『掬う』 / □字ック
口ではなんとでも言える
何かが完全に巻き戻ってしまった感じがある。剥がれた、といった方が近いか。
剥がされて出てくる自分のぞうもつを鏡で見ている、見せられている感じ、とはいってもあまねく臓器が完全に劇中で具現化されているわけではない。もちろん作家もはじめから全て語るつもりなんてないだろうし、切り売りというのは「切り」売りであって、全射的じゃない。表層に出ている言葉の裏だけでなく、全く芝居の上に出てこない部分 ―― 語られない部分、テキストに出てこない部分。たちは悪いけど「何を語っていないか」を分析にかければ、案外簡単に結果がアウトプットされ得る世の中だし、本質は「言外」のさらに外の部分に、無に、空に。
そして、自意識という外装を張り付けて、気高く生きていきましょうって行って、その裏で見ないようにしていたものが「空」からうつつへ噴出してくる瞬間が。というよりは、初めから雨漏りみたいに滲んでて、自分から他人から、結局その滴りは見えていて、掬われる瞬間を待っているのか。
仕事
言外。瑞江がパソコンに入力している文章は全てが明らかにはならない。
作家の仕事で書く文章ではないのではないかという指摘がなされる。そのタイピングが「本音」だからだろうか。最も言葉を意識的なツールとして操ることのできるはずの人種である文筆家は、言葉の使い方を知っているからこそ何を残すべきではないかわかっているとでもいうように。すべてが制御下にあるとでもいうように。
書き物は、残る。日記ですら。そこから記憶情報を再構築するために最低限何を残しておくべきか、何は書かなくても想起しなおせるか。本当に「閉じる」と、残るのはトリガーだけ。言外は死ぬまであたまの中に。
瑞江は今の職に就いてどのくらい経つのだろう。現職 ―― 作家としてドラマの脚本などを経験していることは語られる。「家族」には職業上の素性も知れている。極端に自己開示を拒んでいるようにも見える彼女が、その文章を世に出せてるなんてこと、ある?
では何を。虚ろな創作は、人にどう響く。
わかってほしいなんて馬鹿みたい
花音。この女子高生の言葉の操り方は、瑞江よりもよほど「それ」然としている気がする。感性と計算のバランス。大人びているように見える一方で、最も「言外」に対する拒絶に執着をみせる。家庭と学校に対して。
恒常的に取って代わる新しい感覚なのか、それともおとなになると喪われる性質として瑞江と並置されているのか。
庸介の「信じる」は、最後までどうも気色の悪い描かれ方をする。花音の「信じる」にはそれがない。瑞江も庸介も明らかにひとりの人間としての花音の言葉に頼る瞬間があるのだけれど、これは果たして成長に伴って喪失した神性に縋っているとでも?
本質
口を開けば他人の愚痴で、それが本音の曝け出しだとでもいうような、そんな人。でもそれ全部、他人の話。庸介の指摘する、当人の「本質」の無さ。実際にそういう愚痴の人に行き当たったときの、あるいは話が面白いと聞いていた人間に実際に会ってみたら全部ワイドショーとスポーツと同僚の「事実」のみを話しているに過ぎなかったときの、あの感覚。
これも愚痴か。
流れに身を任せる
「鳥」が要所要所で鳴く。長い尾を引く高い声の、慟哭のようにも聞こえる、瑞江にしか聞こえない音。夜に雨に、言外と無意識のはざまで鳴いているかのようなこの象徴が、ときおり一瞬では咀嚼できないタイミングで鳴くときがある。
流れに身を任せるという意見を耳にして反芻したとき。
あるいは、最後の最後の一哭き。
ラストシークエンス、男性性を象徴するような庸介の押し切り次第で結末が分岐する気がする。そこも含めて庸介がすごく気色悪いし、幕引きまでその違和感は消えることが無かった。演出の全体的な仕上がり方から考えれば、その違和感すらも演技に織り込まれているのかもしれないけど。ジェンダーのポテンシャルが駆動力になっているのだとは考えたくない。
「掬う」
「掬う」側にも精神力が要るというのが、よっこと瑞江の最後の対話にて示されるところがあんまりすぎる。呪いたくてぶち当てた真実が、対象が別のことで弱っていたタイミングゆえ変な通り方をして、自らの本当に通したかったダメージとは別の作用が起きてよくわからないことになっていく。
それが「いまから水を流すので手を出して掬ってください」ではだめだということなのだとすれば、庸介の最後の行動は「今から掬うので水を流してください」だという風にもとれる。ジェンダーポテンシャル以外の違和感はきっとこれだ。
でも、そうでもしないと水が澱んで腐っていく場合、そこまでやらないと人を掬い上げる事なんてできない。その、あと一歩を違和感なく引き出したい場合、あるいは踏み出したい場合、どうすべきなんだろう。
とにかく主演の佐津川愛美が凄い。創作で人を傷つけることができるというのは本当に凄いことで、ギリギリのところで ―― あるいは内面には充分なほどの余裕を持っていて、虚構の側に留まっているからこそだと思う。俯瞰の介在する憑依。これは作家にもいえて、彼(女)らには、筆や演技の私物化ではたどり着くことのできない冷静な絶頂の伴っている感じがする。
このアンチ独り善がりな感覚がきっと、タイトル ―― 「掬う」であって「救う」ではない、にも現れている創作の方向性。だから受け手側も立ち向かうというより寄り添うように観られればそれでいいのかというと、おそらくそこは創作で人生が変わるというのが与える側にとっても受ける側にとっても本望であるべきな気はしていて、ただ面と向かい受けた自分に起きたのがある種の「後退」作用に思えるのが …… いや多分もともと前進なんかなかったんだろうな、そこには。
いいなあ。何であろうと、瑞江は書ける言葉を持っていて。そのうえちゃんと叫べて、最後には泣けて。いいな。