『消失』 / ナイロン100℃ 43rd SESSION
27th SESSION(2004 年)の再演。
- 「再演を望む声が最も多かった」とのことだが、この救いのなさが観客を虜にしたのだとすれば、罪な戯曲だ。
消失 - Wikipediaja.wikipedia.org
Wikipedia にも記載があるように第二の月という宇宙ステーション1、新たな世界大戦、などの近未来 SF チックな舞台設定が敷かれている。
シチュエーションとしては 30 代のさえない男女の関係を想定していそうなプロットであるが、(少なくとも今回の再演では)登場人物がだいたい 40 代。
11 年前の戯曲をオリジナルキャストで再演したものなので、おそらく役者の年齢相応に役の年齢設定も上げたのだろうと考えられる。
- どうやら本当に年齢設定は引き上げられているらしい2。
この不相応な年齢設定はまた意地が悪く、ただでさえ暗い戯曲の悲壮感を増幅する。
オープニングとエンディングに The Turtles の『Happy Together』という曲がかかるが、戯曲の内容はこの詞をいくつかの方向に伸張したようなものになっているように思える。複数回の引用から考えても、紐づけは明確に意識しているはず。
曲中の「ぼく」は、まるで弟 スタン[演:みのすけ]のことを気にかける兄 チャズ[大倉孝二]のようで、チャズの考えるどこまでも続いてほしい兄弟 2 人の(疑似)家族生活の夢想が、歌に仮託されているように聴こえる。「ぼく」の「きみ」への愛(?)は独善を通り越してもはや気色が悪いし3、チャズがスタンにやっていること(それこそ今のスタンを形成するに至るまでの、ほぼ全て)が、恐ろしいまでの独善に基づいた悪魔の所業であることも、二幕に入った瞬間から具象を剥いて飛びかかってくる。オープニングで流れていた前後の、どこか微笑ましい兄弟愛のような印象はそこで完全に吹き飛んで、再びエンディングでリプライズされるときにはぼんやりと、表意の反転を反芻する具合になる。
あるいはスタンの、スワンレイク[犬山イヌコ]への恋慕とのシンクロのような?
- 二幕に入るまでは!…
舞台設定においてアンドロイド(?)が人間とパートナーになれるのかどうかという技術的/倫理的価値観は明示されていないが、定期メンテナンスの必要性が、少なくともドーネン[三宅弘城]の技術力不足を物語ってはいるし、世間的な倫理観はともかく、チャズの感情がそれ(結婚)を許すはずもない。つまりスタンを“建造”した時点で逃れられない、(あらゆる意味での)破局だったわけで。そして、記憶まで操作できてしまうアンドロイド(?)の、いったいどこに愛着を持ち、何から承認を得て、どのように他者として慈しめるのかが理解できなくて、とても気持ち悪い。
- 他者の幸せを願うという際、少し4情が移ってしまっていて、その人が本当に幸せになろうとしたときに嫉妬とも何ともつかない感情が湧く、といった機微を異性ではなく同性、しかも兄弟という対象で描いているのが戯画的でありつつも、本当にきつい。
ドーネンが毀れていく様子がドライに怖かった。兄弟愛が何を乗り越えようが、メンテナがああなってしまっては、遅かれ早かれ何もかも駄目になる。それ以上にきつかったのはネハムキン[松永玲子]の、最後の泥を啜るような嗚咽だけど。
- 女性がああいう哭きかたをしているときはまじでやばい。
最後のスタンの台詞「鳥が、鳴いた」は、始まった戦争の、毒ガス攻撃の暗示かなと思った。スタンは普通の人々のように死ぬことができるのだろうか。