公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『共骨』 / オフィス上の空プロデュース 演出: 松澤くれは

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「大きくなったらお母さんになってお父さんと結婚するんだ!」期に母親を喪った娘と、その娘の中で生き続ける母親と、成長していく娘に妻の面影を感じてだんだんと狂っていく父親と、を中心とした家族の話。

娘の中に「母親」が生じる要因として、母親の遺骨を食べるというシーンが冒頭に提示される。それ以降傍らで「母親」が、彼女を見守り、対話し、人生に干渉するようになる。親が子供を拡張身体化してしまってそれに子供が苦しむ、みたいな話とも少し位相がずれていて、家庭と学校が世界のすべてだった頃に親の死によって強制的に一部がフリーズされてしまったことで、逆に子どもの方から拡張身体化を自己規定してしまうみたいな側面がある。あらすじに書いてあるような、一面的に「望まれない人生」を押し付けられた、という解釈だけだと違和感が残る感じ。判断力が成熟する前とはいえ、娘の側から積極的に骨を食べている。

「骨を食べる」という行動がおそらく異常なものとして提示されているんだけど、これはいわゆるアニミズムというか、山本七平のいう「臨在感的把握」1そのものか。肉親の遺骨を食べるという行動で、骨というもはや生命は持ち合わせていない「物質」に対しての感情移入と一体化、客観的分析への拒絶がはじまる。自身の一部を外的化した「母親」は、本来の母親なら知っているような事実を知らないであろうことが、語り口からもわかる。それ以前に、劇中の娘のモノローグを「母親」が語るという特徴的な手法によって、「母親」が母親の真なる「霊」ではないことが始終提示されてもいる。あくまで倒錯の話。

冒頭の象徴的行動を「臨在感的把握」として相対化してしまうと、もうそこでサンドボックスが形成されてしまうので、芝居そのものには没入しづらくなる。前提が物凄く強くて、入れるかどうかは冒頭の「異常行動」をどう感じるか、規定するかであらかた決まってくるとも思う。あらすじにも、タイトルにもその強さはありありと出ている。観劇タイミング的には更に微妙で、まさに今、同じく山本の著した『聖書の常識』2を読んでいる。この本には、聖書の浸透する宗教界の世界観では、親も子も等しく各々が神と契約しているので、東アジアのように「罪九族に及ぶ」状態には至らない、といったことが書いてある。設定の強さは民俗的文化と強く結びつく。「個」の意識とその阻害、そして「臨在感的把握」。『共骨』の骨子が強烈にそれらに依拠している以上、なんかもう、しょうがない。そこでメタに把握してしまうというのが却って自己規定、可能性の制限な気はしていて、もうちょっと自分自身が芝居に入っていけるといいなとも思う。

逆に骨を食べるというシーンが無い場合、どうだろう。ツカミのインパクトは別として、テーマは成立するんじゃないだろうか。故人を内在化し、魂なき者に感情移入し、他者(?)の人生を生きてしまう人には普遍性がある。こういうテーマはこれまでも何本も観てきていて、特に「死者の人生を生きてはいけない」というテーマでは、屈指の芝居を数本観た。『共骨』の娘、美沙は不幸なことに死者の人生と生ける他者の(ための)人生、両方を体験せざるを得なくなっていたのが特徴的で、その不幸せを(まだ相対的に把握できないような年端だったとはいえ)自ら積極的に被りにいく行動を起こしてしまっているという点も含めて、より多層的な感覚はあったように思う。生きている他者の人生を生きるのと、死者の人生を生きるのと、どっちが質が悪いかみたいな比較が許される人生ではなかったし、取りに行ってしまう人間はどちらも取りに行ってしまうってことなんだ。

演出面では、想像以上に抽象的でスパースな舞台だったこともあって、特に主演の新垣里沙が支配する領域の膨張と伸縮がみてとれる(実際に可視なものではないけど)のが面白かった。舞台の空白が目立ちすぎる時間と、観客席まで含めて呑み込む瞬間とのメリハリ、コントラスト。

美沙の人生に所々で影響を及ぼしていた泰斗と奈々海が、スッとフェードアウトしてそれきり出てこなくなった気がするけど、そのへんの人間がどうでもよくなるほど最終的には自身の現在と未来を見つめることができるようになった、ってことなんだろうか。「母親」が見えなくなったのと同じように。でも最終的に結ばれたあの二人の世界が狭すぎる気がしていて。骨ではなく「血」が歪んでいる感じもあって(美沙と朝希って三親等では?)、アニミズムなんかよりももっと具体的な呪いを内包しているような気がしてならない、少し薄気味悪さも残す幕引き。