののちに訪れる人と人との軋轢、視覚的にセンセーショナルでないからかスポットライトの当たりづらい天災以降。そこで起きうる人災といっていいぐしゃぐしゃこそが真の地獄かもしれず、人間の生活を、心を、不可逆に破壊し尽くす可能性はないか。そういう意味で『美しい顔』の結末が少しずれた先に『死ンデ、イル。』があるよな、と、本を読みながら思ったのは確かです。奥行きのある、災害の立体視ができているという点で、『死ンデ、イル。』は 3.11 の直截的な描写作品としては、他の追随を許さない真摯さを持っているのではないでしょうか。

文学として適切な筆致であったとはいえ、『美しい顔』のサナエほどに賢い女の子というのは稀有な感じがします。優等生。七海、あるいは七海の彼氏くらい軽薄で、環境の変化に影響されやすく、選びようのない選択肢の上で貧乏くじを引き続けるのが、子どもの精一杯という気がする。そんな普通の子どもが天災後の避けようのない巡り合わせの中でポッと死んでしまうような流れを、芝居の、ドラマの力で引き戻す、あの生命力の漲るラストは現実にはありえない展開かもしれない。けれども、だからといって殺してしまうことはなんて容易いか!

非日常から帰還すること。日常という地に足をつけて生き直していくことこそが、すごく難しい。分かるんですよ。歪みは日を追うごとに顕在化し、災害発生当初のギラついた団結から醒めたとき、コミュニティは徐々に分解を始めます、実際に。そこからこぼれ落ちていくものをそのままにしてしまうことは、悲劇に落としこんで、これが現実ですとして終わらせてしまうことは、簡単で、しかしながらそれがサナエのいう「幼児の思考」かと。

想像の余地を残した創作において、いくら作り手が真摯であろうとも、鑑賞者に幼児的な取捨選択がはたらく場合もあり、例えばこれはバッドエンドのオブラート表現で、いま目の前にある演出は彼岸の、あるいはパラレルのメタファであると。美しい、完、と。そういうことにしてしまうのも楽。七海の姉の言う「綺麗すぎる」、で話が終わって、七海はそのキレイから帰還してこない。そういった美しいおしまいからの脱却を突きつけるこそが、観た者を、現実を、生き残った人間を本当に救うのであるはずで、ならば七海は凛と立ち、ビーマンに対して(ビーマンにこそ!)、真に電話をかけなければならない。

帰らない。そっちに、行く。
そこに、向かうの。向かうね。

― ああ。

って、それでも生きて、この言葉選びを以って、立ち向かっていくんですよね。


再鑑賞にて気づいた。

私はここで、振り返ってみた。
よくよく、振り返ってみた。
ついてない。
私は多分、ついてない。
『生きてるだけで儲けもの』
あの日から、
そういう言葉をいっぱい聞いた。
それが、
私の一番嫌いな言葉になった ―

冒頭、そして終盤に投影されるこのパラグラフ。初見時は七海とルポライターの文章のシンクロだと思っていたのですが、冒頭のパラグラフのみ(終盤のはルポライターの筆跡)、誰の手書き文字でもない明朝体フォントで組まれてたんですね。少なくとも、七海の言葉として提示されてはいない。初見時より何かが紐解けた気がした。


スケッチブックを手放した先の、七海の手書き文字。明朝体ではないそれは、どこに刻まれたのか。


ビーマン、めちゃくちゃいい。災害の平面視に隠れた呪い。災いの本質を最も理解した、痛みの体現。共有できる人。


『美しい顔』との、モチーフの共通性。

  • 母なき子ども
  • 被災して生き残る肉親(だが本質的には他者である)の存在
    • 彼らもまた意思をもっている為にそれに相対しなければならないこと
  • 海を見に行くラストシーン
  • 白のワンピース