公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『忍者、女子高生(仮)』 / 月刊「根本宗子」第12号

コメディ 7 割、シリアス 3 割。殺陣を少々。

togetter.com

出演

  • 川本成安曇野勝希

  • 小沢道成:安曇野聖希

  • 猪股和磨:安曇野空希

  • 土屋シオン安曇野太一

    • 安曇野家の母親(勝希たちの母、58 歳)の再婚相手。咲良の担任でもある。20 代の若者が、なぜ安曇野家に婿入りしようと思ったのかというと…?
  • 大竹沙絵子:安曇野恭子

    • 勝希の嫁。勝希やその母にこき使われる。けっこう間が抜けている。
  • 梨木智香:安曇野南絵

    • 聖希の嫁。夫と同じく仕事のできる女だがマザコンという定規の下には無力であり、コンプレックスを抱いている。
  • あやか:安曇野恵麻

    • 空希の嫁。一女もち。懐妊中の次子も女児と判断され、男児が欲しいという「安曇野家」の期待に沿えないことで、空希からいびられ続けている。
  • 根本宗子:安曇野咲良

    • 安曇野家長女。家では最年少の、女子高生。「安曇野家」のあぶれ者だが、家のあちこちをカラクリ屋敷のように改造し、忍者のように暗躍する。

鑑賞

『ご挨拶』より

いろいろあるのは世の中にはいろんな人間がいるからで、
そのいろいろは家庭によってつくられた、他人には解消しようのないいろいろです。

家庭によってつくられた、解消しようのないマザコン

他人と折り合いをつけて生きていくというのは、その人間のバックグラウンドに折り合いをつけるということでもあるし、なにかしらのきっかけで家族ぐるみの付き合いになった場合は、そのバックグラウンドの根源に相対することになる。

本作ではその「いろいろ」は、マザコンという一属性に集約されている。結婚相手がマザコンだったということに各々で苦しむ、安曇野家に嫁入りした 3 人の女が、そのマザコン男たちのバックグラウンド(のほぼすべて)である姑という女に、たいへんに苦しめられる。実は苦しんでいるのは安曇野家に外から入った女だけではなく、もっとも長い間その根源に相対し続けている咲良という安曇野家の末女が、4 人目(あるいは 1 人目)の「苦しむ女」でもある。

母親役に専任のキャストはおらず、息子役 3 人が場面転換ごとに順番に(女装で)母親を演じる。この表現の仕方は、母親の欲望が投影されたマザコン息子たちを逆説的に描く企みとして非常にうまくはまっていたし、男性陣もノリノリで歪んだ母親を演じていて最悪な感じが良かった。空希役の猪股が母親を演じる際、この人物は役者ではあるもののたいへんに滑舌が悪くしばしばネタにされているようであるが、外食から帰ってきたら(母親役が猪股に交代したことで)突然母親の滑舌が悪くなっているという事象を「鍋料理で口の中を火傷した」という設定で乗り切っていたのには爆笑してしまった。

女手ひとつで安曇野家を育ててきた母親の再婚に伴って、一堂に顔を合わせることとなった(母親以外の)女たち。家屋の見えない部分を自在に駆け回る咲良1の活躍もあって、後日、女たちは一致団結しての“対決”を心に決めるが、この対決の女性(母親除く)陣営側の中心は、そんな嫁たちの自意識に反して、咲良である。それは後に出てくる母親の写真において、母親の顔が咲良そっくり(この小道具写真では根本が母親を演じている)なことからも伺える。結局は血という一種の“呪い”からは逃れられない、子どもという属性。

まあ本当にまずいと思ったら、咲良みたいに逃げなきゃだめだ。バックグラウンドはどうにもならないけど、今それは自分の人生であるから。本当におかしくなる前に逃げた方がいいし、肉親がキチガイだと思ったら咲良のようにそう思うことも別に致し方ない。問題はそのあと、逃げても残る“呪い”にどう落とし前をつけるかであって。でもそれに関しては、顔が生き写しっていうあたりにもある気持ち悪さとか、そういう中々ぬぐえないような、えらく暗い側の要素を横たえてきたなと思って、けっこうきつい気持ちにもなった。この芝居を痛快と評するなら、“痛”ってこの痛さだよな。

しかしながらこの芝居では、本当に対決するべき母親は急逝してしまうし、その母親の分霊である兄弟たちに対しても、落とし前をつけるまえに別の伏線が話を支配しちゃってそのまま終幕まで突っ走っちゃう。もう少しそこへ立ち向かっていけるポテンシャルのある舞台設定だとは思ったんだけど、厭味ったらしく暗くなりすぎないところで振り切ったのだろうか。母親役を複数人に振り分けるギミックを用いたからこそ、咲良が対峙する際の母親はどのような姿も取りえないわけで(おそらくこの場合は根本の姿を取らなければならない)、この母親の特殊なキャスティングが逆にそこまで話を掘り下げられない枷のようでもある。

かといって、このギミックにこだわらなければ…という話をするべきかどうかは微妙なところ。キャスティング自体は『第 10 号』とまったく同一の 8 人で、改めてこの座組でやりたいというところから始まっているはず。それに、根本の劇作の性質をインタビュー等から読み取るに、アテ書きは主要なファクターであるようなので、この座組ありきでシナリオが立ち上がってきたのかもしれない。でも『第 10 号』のえらい評判の良さ2を期待して観に行くとけっこう躓くのではないかな3

全体的にはコミカル寄り。描き方によってはいくらでも重くできるようなテーマを、ラスト 10 分ちょっとからの殺陣で非日常空間へ振り飛ばすのは、サッパリとした気持ちで劇場の外に出るためには必要な、根本のいつものサービスのよう。でも、同一のテーマでもっとストレートに掘り下げたものも観てみたかったとは思う。

ラストシーン、畳の下から半身をつき出す咲良と舞い散る紙吹雪の組み合わせは、前年に観た 『レミング』 を思い出した。空希夫婦に生まれた次子の性別が男だったことが、あの殺陣を経た幕引き後の一家にどういった波乱を呼び込んだのか。

他人に折り合いをつける前に咲良は、あるいは我々は、自分自身に折り合いをつけないといけないんだけど、その具体は彼女の“逃走”後にしか描かれ得ない。そこを思い切り観客の想像に委ねてきた、少し意外な幕切れではあった。でもそれはまさに、世の中にいるいろいろな人間の数だけ回答が存在するんだよなあ。

日時


  1. 子供は親が思ってるよりいろいろ聞いてるし憶えてもいるぞ、っていうことだよね、これ。【2018-12-22 追記】 『消えていくなら朝』 にもあったメッセージ。

  2. 第 10 号『もっと超越した所へ。』は未鑑賞。2015 年 5 月上演だから演劇鑑賞自体はもう始めていたので、選択によっては、鑑賞は有りえたのかもしれない。ただ当時は根本演劇へのデビューもまだで、第 10 号公演の存在も認知していなかった。根本デビューはその 3 ヶ月後のバー公演から。

  3. 【2018-12-22 追記】この後に根本は劇団体制を解散し、月刊「根本宗子」は専属劇団員を擁しない 1 人体制となったことからも、なんとなく本作への手応えに関する事後認識が伺えるような。