公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『レミング ~世界の涯まで連れてって~』 / パルコ・プロデュース 演出: 松本雄吉(維新派)

音楽劇「レミング〜世界の涯まで連れてって〜」 | 北九州芸術劇場www.kitakyushu-performingartscenter.or.jp

  • 2015 年は、寺山修司生誕 80 周年。その企画のうちのひとつ。

  • タップダンス的な 8 小節のリズムモチーフが存在し、道行く通行人を演じる黒子たちが場面転換となる要所要所にて、交錯する雑踏を描き出しながら足だけは一斉に靴を鳴らす。

    • ザッーダダダッダッダッダッー、ザッーダッダッダッー、ザッーザラダダッーッダッダッー、ッダッダッダッーダダッ。

      • うろ憶え。
  • 進行は「ヂャンヂャン☆オペラ」と呼ばれる手法に則っておこなわれる。

    • 主要な台詞は 7 拍子の変則ビートに乗るよう整形され、そのビートの上で役者たちは軽妙に掛け合いを重ねていく。

    • 維新派におけるスタンダードな表現スタイルとのこと。

  • 二人のコック見習い、タロ[演:溝端淳平]とジロ[柄本時生]が住んでいる下宿の壁が崩壊して、隣の部屋とつながってしまい、大家に直してもらいに行く。

    • この、青年の部屋の壁に穴が開く、という導入からは異世界への入り口とそこからの冒険劇のような物語性を期待してしまう。その後の展開は…

      • 無くなった壁の向こうから流れ込んでくるのは、精神病院の一風景、毀れた大女優が演じる映画の撮影シーン、といったタロとジロには関係ない外部の、かつとりとめのない都市世界。下宿部屋に唯一残った畳、その床下でタロの母親[麿赤兒]が畑を耕しているという現も曖昧になっていって、夢と現が完全に混濁した矢先に舞台が暗転して芝居が終わっていた。2 時間が短い。
  • 壁の崩壊による夢現の混濁と、それに翻弄される人間の困惑、というぼやっとしたテーマしか汲み取れなかった。

    • 鑑賞後に必死になって考察を漁ったところ、寺山自身の解題は「壁の消失によってあばかれる内面の神話の虚構性の検証1」にあったようだ。

      • 赤点かな。難しいな?
    • 考察を漁っていく中で第三舞台『ハッシャ・バイ』と似ているという感想2もみた。確かに夢現の混同、繋がりのないような断片的なストーリーライン、翻弄される男達、といったモチーフに共通点はみられる。

      • 一方で、『ハッシャ・バイ』には探偵事務所への依頼~ひとまずの事件解決という話の起承転結が存在し、ラストの群唱で一種のタネ明かしもされてはいるが、『レミング』にはそれらがない。このため、つかみどころのなさ、特にラストシーンでの置いていかれかたでは、『レミング』は『ハッシャ・バイ』の追随を許さない。

      • この寺山世界観が、維新派の変則ビートに乗っかって絶え間なく飛んでくるわけである。ラストシーンの美術効果も相まって、最後はとんでもないところへ連れていかれる。

  • ラストシーンに用いられる紙吹雪。おそらく銀紙で作られたその吹雪は、照明をランダムな周期で反射する。このとき、舞台の手前(客席側)であるほどフレームレートが落ちるような錯視の効果が現れて、奥行きに対して時間がずれていくような感覚が、混濁の感覚を極限まで押し上げていた。

    • 紙吹雪にこういう効果があるとは気づかなかったし、もちろん初めて体験した。恰好が良かった。
  • 音楽、ギタリストのおじさんが舞台下にひとりすわっていて、ギターの生演奏と同時にトラックの同期もやっていたように見えた。

    • この方が内橋和久だと思う。今回の「ヂャンヂャン☆オペラ」を根幹から作り上げた立役者。
  • 鑑賞後に思うこととしては、翻訳劇を観た感触に似ている。 時空の旅版『ゴドーを待ちながら』 が奇怪な崩しのアプローチでストレートプレイのテンポを変容させていたのに似ているからだと思うのだけど、『レミング』も同じように、別の演出で観てみたいと思った。

  • 秋月三佳が通行人役で出演していたのを確認。

  • 寺山修司

  • 演出 松本雄吉(維新派

  • 2015-12-27 13:00

  • 北九州芸術劇場 大ホール