公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『遭難、』 / 劇団ホワイトチョコが好き。

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今年は本谷有希子を攻めようと思っています。

昨年末に映画版公開に合わせて『生きてるだけで、愛。』を読んだところ、これが非常に良くて、映画版は観なくていいなと思って観にいかなくなった1くらい良かったので、その流れで今年は彼女の小説だけでも読み散らかそうと。

くわえて、どうも最近は劇作家・演出家としての本谷、あるいは「劇団、本谷有希子」に再始動の気配が見え隠れしているので、とても楽しみにしているのです2

そのウォーミングアップというべきか、本人の演出でなくても良いので何か観ておきたいと探してみたら、今年の初頭に 2 つほど『遭難、』を上演する劇団があったので、そのうちのひとつを観た次第。

観た、

何だこのこじらせは。

物語は里見という教師の「トラウマ」のために回ります。それこそ、この里見という女にとって世界は、自分を中心に回っている。否、回っていなければならない。その為になら、彼女はあらゆる手を尽くしてでも軸を自らに引きつけようとします。

里見は、自分がそのような自己愛人間になってしまったのは、中学生時代の自己の自殺未遂にかかわるトラウマが原因だと主張します。話が進んでいくうちにその内実が明らかになりそうになり、彼女はその歪んだ自己愛を死守するためにトラウマを作った、というよりも「『トラウマになった』という結果」を手に入れるために自殺未遂をはじめとした「原因」をプロデュースしたのではないか、という仮説に他の登場人物たちは辿りつかんとする。

「今の私がこうなってしまっている」結果のために「トラウマという原因」を欲する里見と、「トラウマになった」という結果を欲したために「自殺未遂という原因」を欲した里見との入れ子構造。“こじらせ”がここまで具体的にこじれてる芝居は初めて観た…

終盤、自分大好き里見先生のアイデンティティの根幹、すなわちトラウマの骨格が実はかなり危うく「彼女の主張するトラウマなんて実は無かったのではないか」と考え、蔑視を始めた同僚たちに対して彼女がしがみつきながら発する台詞、

「私から原因取らないで」

が本当に気持ち悪くて、防衛機制か、にやけてしまいました。

劇中「トラウマ」とは呼ばれませんが、生来の気質にかかわる性格の“よじれ”や、それにより短期的に生じる“弱み”を、登場人物 5 人のうち大半が持っている。それらはむしろ一般的、普遍的に誰しもが持ちうるものです。結局そういった弱み・暗部、より一般化して「人の気持ち」を、他人が知りえるわけがない、すなわち「あんた達に私のこの気持ちが分かってたまるか」と、当初はトラウマの存在を振りかざし声高に主張していた里見。しかし彼女のそれが、攻撃に転用するために作られた虚構であり、実は大したことがないことが判明した瞬間、その主張のベクトルは反転し他の 4 人から里見へ向けられた詰りの応酬へと化けるなど、「遭難」は混迷を極めていきます。里見が大いに事態を延焼させたとはいえ、今回の「遭難」のトリガーはむしろ仁科の母親の虐待や、教え子と関係を持つ不破にあると言えますし、必ずしも里見は事態の支配者ではないのです。教え子である尾崎の予定外の失踪によって事態のコントロールが効かなくなった彼女の狼狽は、アイデンティティの崩壊へとつながっていくわけですから。

前述した“入れ子”、論理・主張の“ベクトル反転”、そして、どういうわけか引かれ合ってしまう不幸の“連鎖”。これらの構造が絡み合った先、各個人あるいは 5 人という集団の遭難と、里見のトラウマ(の克服)とが収束する先は…あそこで学校という舞台設定の機能が最大限に発揮されるトリックには、本谷の小説の展開に通じるカタルシスがありました。技術的には、であって、心情は全くスッキリしませんが…。

あと最後の欠伸ね。欠伸ひとつでオチがつく。笑っちゃいました。この、三つ子の魂なんとやら的な、あるいは今日も儲からなかったねチャンチャン的な片づけ方は、本谷の小説『自分を好きになる方法』のラスト数ページを思い出します。『遭難、』とは雰囲気の異なる、もう少し見守りたくなるような女の子(?)が出てくるその作品と、このどう考えても関わりたくない女の出てくる『遭難、』とで、提示する結末が非常に近かったのは興味深くありました。

また、このようなテーマをこじらせ「女」に帰納させるべきではない、ということを、本谷自身による再演版(2012 年)での里見が、男性による女装でキャスティングされた事実が示してもいるのかも3、と。あるいは、自己愛に容姿などの外面は関係がない、か。

だって、みんな持ってるでしょ、自意識。里見のことを気持ち悪いと思っても、心の底から叩ける人間なんて、きっといないでしょう。それができるのだとしたら、やはり自己を嘘で塗り固めた里見のような人間でしかないはずです、その人は。

誰にも自意識が必要だと最近は特に思っています。無いようだと死んでいるも同然なので。でも、自意識「過剰」が良いと言っているわけではありません。里見はこじれにこじれた過剰にも程が有る自意識を振り回し、時には引っ込め、周りの人間を不要な不幸、それこそ「遭難」に追い込みました。私が享受したい自意識は、他人を幸せにする自意識なので。他人を不幸にする自意識はだめ。推しのインスタは前者の宝庫です。尊いですね。皆さんも自意識で尊くなっていきましょうね。

とにかく、これまで「こじらせ系」だと思っていた芝居の大半が消し飛ぶほど、その人物造形や動機、言行、すべてがぶっ飛んでいました。しかも教師ときた。まあ、教師も人間ですけど、、、

ところで、地方の市民劇団による公演を、初めて観たかもしれません。これまでは地方公演といえども、それこそ東京公演がメインの劇団がツアーで回っているようなものばかりを観てきたからです。「ホワチョコ」は前回、蓬莱竜太『まほろば』を上演した4とのことで、ピックアップの趣味は非常に近いなと思いました。これからも良いと思った芝居をどんどん上演して欲しいです。戯曲には戯曲の、すなわち素材の良さというものは当然あれど、やはり読むのではなく観ないと、その良さは出てこない、役者を通さないと完成しない、と思っているからです。そういった良い戯曲を上演する機会を提供している劇団というのは、やはりどのような規模であれ、有難いなと。

ただ、緊張感高まる 2 幕で台詞のトチりが急速に増えてしまっていたのは、ちょっと勿体無かった5

情報、

日時
  • 開演 2019-02-10 16:00
  • 於 やまなしプラザ オープンスクエア

  1. 行けよ。

  2. 芝居を観にいくようになったのは 2014 年であり、「劇団、本谷有希子」の直近の公演は 2013 年なので、ちょうど入れ違いのようにして彼女の演劇活動は止まっている。

  3. 当初は再演版でも女性をキャスティングしていたが、当該女優の急病による降板で代役に抜擢されたのが男性だったという流れがある。

  4. さすがに長崎弁で演ってはなさそう。

  5. 休憩入れちゃったからかな。

  6. 教師石原として、出演も兼ねる。