公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『NINAGAWA・マクベス』 / 演出: 蜷川幸雄

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別件で遠出の最中に近くのシネコンの上映情報を調べていたら目に留まったのがこれ。蜷川幸雄演出はこの時点で未鑑賞。時間もちょうど空いていたし、その日の上映演目はどうやら『マクベス』ということだし(なんか接頭辞ついてるけど)と、ほぼ飛び入りで座席を予約。

それで演目名以外、何の情報も把握しない状態でシネコンに着いてキービジュアル1を見た瞬間、やってしまったか…?と後悔しかかった、もといその時は確実に後悔していました。和装に身を包んだ市村正親らが見栄を切るそのキービジュアルは、どう見ても時代劇です。まず思い浮かんだのは『ワンピース歌舞伎』であり、しかしそれは観たことがないので何の判断材料にもなりえない。そして後悔に拍車をかける実体験として 『女体シェイクスピア』 が想起されました。ガワを大きく振り切った企画には、何か奇を衒いでもしないといけない事情があるのであろう、しかし蜷川幸雄ってそんなことでもしないとやっていけない人なのだろうか?…と思考は堂々巡りをしながら、ディレイビューイングは開演へ。


杞憂でした。むしろ満足のいく観劇体験だったと断言できます。

マクベス (シェイクスピア) - Wikipedia

話の内容は、まんま『マクベス』です。登場人物名も舞台設定も『マクベス』のまま、ガワだけが安土・桃山時代の日本をイメージしています。人馬は武家の装いをし、桜や襖、あるときは有象無象の仏像群すら板の上に現れる。しかしあくまでそこは中世 11 世紀。市村正親マクベスであり、田中裕子はその夫人であり、そして舞台はスコットランドに他ならないのです。

しかし一見して大きいそのガワと中身とのギャップは、シェイクスピア四大悲劇のひとつと呼ばれ支持される戯曲と蜷川演出とのシナジー、あるいは小田島雄志による上演台本、そして何よりも役者陣の気魄(特に市村と田中のそれは最高)らによって、どうでもよくなります。奇抜な導入を持ちながら、それが奇抜であるかどうかが最終的な評価においてはどうでもよくなるということが、どれだけすごいのか。おそらく真に理解しきれてはいないでしょう。

間違いなく言えるのは、それまでの翻訳劇につきものであった違和感のようなものは、本作においては残らなかったということです。その違和感とは、翻訳を通すことによる微妙なニュアンスの欠損であったり、音(韻)の喪失であったり、あるいは文化的バックグラウンドの違い(簡単に言ってしまえば“国民性”)によってその戯曲の扱うテーマの良し悪し自体が理解できないからであったりと、様々な齟齬が積層・混和されることによるもので、それを「翻訳劇だから」と一言で片付けることをしていた、ということでしょう。その中にはとどのつまり、日本人が金髪のウィッグを被って外国人を演じる、といったガワの齟齬も含まれることになりますし、ガワは「翻訳劇だから」において最も指を差しやすい要素でもあるわけです。今回は逆に、ガワだけは和装だったと言えますが、オーソドックスな翻訳劇とは逆転したこの実装が既知の違和感を打ち消したわけでは、決してないでしょう。一部は奇を衒っていながら、戯曲はシェイクスピアの原作ままであり、すなわちベースは「翻訳劇『マクベス』」そのものであった。つまり『マクベス』そのものの持つ、翻訳のフィルターを破過してくるような強烈に普遍的なエッセンスが、NINAGAWA 演出によって却って際立ったということではないでしょうか。無敵のタッグじゃん。

国境を越えてくる面白さを、演劇で、このようなかたちで体験することができたということは、非常に良いものでした。そして同時に、これが蜷川幸雄三回忌追悼企画として行われたディレイビューイングであるということは、私が彼の創作を生で享受することは決してないということでもあるのですが。


蜷川幸雄シアター 2 『NINAGAWA・マクベス
  • 開演 2018-04-07 19:00
  • 於 T・ジョイ博多
『NINAGAWA・マクベス