公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『皆、シンデレラがやりたい。』 / M&Oplaysプロデュース 演出: 根本宗子

高田聖子を刮目して視よ。

mo-plays.com

ストーリー

公式サイト(http://mo-plays.com/Cinderella/#story)に書いてあるストーリーと上演版とは、ほぼ別物。大筋ってここまで書き換わるんだ、という勉強にはなる。

ストーリー(上演版)

とあるアイドル、一ノ瀬陸(通称:りっくん)の追っかけで知り合った、質素な榎本[演:高田聖子]、スナック経営のママ神保[猫背椿]、ロリータ趣味の角川[新谷真弓]の 40 代女性 3 人組。旦那の金でりっくんに貢ぎまくる神保と、出どころは不明だが圧倒的な財力でりっくんに貢ぎまくる角川は、オタク活動への支出が相対的に劣る榎本に差別感情を抱きつつ、時には 2 人で陰口も叩きながら表面上は 3 人で仲良くしている。

神保がスマートフォンに乗り換えたことをきっかけに、オタク活動をツイッター上でも本格化させた 3 人。深夜 1 時にりっくんについてツイートすれば、彼がエゴサしてきてイイネをくれる。ツイッターって楽しい!活動の幅を広げていくうち、神保はりっくんが炎上していることに気づく。地下アイドルの類であろう、三村まりあ[新垣里沙]という女がりっくんの寝顔をアップしていたのだ。自分だけいい思いをしようとする三村まりあという女を、絶対に許さない。私たちのりっくんを守らなきゃ!女 3 人、あらゆる手を使ってインターネット上に三村まりあの悪評をばらまきつづける。夜を徹し続けて 1 週間、神保のスナックに籠って炎上工作を続けた 3 人はついに力尽き、死んだように眠り込んでしまう。

スマートフォン初心者であった神保のツイートは、位置情報が ON になっていた。スナックに籠って同一座標からツイートし続けていれば、居城を特定されて当然。眠りこける 3 人のもとへ三村まりあ本人と、彼女のマネージャーである筒井[小沢道成]が乗り込んでくる。

三村まりあが持ち込んできた大量のりっくんへのプレゼント、三村はこれが「シナモン姫」角川の貢ぎ物だから返却しに来たという。プレゼント禁止のりっくんに何故、どのような経路でプレゼントが送られ続けていたのか。明らかになるりっくんのホスト活動。ホストクラブというルートで貢物を送り続けていた角川。神保と榎本は結託して、角川を攻撃し始めるが…

一方で、身体に溜まった毒を今すぐ吐き出さないとどうにもならないという三村。3 人は当然その毒を、ネットを通じて悪評をばらまき続けた自分たちの所業であると断定していたが、三村の口から堰を切ったように流れ出した真実は 3 人の予想を裏切るもので…

榎本、神保、角川、三村、筒井。5 人の口論が渦巻くスナックのソファーでは、神保の旦那の連れ子、いっちゃん[根本宗子]が寝息を立て続けている。

アイドルに命をかけてきた 40 代の女たち。彼女たちのりっくんへの想いは果たして、どこへ行き着くのか。

感想

皆さんの遊びで使う 1 万円でも、
私にとっては、11 時間パートしないと貰えない 1 万円なんです。
だから、その 1 万円分の見返りに対して、私は、あなたたちよりよほど貪欲です。

ひどい人だってわかってるのに?
お金が勿体ないとは思わないんですか。

思わない。
だって、今まで払ったお金の分の見返りも、まだ私は回収できていないのに。

終盤の榎本と三村の会話より。

皆に観てほしい。

もう本当に、あらゆるオタクに観てほしい。立場を問わず。

あなたがオタクをする理由は何ですか?モチベーションは?いくらなら貢げますか、いくら貢ぎましたか?そのお金は、あなたがどのような対価を払うことによって手に入りましたか?あなたはそのお金を投じることにより、推しから何を得られましたか?あなたにとっての、推しからの対価とは何ですか?推しのどこに魅力を感じていますか?推しの何を信じていますか?あなたの信じるそれを推しが裏切ったとき、あなたは何を思いますか?何をしますか?推しを赦しますか?誰かを怨みますか?

最近、推しができました。推しというより、もはやあらゆる面において私淑するべき存在であるといえます。自意識が美しいと思っています。正当な対価なしに“貢ぐ”ことは、推しのその自意識にかかわる行動原理の否定に他ならないと考えています。ですから、正当な対価を与えうる機会を積極的に探します。榎本の手段で、角川のように圧倒的な財源を確保する努力を行います。そのほとんどは旅費などの間接費に消え、最終的には榎本のような雀の涙ほどの対価しか、相手には渡っていないかもしれません。それでも、その投資を惜しむことはありません。私にとっての対価は、その圧倒的な自意識を浴びることです。認知されたいとは思わない。私自身の承認欲求は存在せず、したがって対価としては存在しえないからです。彼女は、彼女みずから相応の対価を払うことを厭うことなく、吸収できるものを血肉に変えていくという根性を着実に履行している。少なくとも人前に出ている間、今までそれを破っているように見えたことはない。裏切ったときは、それ以降私淑するべき存在ではなくなるだけです。承認欲求のような自己都合の見返りは求めていないので、赦したり怨んだりすることはそもそも有り得ない。アウトプットでは、私は榎本にしか見えないかもしれない。でもそれでいいんです。だからこそ、この芝居が物凄く眩しいものに見えました。榎本はさらに裏切られている上で、純度が高かったからです。

シンデレラになる。

榎本のようなオタクは、確かに痛々しく見える瞬間もあります。結局、りっくんに金を供給し続けていた主力…トップオタは角川であり、神保です。しかし、神保と角川は“承認”に基づいてオタクをやっている。りっくんの“認知”が自身に向かないとき、あるいは、本当は自身に向いていないことが分かったとき、神保と角川はりっくんを見放した。最後までりっくんとの関係性を維持できたのは、榎本だけだった。それは榎本がひたすら自身の内面に貪欲だったからであり、それゆえ最後、彼女はシンデレラをする、シンデレラになることができるのでしょう。

神保や角川がいなければ、りっくんというアイドルは成立しなかったと誰しも最初は思います。でもそうではないことは、三村から語られ、かつ、いっちゃんに俯瞰される「経済」において、自明です。りっくんは三村の稼ぎのみでも生活はできていたのであって、神保や角川の金は彼の個人的な欲望を満たすためにのみ使われていた。その余剰経済の流れは、少なくとも物語終盤において完全に破綻をみましたが、ラストシーンにおいて榎本は誰よりも満たされた顔をしています。彼女は自身で完結した経済の流れを作り、またホストクラブという経路すらモチベーションに取り込むことで完全に孤高の立ち位置へ到達する。

これを書き上げた当時、前後の根本まわりの状況を勘案するに、作劇のモチベーションは、あれ1なのではないかと思っています。だからこそ榎本、そして三村という人間が生まれ、本作がここまで凄まじいエネルギーを持つようになったのではないか。どのようなきっかけで根本を知っても、そのコンテクストを問わず、この作品は観てほしいなあと思いました。凄いですよ。

現実的には数々の齟齬が起き、存在に無理が発生する榎本のような役柄を、高田聖子という女優が本当に有無を言わさぬ領域まで押し上げています。終盤の独白を観てほしい。100 分ぶっつづけ、退場など途中数分しかないような中で 40 代の役者は流石にどんどん顔がくずれてくるのですが、展開と台詞ひとつで、化粧直しもないのに次の瞬間から顔にハリとツヤが戻るんですよ。開演直後よりも若返っているといっていい。退場なく連続的に板の上に立ち続けている人間の貌が、表情が、肌が、不連続に若返るんです。“カット”のある表現では到達しえない境地がそこにある。

タイトルをうまく織り込んだ展開も素晴らしく。そして、最後のシャンパンタワーが本当に、本当に美しい。録画なのに涙が出そうになりました。

情報

M&Oplays プロデュース 『皆、シンデレラがやりたい。』

  • 作・演出 根本宗子
  • 2017-02-16 ~ 2017-02-26
  • 本多劇場
  • BS スカパー!「STAGE LEGEND ~伝説舞台~」にて録画放送

  1. あれです。

『朝日のような夕日をつれて M ver.』 / STAGE THE WORKOUT

www.stagecompany.co.jp

怪童 東拓海の絶技に酔いな!

端的に言うとこういうこと。

E ver. と共通して言える脚本あるいは意識の問題点

E ver. のほうで書いた。

cobayahi.hatenablog.com

M ver. について

オール W キャスト、2 組に分かれての上演において、相対的にベテランでそろえたという座組。括弧内は 2018 年 11 月時点の年齢。

  • 羽鳥翔太(33):部長・ウラヤマ・A
  • 内藤栄一(34):社長・エスカワ・B
  • 中村龍介(33):研究員・ゴドー 1・C
  • 鈴木悠太郎(27):マーケッター・ゴドー 2・D
  • 東拓海(21):少年・医者・E

主要キャスト 3 人が落ち着いた年齢であるだけでなく、ゴドー 2 も E ver. の役者とさして変わらない年齢なのに 30 代の 3 人に劣らない落ち着きがあったし、何より少年役の東拓海の年齢みてびびった。鑑賞中は 27 くらいだろうと思ってた。

フライヤー等では役者の並び順が、中村→内藤→羽鳥→鈴木→東。繰り返しになるが、『朝日』はゴドー 1 の話ではないと思う。

前日の E ver. で文句が頭の中で出尽くしたからか、脚本に関しては割り切って観ることができた。おそらく役者の演技によるところも大きかったのではないか。脚本のアラなどはどうしても、演技に引き込まれないときの雑念の中で増幅されることが多い。M ver. は技術に関しては申し分なかったので、雑念を生じる余地があまり無かったのだと思われる。

中でも凄まじい立ち回りを見せていたのは、座組最年少1の少年役、東拓海。半グレのような不敵な笑みとネコのような身のこなしで、出だしからすでに実年齢を大幅に上回るような雰囲気を湛えていたのだけれど、出番の少ない少年という役の中で一時たりとも、埋もれる場面が無い。VR ゴーグル群舞でのダンスのキレは圧倒的(そりゃセンター獲れるわ)、アルプスの少女ハイジのシーンでも一瞬で悪目立ち(きもい)、終盤の 4 人に突っかかっていくシーンでのアグレッシブさ(物怖じを一切しないところが良い)。そして「ゴドーの覚醒」前の自作(?)熱血スポ根ボウリング企画。演出家によるブラッシュアップもあったのだろうけど、あれ自分でネタ作って持ってきたんだったら、もうそれだけで少年役をモノにしてると言っていいでしょ。ところどころ玉置玲央を意識したのかなと感じる部分はあった2けど、今まで観てきた少年の中では間違いなく一番。コンテンポラリーな少年像は、ここでひとつの完成を見たのではないかと思いました。医者の役も、自分なりに解釈してこなしていたように見えた。

そしてやっぱり残念だったのはウラヤマ役。大高洋夫に寄せるわけでもなく、独自のウラヤマ像はきっと持っているんだろうけど、やっぱウラヤマって大高なんじゃね?エスカワ役は小須田康人に寄せすぎずとも何とかなるんだなという感じはあったけど(けっこう意識はしていたように見えた)。あと、要所要所でとちってたのが大きかったのかもしれない。このとちりはウラヤマに限らず散見はされて、リカバーのためにアドリブを入れる部分があった。ただ『朝日』においてアドリブを入れる余地というのは本当に皆無なので、やりすぎるとドミノみたいに崩れていくなと思いました。このベースラインの維持は、ウラヤマだけでなく、少年を除いた 4 人で緊密に組み上げていかないといけない。『'87』にはあって『'91』にはない、あの感覚。本当に難しい芝居だな。

割り切って観られれば、ウワモノのナイフのようなギラつきで印象がガラッと変わる

主要キャスト 3 人がまだ安定していたことと、ゴドー 2 もそれについていっていたことで、ウラヤマが多少ガタついていた以外はあまり雑念を生じる余地はなく、その上でナイフみたいな東少年がのびのびと、かつサイコに立ち回っていたおかげで、前日とは打って変わって満足感は高かった3

本所松坂亭は本当に狭いハコだったし、出ている役者も全然知らない人たちだったけど、いやあ、とんでもない怪童が眠っているものだ。東拓海、末恐ろしい。

日時

  • 2018-11-11 13:00
  • 於 本所松坂亭劇場

  1. おそらく E ver. 陣を含めてもダントツに若い。

  2. 顔の系統が似ているのが余計にそう思わせるのかもしれない。

  3. ゴドー 1 の中村も、今までにないゴドー 1 の風采でなかなか。登場時の『長い夜』カラオケの絶妙なわざとらしさとか好きでした。

『朝日のような夕日をつれて E ver.』 / STAGE THE WORKOUT

www.stagecompany.co.jp

始めに:酷評です

『朝日』を鴻上尚史ではない人間が演出するにあたって、当然懸念すべき一番の不安が、ものの見事に的中したなあ、と思った。

この芝居随一の特徴を挙げるならば、鴻上そして大高洋夫小須田康人を中心として節目節目に再演されてきたこと。加えて再演ごとに「おもちゃ」や「世相」のモチーフが更新され続けてきたことにあると思っていて。なかなかこういう芝居は他に観たことがなくて、具体的な細部の台詞は本当にバージョン毎にガラッと変わっていたりする。だから、『朝日』を『朝日』たらしめるのは戯曲の一言一句ではなくて、そのフレームワークではないのか?と常々思っていたんだけど。考えすぎだった?

第三舞台の全盛期には 4 年とか、短い時には 2 年という間隔で再演された本作は、その短い間にも変化する「おもちゃ」の最先端、あるいは「世相」の流行に追随するようにその枝葉を変え続けてきたはず。今回の公演は、鴻上・大高・小須田による(おそらくこの布陣では最後となった) 2014 版 から 4 年の歳月を経ている。それこそ「おもちゃ」と「世相」が変化するには充分すぎるほどの時間は経過した。蓋を開けてみれば、2014 版の台本から全くと言っていいほど手は加えられておらず、舞台装置や予算の都合から再現が厳しいと思われるギャグの部分のみ、申し訳程度に改変がなされていた程度だった。

2018 年に mixi の話題?ソシャゲの先端はパズドラ任天堂の相場感を 2014 年の台詞そのままで語ってどうするの?内村航平田中将大?いつの話をしているんだ。そりゃ大高や小須田といった歴戦の相棒みたいな役者も不在、少し前にオーディションで全員を採ったわけだから、1 年前から役者にネタ仕込みの市場リサーチからさせる1わけにはいかないという事情は分かってる。ネタだって、役者にエチュードさせ続けて練り上げることもできない。そういった負荷は今回、全て演出家(と脚本家)にいったんだろう。大変だ。でも、『朝日』を演るって、そういうことじゃないの?オール W キャストとか試みる前に、やることあったんじゃないか、とずっと考えてる。「おもちゃ」に関してもそう。「ソウルライフ」の次を考えないと。VR ゴーグルももう普及帯に入ってきて、プラットフォームの在り方を捏ねる段階は既に終わっているはずなのに。さすがに鴻上以外にここまで考えさせるのは酷な気もしてきたけど。でも、これほど鮮度が肝な芝居って他に無いからなあ。

改変せざるを得なかった箇所に持ってきたネタには、過去のバージョンのネタをあてがっている部分は多かった。例えば、両ゴドーの登場シーンで歌われた松山千春『長い夜』は、かつてのゴドー 1(尾崎豊、あるいは長渕剛としての)がウラヤマとエスカワに茶化される場面での、コスちゃん(小須田)の必殺ギャグが出典。「ゴド狼」で登場する第三のゴドーがアルプスの少女ハイジであるのは、みよこさんゆかりの物品を男達で奪い合うシーンでの、やはりコスちゃんの必殺ギャグから。こういったオマージュが手一杯で、本質にまで手が回らなかったのだとしたら、やっぱり準備あるいは覚悟の問題だ。

…と、E ver. のレビューにおいて散々に文句を言ったけれど、フレームワークの問題であるから、 M ver. においても言いたいことは同じ。そして当然、これらの問題に関して、役者陣は全く悪くないです。

E ver. について

オール W キャスト、2 組に分かれての上演において、どちらかというと若手でそろえたという座組。括弧内は 2018 年 11 月時点の年齢。

  • 渋谷宏之郎(25):部長・ウラヤマ・A
  • 粂谷大樹(??):社長・エスカワ・B
  • 今宮稜正(??):研究員・ゴドー 1・C
  • 飛山竜太(25):マーケッター・ゴドー 2・D
  • 石川晋(25?):少年・医者・E

事務所に所属していないと思われる人もいてプロフィールが不明なケースがあるが、少なくとも全員 20 代ではあるように見えた。『朝日』というのは複数の世界観が並行して描かれていて、立花トーイの世界にもゴドーを待ちながらの世界にも(他にも)、それぞれに異なる適齢観があるように思う。E ver. の年齢層はそのどれに対しても、まだちょっと若いかなと思った2

ちなみにフライヤー等では役者の並び順が、今宮→粂谷→飛山→渋谷→石川(飛山と渋谷は逆転するケースあり)。『朝日』ってゴドー 1 の話だっけ?

少年役の石川くんは良かったと思う。どこか京ちゃんのような笑顔のニュアンスを持ちながらもベースは全く異なって見えたし、伊藤ちゃんや松田さんみたいなペーソスに拠ってるわけでもないし。佇まいはこれまでのどの少年とも違う気がした。「ゴドーの覚醒」前のネタも、自らのエピソードなんだろう。あとハイジのコスプレめちゃくちゃ似合ってた。ハイジだな彼は。

頑張ってほしかったのはウラヤマ役の渋谷くん。演出側にも多少の問題はあって、例えば大高ウラヤマがギター弾くシーンで渋谷ウラヤマがギター弾く必要なんて、別にどこにもないわけだ。あれは大高がギター弾けるから使えるギャグなわけだから。何で改変せずに残しちゃったんだろ。

というより、それ以前の、ものすごく根源的な問題として、もしかすると大高洋夫って一切、代えの効かない役者なんじゃないかという気がした。『朝日』における芝居の要は、台本にも書かれているように少年だと思うんだけど、少年はあくまで最後の最後に効いてくるウワモノであって、本当に代えやミスのきかないベースラインはウラヤマなのではないかと。今まで観てきた『朝日』は、そのウラヤマが不動の大高だったから気がつかなかったんだ、たぶん。

最後に

…と、鴻上・大高・小須田を失って(?)はじめてわかる『朝日』のもろもろ。

135 を使わないゴドー 2 の登場演出は、けっこう好きです。

日時

  • 2018-11-10 17:00
  • 於 本所松坂亭劇場

  1. 『'91』のコメンタリーより。大高と小須田に公演 1 年前から課せられる市場リサーチ作業。

  2. そんなこといったら初演('81)の大高なんて当時は 21 歳かそこら、早稲田の学生だったわけですが。

『遺産』 / 劇団チョコレートケーキ

第30回公演『遺産』 | 劇団チョコレートケーキwww.geki-choco.com

9 月の公演 『ドキュメンタリー』 と連続した時間軸上にある本作の主舞台は、前作から 40 年ほど遡った第二次世界大戦大東亜戦争)末期の満州ピンファン。『ドキュメンタリー』において重要な舞台背景の一角を占めたミドリ十字(劇中では架空の企業「グリーン製薬」)の源流ともいえる所謂 731 部隊の行ってきた悪魔の所業に携わる人々を描く「過去編」と、731 出身の老医師 今井の遺したピンファン手記に相対せざるを得なくなった医師 中村を中心に動く「現代編」が交錯するようにして、芝居は進行します。過去編と現在編とでは同一の役者の今昔を異なる役者が演じ(今井のみ一貫して同一の役者が演じる)、また『ドキュメンタリー』において 1980 年代の登場人物 3 名を演じた劇団付の役者陣は、本作においては『ドキュメンタリー』とは全く別の 3 役を演じます。

731 部隊の描写に関しては特筆すべき斬新な解釈などは見られず、戦時研究において科学者たちの陥った異常な集団心理、「マルタ」と少年兵との間に芽生えてしまった情とそれが現代の彼に遺した傷痕、突如として現代に現れてしまった老医師今井の「遺産」を巡って暗躍するかつての軍関係者の思惑、などが淡々と、しかし大きなうねりももって描かれます。主題は「遺産」の取り扱いであり、即ちそれを負の産物であるとして白日に晒される前に葬ろうとする存命の部隊関係者 野村らと、決して良いものとは言えないがその遺産を継いで生きていくことこそが我々の為すべきことだという中村との意見のぶつかり合いです。その間で揺れ動く少年兵 川口の回想と今、そして中村と今井とのかつての語らい、あるいは今井のピンファン時代とが交錯し、最後は今井の幻が中村に語り掛けるかたちで命の尊さが、改めて医師である中村の心に刻まれ、讃歌のように関係者を、川口少年兵を、観客を打つというものです。

『ドキュメンタリー』の時に危惧した、テーマに対して取材を特殊化しすぎている感覚というのは、本作ではかえって薄く感じられました。扱う話は前作以上に露骨で重たいので、その原因は自分でもよくわかってはいないのですが、ひとつはこの「遺産」の切り口に共感しうる下地が自分の中に既に形成されていたというのがあったのではないかと思います。第二次世界大戦において日本で語られがちなのは、平和学習と関連づけられる原爆被害であったり沖縄戦であったりと、今われわれが住んでいるこの日本列島という領域において行われた“被”侵攻のエピソードだと思います。日本が敗戦へと向かう各種のターニングポイントであるとともに、非戦闘員である住民も大きな犠牲を受けたそれらの史実を語り継ぐことも勿論忘れられてはならないと思うのですが、「民族解放」の名の下に対外的に行われた外地での戦闘に関する史観認識…要素要素においては加害者であったかもしれないという事実の取り扱い、等に関しても、同じくらい考えないといけないのではないかといったような。

これは現代の事件においてもいえることであって、何か凶悪な事件が起きた時に、怖い、自分もいつそういった事件に巻き込まれるかわからない、といった“被害者的”意識を掲げる反応は良く見れど、自分がいつ、どのように加害者側になりうるかという危機意識に関しては、あまり見ない気がするんですよね。それとも観測範囲の問題なのかな。どこか他人事のように加害者を捉えるという当事者意識の欠落は、いつか来るかもしれない局面において日本が総政治化した際にどのような結果を招くのか。そんな大層なことでなくてもいいんですけど、そういった“加害者意識”の欠落あるいは封印が蓄積することによって起こりうる日常生活上の些細な齟齬だとかにも目を背けない、そんな気持ちに改めてさせられる芝居でした。決して 731 部隊にはじまった話ではなく、大東亜戦争全体に、あるいはそれよりも前から日本に通底する何かが作り上げているものに対して。

現代編(1990 年代)において、そこから数えて 10 年ほど前に『ドキュメンタリー』で行われようとしていたグリーン製薬の内部告発が未遂に終わっていたということが示唆されています。ある意味では中村は『ドキュメンタリー』におけるジャーナリスト 高村の意志を変奏しつつ反復し、そしてある側面では高村の、そして今井の意志/遺志を一歩前へと進めることに成功します。中村と高村の演者が等しく西尾であるという点が、良くも悪くもストーリーの重奏性を意識させることにつながってもいます。

これが悪い方向に出ていたのが『ドキュメンタリー』では別の老医師 重岡を演じていた今井役の岡本で、老医師の演技がどこか一辺倒であったように感じられたためか悪の重岡、善の今井という感じが上手く分離されていない印象でした。無論、作中における重岡や今井の人物造形はそこまで単純なものではなく、純粋な科学者として 731 部隊の研究に従事していた 2 人の医師の善悪観というのは非常にきわどい表裏一体の上に成り立っているわけですから、善悪の混合や交差はあると思いますけれど。

一方、『ドキュメンタリー』で独自の正義感に目覚め内部告発を決意したグリーン製薬社員 杉崎を演じた浅井については、そこで見せたスレッスレなナイーブさを同じく内に秘めたような軍医少将 天野を本作で“憑依”させていて、非常に良かった。憑依系の役者って本当にいるんだなと思ってしまいました。色白の肌が怒りや興奮で朱を差す場面が脳裏に張り付いています。そして、私の観た回ではアフターアクトがあり、その回では天野少将のその後を浅井が一人芝居で演じるというものでした。死の床にあり咽頭がんで声も出ないかつての師、石井(もちろん石井四郎でしょう)の枕もとを辞する天野の耳に、出るはずのない石井の喉から明瞭な「天野、満州へ帰るぞ…」という一言が届くのです。それに堰を切られたかのように石井へ訥々と満州飛躍のプランを語り続けながら枕もとへ歩みを戻す天野を映しながら暗転するラストを観て、これが本物の怪演だなと実感しました。本当に良かった。


  • 脚本 古川健
  • 演出 日澤雄介
  • 出演
    • 中村 西尾友樹:現代編の主人公、今井の「遺産」を託されることになった医師
    • 今井 岡本篤:過去編では陸軍技師であり主人公、現代編では既に故人の老医師、ピンファン手記である「遺産」を厳重に隠匿し本土へ持ち帰っていた
    • 野村 林竜三(現代編)・日比野線(過去編):軍医少尉 → 製薬会社役員、今井の遺産を葬ろうと暗躍する首謀者
    • 川口 足立英(過去編)・原口健太郎(現代編):「石井中将」と同郷のピンファン少年隊員、終戦後は木下と名を変え日陰で生きる、731 の記憶に苦しめられる人
    • 山内 渡邊りょう:過去編のみ登場の陸軍技師、今井の同僚
    • 西田 佐瀬弘幸:過去編のみ登場の陸軍傭人、川口の上司にあたる情にも厚い現場肌のおじさん
    • 天野 浅井伸治:過去編のみ登場、石井に心酔する軍医少将
    • 王静花 李丹:ピンファン近郊から徴発されたと思しき女「マルタ」、息子がいる
  • 開演 2018-11-09 14:00
  • 於 すみだパークスタジオ倉

『MAKOTO』 / 阿佐ヶ谷スパイダース

spice.eplus.jp

確かにどきどきしたシーンはあったし、長塚圭史にそういうポテンシャルがあることは感じて取れた。そして、それ故か 2016 年に『はたらくおとこ』(再演)を観なかったことを、今になって物凄く後悔している。

劇団化

阿佐ヶ谷スパイダースが劇団化、新メンバーに中村まこと、村岡希美ら - ステージナタリーnatalie.mu

そもそもこれまで長塚圭史演出や阿佐ヶ谷スパイダースは観たことがなかった。さらに、今回観に行こうと思ったきっかけは 2018 年 5 月の「劇団化」と、それに伴って以前観に行っていた劇団を脱退していた俳優(少し気がかりだった)が、オーディションを経て阿佐ヶ谷スパイダースに加入した経緯を把握したため。つまり動機づけの時点で既に、演劇ユニットから劇団への不可逆な変容を遂げていたのであり、ユニット時代の芝居を見逃した後悔など先に立たないこと甚だしい。

「芝居は生モノ」とはよく言うけれど、それを演る集団もまた生きており流動することを改めて思い知った。

観て

正直に言うと、開演から 5 分のあたりで帰りたくなった。親子 3 人が平屋のアパートの一室の前で、その部屋に住んでいるはずの男を待っている。待っている間の会話の屁理屈くさいつまらなさと説教くさい退屈さ、そしてそれを長塚自身が演っていることを何かきつく感じてしまい、これが 2 時間続く前に劇場を出るべきか本気で迷った。

平屋のシーンでは出てこなかったその男、水谷が登場してから、芝居は逆に生活感とは無縁の、夜の狂騒の熱を纏う。バイト先の工事現場を抜け出した水谷が「狼キャブ」に乗って夜中の新宿を疾走する。運転手(狼)に呼応する花園神社の狛犬たちのシーンではもう完全に先ほどの帰りたさは失せていて、これから来る展開にどきどきしていた。

結果を言ってしまうと興奮のピークはそこだった気がする。まだ前半も前半。

水谷は医療事故で妻を喪っている。遺品あるいは妻との生活のたくさん詰まった平屋のアパートには「匂いが強すぎる」といって、近づくことすら物凄く苦労をする。彼は妻のことを忘れようとするが、忘れるどころか事故に携わった医者を拐って女装させ妻に仕立てあげたり、その女装のシーンでの万国旗のようなクローゼットは浮世離れしていたり。展開は非現実的…漫画のようになってくる(水谷は漫画家である)。

ストーリーが進むにつれて、そのとてつもない悲しみを忘れる必要にどうしても迫られたとき、慟哭する水谷の周囲には耳をつんざくような高周波音が充満し、その緊張が破局した瞬間に何か巨大なエネルギーの開放が起こるようになる(周囲の人間は一時的に耳が聴こえなくなったりする)。「忘却」のために割かなければならない莫大なエネルギーが余剰次元で炸裂するかのようなこの事象は、後にタキオン粒子と紐づけられて何らかの科学技術へ転用されようとする展開もみせるが、ここは理論に嘘臭さが過ぎて大いに興醒め。

それよりはこの忘却のエネルギーが、序盤から出てくる都市と、その変容(工事…再開発)にリンクしているような感覚が大事か。渋谷の再開発には文字通り莫大なエネルギーが使われているが、それによってこれまでの渋谷の面影はどこへ行ってしまうのか。現在のある種繁雑な都市の匂いが再開発によって喪われていくであろうことを、まさに新宿区あたりで育ったであろう長塚が今もっとも感じており、その思いを芝居に織り込んでいたようにみえた。拡大すれば、ふるさとの変容。ただそれを渋谷や新宿、池袋に当てはめて示すことで、地方(例えば今回の松本公演)の人間がどれほど共感することができるのか、みたいな疑問も。

水谷の感覚と長塚圭史の感覚が一点に収束し、最終的に水谷は池袋を火の海にする!天井から吊られ降りてくる「完」の文字。そして同じく空から落ちてくる野球ボールサイズの球、球、球。球のうちのひとつは、前半に虚空に向かって放り投げた(シーンがあったような気がする)、あれだ。そして始めに投げた球が時間をおいて関係のない空間に落ちてくるというネタは、水谷の漫画のものだ。そんなオチかー。

結局、夜を疾走するあのテンションを維持できなかったので、終演直後にはツギハギな感覚だけが残った。東京の再開発に関わる「“都市”と“忘却”」のような、何かものを考えるきっかけとなる要素は貰えた気がするけど。次回作は本当にどうするべきか迷う…少なくとも何かが貰えるような気はしているから。

錯視で強度をつけた舞台美術は良かった。遠目に見ると本当にそこに道路が走っているような、変な現実感を醸してもいる。

出演
  • 中村まこと:水谷(医療事故で妻を喪った漫画家・工事現場バイト)
  • 長塚圭史:佐藤(水谷の平屋を訪ねる男)
  • 志甫真弓子:佐藤の妻
  • 木村美月:佐藤の娘
  • 李千鶴:水谷の隣人
  • 森一生:水谷の隣人
  • 富岡晃一郎1:花子(水谷夫妻の元?飼い犬)
  • 坂本慶介:入口(水谷の工事現場バイトの同僚)
  • 中山祐一朗:栗田(水谷の工事現場バイトの上長)
  • 伊達暁:森本(医療事故に関わったとされる医者)
  • ちすん:森本の妻
  • 大久保祥太郎:森本の息子(とにかく水谷にそそのかされまくる)
日時

  1. 松本公演のみ、藤間爽子の代役で花子を担当。藤間でも見てみたかったけど、富岡の花子のオネエくささは良かった。

『ドキュメンタリー』 / 劇団チョコレートケーキ

自らを被験者にすると、観察ができなくなるもの、こと。それはなにか。どうしてか。

natalie.mu


ある事柄に対して、理解のできる理由があるということは、実はとても人間を安心させます。
(略)
創作において、理由を与えるというのは実は優しい行為なのかもしれません。同時に現実の厳しさを薄める行為なのかもしれません。しかし、私は理解しやすい理由を見つけることは創作にとってとても大事な作業だと思っています。

脚本 古川健による「ご挨拶」より

このあたり、突き詰めると非常に面倒な話だと思っています。エンターテイナーとしては誠実かもしれない。が、本作のように明らかにモデルとなる事件が存在する場合、そうでない創作に比べて気をつけないといけないことが出てくるはずです。

つまり、理解しやすい理由、すなわちある種の回答を与える側は、より多角的にそのモデルを検討していなければならないのではないかということです。

本作のリーフレットにおいては下記 3 つの参考文献が明記されているほか、

以下の 1 冊が劇中において登場します。

文献が 4 つ…ページ数では計 1100 ページほどになりますが、視点(インタビュー等により得た複数のソースからの情報を含む書においても、精査や編集という取捨選択の作業を通すことで、1 冊あたりの視点は取捨選択を行った個人または法人による 1 人の視点に収束するものとします)は 4 つと考えてよいのではないか。これが少ないのかどうか、こういった劇作の類では比較対象も少ない(というより、参考文献まで例示するケースは少なく、その面ではこの方はやはり誠実なことに変わりはないのかなと思います)ため分かりかねますが、決して多いということはないのではと思います。また『ミドリ十字731部隊』および『悪魔の飽食』の 2 冊は、本作と 『遺産』 とをある題材で紐づけるため…すなわちミドリ十字薬害エイズ問題と大日本帝国陸軍 731 部隊とを紐づけるために恣意的に引用されているきらいがあり、4 つの資料には偏りがあるように見受けられます。“理由”を補強するために必要な 2 冊であることは理解できますが、それらが半数を占めるポートフォリオで多角的に事象を検討できているかというと、疑義は生じるでしょう(私も今すぐに全ての文献を読める環境にはないため、精査を経ての断定を行える状況には未だありません)。

次に、“医療問題として”このような提起をする必然性があったかどうか。

利潤追求やそれに伴う組織的隠蔽すなわちモラルの欠如の問題は、日本では医療分野に限らず近年はむしろ製造業において顕著でなかったか1,2,3,4,5。果たして“闇”は、731 部隊の幹部が戦後に医療業界に拡散したことによる生命倫理の欠落だけなのでしょうか?ひとつの切り口としてはそうかもしれません。ですが、もう少し大きな問題ではないのか。日本全体の体質あるいは国民性の問題…それを“戦時”に紐付けるのであれば、大日本帝国陸軍そのもの、ひいては“日本軍”という、より大枠に帰結しはしないか?

…話が大きくなってきました。これを 3 人芝居でやるのは酷ですね。本作はそもそもが 731 部隊を題材とした次作 『遺産』 の前日譚という位置づけで制作されているはずなので、この『ドキュメンタリー』の側で論ずるべき問題ではないかもしれない。731 部隊を下敷きに医学の発展と生命倫理といったテーマを中心に据えるのであれば、前日譚すなわち従属する立場である本作も必然的に、医療分野における取材になってくるのは仕方がないことです。また、上記の従属に基づいた恣意的な設定であるものの『ドキュメンタリー』の舞台は 1980 年代であって、決して現在ではない。くわえて医療は人命に直結するため、“理解しやすい”理由としては最適な題材ということにもなってしまいます。

ですが例えば製造業において、メーカーが建材の欠陥を隠蔽してそれが建築物に採用された場合、人命に直結していないといえるのか?不祥事の発覚した彼らは、エクスキューズとしてどのような経営体制を挙げ得る/挙げたでしょうか。あるいは医療分野でなければ、題材として“センセーショナルさ”に欠けるのでしょうか。欠陥だらけのエスカレーターに巻き込まれて亡くなる事故は、センセーショナルでないのでしょうか。

狭義の“産業”にすら限定する必要はないかもしれません。人を人として扱わない風潮は SNS においてヘイトスピーチとして一般化しつつありますが、これは他の劇作家(誰とは言わない)に書かせておけばいいのでしょうか。

限定的な問題提起から、観た人間がどのように視野や思考を拡げていけるか。そのきっかけとして機能しうる面白さはありましたが、文献のラインナップや、生命倫理(のみ)をセンセーショナルなものとしかねない切り口は、少し危うい領域にあるかもしれないと思いました。

そこまで想像のできる人間ならば、こういった作品を観ずとも世相に想いを馳せることはできるかもしれない。ならば、本作のような会話劇でなく書籍を読めば良いのではないか、その方がより純度が高いのではないかと思うかもしれません。

ただ、登場人物である街の老医師がおぞましい、人のあり方を問う逸話を、時に深刻そうに、時に(科学者として)楽しそうに話している。その時に老医師の背後で、彼を見ないように背を向け、メモを書き付けることもなく作業机にただ座っているジャーナリストの後ろ姿を、その背中や肩を生々しく想起できる力を、書を読む者が持ち得るか。私は、この芝居でその画を見たときに、自分にこの背中までを独力で想像し得る力は無いなと感じました。役者という“人”を介したときに伝わるもの、あるいはその“介する”という能力そのもの。これらはひとえに戯曲と演出そして役者が織り成す、芝居にしか為し得ない表現であり、彼らの力です。やはりそこでも感じた、演劇という表現に携わる者としての誠実さを、もう少し信じてみたいと思わせる芝居でした。

小劇場楽園というとても小さな空間。それ故に客席の足元まで散らばるように敷き詰められたジャーナリストの収集資料。一見すると邪魔な、劇場としては致命的な位置にあるように思える一本の太い柱を使った効果的な“隔絶”。劇場の間取りまで味方につけた良い演出も、3 人芝居としてはこれ以上になくスケールしていました。こういった空間の成立もまた、“力”の賜物なのでしょう。

  • 脚本 古川健
  • 演出 日澤雄介
  • 開演 2018-09-29 17:00
  • 於 下北沢小劇場楽園

『アラジン』 / 劇団四季

www.shiki.jp

『アラジン』について

アラジンと魔法のランプ - Wikipedia

千夜一夜物語』の『アラディンと魔法のランプ』を原案としたディズニー映画。あるいはその映画版から派生したミュージカル。ミュージカル版は日本国内において劇団四季によってロングラン上演中(汐留の四季劇場[海]にて、2018 年で 4 年目)。

映画版とミュージカル版の違い

相棒の猿が出てこない
  • 映画版でアラジンの相棒として登場する猿のアブーは、ミュージカル版でオミットされている。

    • 人間の言語で歌を歌えないキャラクターをミュージカルに出すのは、たとえ人間に演じさせるとしても劇団四季などの商業演劇では酷な試みだからに違いない。

    • 代わりに血の気の多いカシーム(イメージカラーは赤)、ナイーブなオマール(青)、食いしん坊のバブカック(緑)、の少年 3 人組がアラジンの友人として登場し、ランプの魔神ジーニーとは異なる側面から主人公アラジンをバックアップする。

    • アブーは厳密にいうとファンサービス的に出てくるシーンがある。

      • アラジンが魔法のランプの力で架空の国の王に転生し、王女ジャスミンの宮殿に一団を引き連れてくるときに、献上物としてアルビノの猿 95 匹が連れられてくるが、その猿たちの風貌が白くなったアブーそのものの風采。
悪いオウムが出てこない
  • ヴィラン陣営側の動物であるオウムのイアーゴもミュージカル版にはいない。

    • こちらはオウムと同名の配下として擬人化されており、ミュージカル版ではれっきとした人間。上役ジャファーの言葉を復唱する癖があり、「お前はオウムか!」と罵られるシーンが存在する。
アラジンの動機など
  • ミュージカル版では、亡き母に示しのつく息子でありたい、という設定が付加・強調されており、彼が泥棒まがいの生活をしている(た)ことに対する羞恥の心が、ジャスミンに対してみずからの出自を偽り続けてしまう原因になっている。

  • アラジンは乞食同然の生活という“束縛”からアメリカンドリーム的な“自由”を手に入れたく、一方ジャスミンは箱入り王女という“束縛”からの解放という“自由”を渇望している。この両者の動機づけ設定は、絨毯で空を飛ぶハイライト "A Whole New World" のサビの出だし部分(タイトルそのまま)が「自由さ/よ」という訳詞になっていることからも顕著である。

    • このように歌唱パートの翻訳は基本的に映画版と異なる。

    • ミュージカル版におけるこの“自由”という動機づけが、自由を求めるもうひとりの登場人物、ジーニーへのシンパシーとしてはたらくことで、最後の願い事をジーニー自身の解放に使ってあげるアラジンの行動の伏線として作用している。

羽賀研二が出てこない
  • ディズニー映画版を見ているはずなのに羽賀研二が出てこない場合は、2008 年以降の吹替リビジョンを鑑賞している可能性が高い。

    • 2004 年以前のリビジョンにおいては羽賀研二が出てくる。根強い人気があるようで、各種マーケットプレイスにおいては同リビジョンの DVD が高値で取引されているようだ1
アダム・ドライバーが出てこない
  • 出てくるのは SNL 版。

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総評

めちゃくちゃ面白かった。開演の瞬間からの大音響2、ド派手にアレンジされた冒頭の『アラビアン・ナイト』、セクシーに立ち回るアンサンブルのお兄さまお姉さま方、そして何よりも“狂言回し”ジーニー。ジーニーは明らかに固定ファン付いてる感じ3の盛り上がりで、しかしながらファンでなくても初見から老若男女の人心を掌握できる。子どもを屈託なく笑わせ、かつ飽きさせないペースで最後まで持っていくのは、本の構成も大事ではあるけれど役者の力量がないと成立しないだろう。もちろん大人が観ても楽しかった。

ミュージカルなんて…とか今更ディズニー…とか言っている場合ではない。汐留でジーニーとアラビアの夜が、あらゆる人間を待っている。ミュージカルみたいに。

日時

  • 開演 2018-08-14 18:00
  • 電通四季劇場[海]

  1. https://bonblo.com/aladdin_dvd/

  2. 生オケだったらもっと良かっただろう。

  3. キャストは誰だったのか失念。韓盛治?