公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『美しく青く』 / 演出: 赤堀雅秋

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津波や害獣といった「人によらない」外的要因によってしか、人(個人でも群体においても)は、生活は、変わり得ないのか。いや、変わり得ないということを赤堀は 2 時間にわたって書き続けています。何も変わらない。何も起こらない。

それでも生きていく それでも生活は続いていく―――

フライヤーにおけるコピーがこれですから、ある意味、非常に親切だともいえる。


里山に降りてきた猿による、集落の食害。それを解決しようと結成される猟銃を持った自警団。いのちへの、自然への配慮が足りないと抵抗を見せるお年寄りの独善的判断による、駆除計画の頓挫。

その中でうねる、家庭の鬱憤を銃口に向ける男。里の“空気”に抵抗するようで、しかし最も流されるままに生きるワナビーな若者。過去の栄光を語り続けるテープレコーダーのようなおじさん。

裏に横たわる 8 年前の大災害。防潮堤の建設に関わるいざこざで変奏される、現実主義な労働者層と、自然・景観主義な熟年層との軋轢。板挟みに振り回され酒にしか捌け口を見出だせない役場の職員。居酒屋にすら張り巡らされている、狭い人のネットワーク。何を選択してもケチのつくその村から、東京へ自覚的に「逃げる」ことを懺悔する村娘。そして、8 年前の「あの日」をきっかけに娘と、母の認知機能とを喪い、介護に明け暮れる女。

各々が何かを変えたいと望み、それでも何も変わらない。強いて言えば、着実に村は、人は、老いていく。主体的に、前を向いて、何かをやっているつもりでも、本当の変化は常に“人”の外からしかやってこない上、それは“人”にとっては却って害を為すものなのである。喪うのが怖いか。折り合いをつけて生きていくことが怖いか。…折り合いなんて、なんにもついていないのではないか。

終盤、タモツ[演:向井理]の言葉をもって結実するアンチスノッビスム。「きた!!」と思っちゃう。これを観るために、聴くために、来ている。もはやブルースのようなもので、完全な予定調和だというのも分かっているのです。タモツの配偶者[田中麗奈]が部屋に掃除機をかけている最中に突然キッチンカウンターから包丁を取り出し、母親[銀粉蝶]の居室に歩みを向ける。一瞬緊張の走るシーンでさえ次の瞬間には、「これは赤堀の芝居だから、彼女はその居室の襖を開けることはない」ことがオンタイムで分かるんです。本当に。でもそれを、それこそを観に来ているので。

銃殺しようとした猿が拝むようにこちらを見ていた――― 自分で引き金を引けなかった理由をそう懺悔するタモツを心底から嫌悪するマサル大東駿介]。しかし、その直前の「観念したかのように」動かなくなった猿をそう形容するマサルは、タモツとそう遠くはない「人間側の人間」なんだろうね。


折り合いも“主体”もくそくらえで、大事なのは自分が何をしたいか、それに覚悟と行動を伴えるか。ここ一年はそれを「実践する/した」人々が主役の芝居を少なくない数、観てきた気がします。その真逆のような、何をしなくとも続いていく生活を見せられて、それでも登場人物を圧し潰さんとする、根底にある過冷却されたような抑圧・焦燥、それが訴えかけるものは同じなのでは。

大倉孝二の大立ち回りだけが“演劇の”救いだったかもしれない。あとは所々で、本当に目に見えて苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった気がする。

村のような“地方”に、ホームレスはいない。例えばそれをどう捉えるかの問題。それは「わたしにとって」セーフティネットであり得ますか?

澱んでいくだけの均衡を、せめて自分の手の届く範囲だけでも掻き回すために。