公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『昼下がりの思春期たちは漂う狼のようだ』 / アンカル

www.geigeki.jp

「学生時代に戻りたい」という想いの背景には、いかなる含みがあるのだろう。時間を遡行したいという希求に囚われるとき、遡行願望ゆえの(現在の)記憶の保持と過去の「リプレイ」、あるいは過ぎしタイムラインの改変願望も前提として織り込まれている可能性はないか。だとすれば、事実上不可能なその遡行/改変願望に対しては、学生生活を題材とした創作が、最も近い欲求昇華の機能を果たすのかもしれない。

その場合、役者が等身大でない方がむしろ鑑賞者の感傷を増幅しうる可能性に思いを馳せる。今回のように 10 年後から振り返るようにリプレイされる芝居において、あの頃中学生だった自分たちをを 20 代半ばを中心とした座組が演じることが、学生演劇の瑞々しさとは大きく性質を異にする役者たち自身のノスタルジーの、所々に入り込む余地を生むのではないかといったような。ターニングポイントの確信。衝動への後悔。あの頃の自分への問いかけ。演者に内在化されたそういったエネルギーをエチュードによって抽出していき、多層的な青春群像劇としてまとめ上げたのが本作初演だったのではないかと思う。

…見逃したことを些か後悔した演劇引力廣島の演目が、まさか再演されるとは思わなかった。それは座組の持つエネルギーの奔流を、その期間に限って固定する手法としての作劇だったらしいと知っていたからで、なかなかそのような一回性の演劇を再演するということ自体、成立しにくいと思い込んでいたから。そういった文脈の作品をタイトル・役名(役名は一部を除いて初演の役者の名前をそのまま使っており、再演においても初演の役名が引き継がれている)そのままに再演していることからも、今回は初演とは異なる「他者発のエチュードのトレース」が上演テーマのひとつになっていたような匂いがある。一部の役者は初演と同じとはいえ、それでも多くが「他者によって咀嚼されてゆく初演の少年少女たち」であるという構造は、やはり青春の追体験という側面を強めるのだろうか。

この再演を成立せしめたのは、2 年弱の中で喪われた数多の上演芸術と、それらを内々に蓄積し続けた役者たちのあてどなかったエネルギーであったのかもしれないし、あるいはエチュードから作り上げていくような堅実に寄り添えるワークショップを、未だに開催しづらい稽古事情の関係かもしれない。いずれにせよ、今だからこそ触れたくなるような空気感をもって少女「ゲン」と共に、それは広島からやってきた。恨(ハン)に根ざしているのであろうソジンと彼女の母の行動は、初演のソジンの役者である李そじんや彼女の所属する劇団である東京デスロック多田淳之介の持つエッセンシャルな部分を受け継いでるのではないかとも感じることができるけれども、 『母と惑星について』『まほろば』 に見え隠れする蓬莱自身の家庭/母親像ともオーバーラップする。荒涼とした、それでいて湿度もある陰。このあたりの心的なテンションは昨年の 『外地の三人姉妹』 だけでなく、偶然か必然か今年復刊した柳美里『8 月の果て1』ともリンクする。ノードが大して離れていないからなのか、あるいは心象はこのようにシンクロするものなのか。繰り返すが、本作は成り立ちを考えればその場限りの上演となっていたであろう作品の再演に見て取れるのに、だ。


  • 出演(太字は初演からの続投)
    • 天瀬はつひ
    • 安齋彩音
    • 池ノ上美晴
    • 伊藤麗
    • 伊藤ナツキ
    • 榎本純
    • 江原パジャマ
    • 大河原恵
    • 大西遵
    • 小口隼也
    • 笠原崇志
    • 蒲野紳之助
    • 堺小春
    • 田原靖子
    • 中野克馬
    • 名村辰
    • 南川泰規
    • ばばゆりな
    • 藤松祥子
    • 益田恭平
    • 瑞生桜子
    • 森カンナ
    • 山岸健太
    • 山田綾音
    • 山中志歩
    • 山西貴大
    • 吉岡あきこ

『ヒッキー・カンクーントルネード (2010)』 / ハイバイ

natalie.mu


現在上演中の最新再演版を観にいこうとチケットも取っていたが、昨今の状況があまりにも悪かったので代わりに(というのもなんだが) Prime Video で配信中の 2010 年版 を観た。

「あいうえ」

後半の圭一と綾との会話に出てくる単語。意味するものやそこに当たっている字については台本が手元にないから分からないけれど、登美男への思いやりのつもりだった「愛」に対して常に自分が必要とされているという見返りを期待していたのではないか、という綾の告白の内容から考えるに「愛飢え」「愛餓え」あたりなのだろうと思う。10 年前といえばまだ承認欲求という言葉も広く定着しきっていないような時期1で、もしかすると昨今の再演では承認欲求のような、より親しみのある言葉に翻訳されているのかもしれない。厳密にはベクトルとその作用の順が「あいうえ」と承認欲求とでは異なる気がするのと、前後の言葉の関係や韻のニュアンスまでを含めると、分かりやすい言葉が出てきたとしてもなおここは「あいうえ」であるべきなのかもしれない。

韓国での上演時には韓国で「引きこもり」という観念に対応する言葉が無かった2らしいという話もそうで、戯曲自体が「今まさに古典にな」ろうとしている中で、時世の変化に敏感なこういった部分がどう変容していくかを追うことも再演の醍醐味のひとつだろう。だからこそ、できる事なら今回のバージョンを見たかったところではあるのだが。

圭一は何者なのか

過剰適応症「飛びこもり」の患者にして実験体、といった設定がどこまで(劇中の)真実なのか、みたいな点は気になった。圭一の行動をトレースするに、過剰適応であること自体はおそらく事実。団体によって実験対象にされているのかどうかについては、黒木が圭一を連れ戻そうとしているときの会話における前提(「4028 番」「部屋でまだ実験が残っている」)そのものに対する否定を圭一はしていないことから、少なくともそういった設定が彼に刷り込まれている(これも圭一の過剰適応の一側面かもしれない)ところまでは読み取れる。が、これだけでは事実性と、そのように刷り込んでいる出張お兄さん/お姉さん側の目的が分からない。それもこれも黒木が最後まで何者なのかよく分からない演出になっているからで、これに関しては演じているチャン・リーメイの表情のつき方が悉く秀逸。

  • 「お買い物療法」に飛びこもりの楽園をみた圭一が、出張お兄さんという属性を使えばどこへでも飛びこもれるうまみを知り、本物の出張スタッフがいない隙に正規スタッフを装って登美男の母と面会した
  • 正規スタッフたちは圭一の行動を制御するために、突拍子もない設定をいくつかでっち上げている

といった線が妥当だろうか。

どう「古典にな」ろうとしていたのか、あるいは「し」ようとしていたのか

ステイホームということばの下に家から出ないという選択的行動が正当化・推奨され始めた、いわゆる「第 1 次緊急事態宣言」。その布令下に公演延期が決定されたのち、一年越しに上演にこぎつけたのが今回 2021 年版の再演である。初回の宣言解除という出口に人々が夢みた再び外に出ることのできる世界像は、本作のラストで観客が登美男にみる希望と非常に近いものを持っていたのかもしれない。宣言下で巣ごもりを余儀なくされた多くの「引きこもり」たちに、何らかのより普遍的な意味を持ってラストシーンは響くであろうことは予想できる。

一年の順延を経てもなお、この芝居の持つその精神性は喪われないはずだった。少なくとも公演の振替日程が決定したころまでは。しかし、感染第 5 波の急速な拡大と上演日程とが運が悪いにも程があるタイミングで重なり、「それでも我々は外に出るべきではないのか」という芝居のテーマと、今「外に出る」選択するという行為が招きうる結果との間に大きな乖離が生まれかねないという非常に歪な構造の中、上演は決行されることになってしまった。

少なくともしばらくの間、人々はステイホームを忘れることはないだろう。引きこもりを描いた作品もこれを機に古いものになるかもしれない。ただ、どのように古典化できるかという過程と文脈は作り手には制御できないし、するべきでもない。それは多くの場合、受け手によって決まっていくことが多いのかもしれないが、図らずも今回のそれはウイルスによって決まるとでもいったような様相を呈している。そんな中で上演が決行されることによって引き起こされかねない副作用というものが、きっとある。

最終的に人々は外を向かなければならないが、それでも今はそのような時期ではないということ。あまりにも展開が劇的で、しかもそれらがオリンピック開催まわりの政治判断によって曖昧になってしまったという背景もあれど、その政治判断に際して問題視されたものと同じことを結局、上演芸術もずるずるとしてしまってはいないか。あまりにも酷いタイミングになったという側面はあれど、今まさに変質しようとしている観念を扱う作品の作り手として、もう少し別の手段も模索できる可能性は無かったのかという思いを、引きこもることを選択した側の視点から馳せてみる。この考えもしかしながら、作り手ではない=「レスラーじゃない」人間による、多数の人々が関わる興行というものへの思慮が充分に足りているとは決していえない視点であろうことも、忘れてはいけないのだと思う。


「ヒッキー・カンクーントルネード」の旅 2010

作・演出 岩井秀人

『夜会行』 / 鵺的

spice.eplus.jp

万人に観る準備ができているようなテーマではない、というと語弊があるかもしれないけれど、そこまで世界が進んでいないからこそ今、2021 年という劇中設定1で本作が上演されているということに違いはない。かつ、準備ができているのと鑑賞前後で価値観に変化が加わるのとは全く独立の事象で、後者は実現され得ないのではないかという気もする。あくまで予てから内在化されていた価値観を漸く意識的に視ることになるか、既に意識はしているものをわかりやすい形で咀嚼する機会を与えられたか、程度にとどまるのではないかと。

というのも、鑑賞した後に会場の外にて、きっと変わらなかったであろう人々の会話を聞いてしまったからだ。劇団が従前より使ってきた演出ほかの技法が今回でてこなかったことに関して茶化しともお道化とも取れるような斜からコメントすることが作法2とでもいうような、その解けない呪いのような語り方が、慎重で真摯な考えを積み上げて作られたであろうこの創作の意図していたものを見ないようにしてしまっているように思えた。視線を逸らすという積み重ねが「空気」となって彼女らをああさせざるを得ない状況を作り出しているのではないかということに、あそこまで記号化された「電話の声」という人物を作中に出すということを以ってしてもなお、気づかないことがある。

というわけで「電話の声」の話もしてみる。自分の(元)交際者が現在、同性と付き合っていると分かった瞬間に「ゲイの友達がいてレズビアンにも理解がある」ロールに翻る過程が、ある種の失笑を呼ぶほどの(実際その役回りを作中で笑里が引き受けている)情けなさで描かれるわけだけれど、この危うさを一言で表すなら「価値観のアップデート」ではないだろうか。価値は外からパッケージのようにやってきて自分にインストールされるものとでもいったような、その無責任さがこのことばに集約されはしないか。とらえどころのない外部化された責任所在が「空気」で、それが現在のマイノリティを取り巻くものの実体なのだとしたら、冒頭で言及したように鑑賞前後で価値観に変化が加わるというのは本質的に実現され得ないどころか、仮に実現された場合、その変化は却って「空気」の強化に加担しかねない。そのくらいきつく警告を発していたような気がする。当然、作り手には受け手らの感受性にレンジが存在することもわかっているはずで、だとすると外で聴こえてきたようなあの会話も須く上演の延長に配置される…されてしまうのではないか。ある意味で、舞台上でわかりやすく描写される暴力表現なんかよりもよほど沈鬱とした後味を引き出すことを選んだのではないかと疑ってしまうほど、本編での演出は(湿ってはいながらも)静謐さを湛えていた。

作中ではその役回りの大部分を遼子が引き受けていたように、マジョリティがマイノリティを攻撃するようなことがあってはならないのと等しくマイノリティがマジョリティを、あるいは異なるマイノリティを裁くようなことがあってもならない3…ここがしっかりと描かれていたことで芝居が立っていたような感覚があった。座組が決してマイノリティだけで構成されていないことこそが真摯さの証明(それどころか居たのかどうかさえ判然としない)。福祉課の窓口に立つ人間がそこを訪ねる人間と完全に同質の境遇であってはどうしようもないことも、差別的な価値基準とは別にどうにもならない身体的区別が存在すること(廣川と理子の間に如何とも埋めがたい身長差があったのがギミックとして効いている場面があった)も、どれも生々しかった。

  • 作 高木登(鵺的)
  • 演出 寺十吾(tsumazuki no ishi)
  • 出演
    • 青山祥子(贅沢貧乏)
    • 奥野亮子(鵺的)
    • 笠島
    • ハマカワフミエ
    • 福永マリカ
  • 開演 2021-07-05 19:00
  • 於 サンモールスタジオ

  1. 作中では 30 代にもワクチン接種がある程度は行き渡っている。執筆当時に考えることのできた 2021 年像と言えるが、現実にこれはもう少し先の話になるかもしれない。

  2. もちろんこれは演劇であるので、そういった技術の話は為されるべきである。ただし願わくば別の切り口から。

  3. 趣味の話題とは言えこれを(おそらく)無自覚できつくやられたことがあり、当人と知人の関係であることをあきらめたことがある。

『外地の三人姉妹』 / KAAT×東京デスロック

deathlock.specters.net

今年は韓国発の表現に足を踏み入れた年だった。演劇を思うように観られなくなって音楽に対する揺り戻しが来たときに、どのような経路をたどるにせよ K-POP を聴くことになるのだろうという漠然とした予感が先ずあった。その予感が現実に近づきつつある頃に演劇の側から『愛の不時着』に対する絶賛の評が舞い込んできて、飛びついたところ見事に持っていかれた。流れで NIZI Project を観てからは、もう彼の文化が生活の中に入り込んでいるといっていい。彼らの創作におけるある種のかがやきのようなものには、思えば年始に『パラサイト』を鑑賞したときから中てられていたという気がするし、漠然とした K-POP への予感もそこに端を発していたといえる。ということは、本作の鑑賞は年頭からまるまる一年かけた韓国カルチャー行脚の総括になるのだろうか。

もともと本作を観ようと思ったのは(もちろん韓国の取材を意識しなかったとは言わないが)どちらかというとチェーホフの文脈で、昨今の状況もあり遅れに遅れたチェーホフ演劇鑑賞実績を、完全ではないにせよ解除するという目的があった。というわけでこの『外地の三人姉妹』、舞台設定は第二次世界大戦前後の日本統治下の朝鮮に組み替えられているが、下地はほぼ完全にチェーホフ『三人姉妹』を踏襲している。では、そのようなテーマの借用でナショナリズムに関する表現が成立する場合、〇〇(国名)カルチャーというのは一体なんなんだろうか?ということでもある。『ライトアップ・ザ・スカイ』で BLACKPINK のプロデューサーが似たようなことを言ってもいる。『韓国語で歌っているからそう呼ばれるのだろうか?「K-POP」とは一体なんだ?』と。

だから、この芝居を単純に日韓で語ること自体は微妙な向きがある。国名ないし土地の舞台設定でラッピングしてしまえばそのように見えてしまうこと、原作がロシア戯曲であることを忘れてしまうというポイントがこの芝居の面白さであることは間違いない一方で、仕組まれた罠にも似ている。言語によって隔絶された文化、あるいは文化によって隔絶された言語、によって醸成される社会群とその多様性は意識しながら『三人姉妹』のトレースであることを踏まえる。そのうえで外地入植者の内地「東京」への慕情、帰京への思いをパースすると、当時のとある階級、とある特殊な立ち位置からすればこれは普遍的な現実だったのだろう。見えてくるのはこの帰京という言葉とは対照的であるものの、上京になぞらえると現在でも散見される感情である。生まれ育った土地を離れて上京するという選択、文化や社会の基盤が異なる土壌への転進に際して「帰る場所があるからがんばれる」という言葉を聞くことがあるのだけれど、その帰る場所というのがまさに本作における内地、原作におけるモスクワだとすると、ひとはいかに実際は後ろ盾にもなんにもなっていないものを依りどころとして生きているのだろう。

全体を取り巻く不安、秩序の喪失、ロールモデルのリセット。コロナ禍でますます浮き上がってきたこれらは、すべて戦時に似ているのだと思う。その中で前を向いて生きること。「前ってどっち?」…たしかに必要なその前を向くということに対して劇中、出征する婚約者を同僚で「あるはずの」日本軍関係者に斬殺されてしまった三女が慟哭とともに問う。それに対する長女の返答が「皆が向いている方でしょう?」と同じく涙ながらに応えるのだけれど、皆が前進していったその先、結末を我々は知っている。このくだりから始まる原作にはない展開、特に『三人姉妹』にはない(あるいは限りなく薄められている)ナショナリティの混在が強く現れるのがラストシーンで、三幕にて開いた床の大穴に日本人たちが消えていったあと、開場時から無造作に置かれていた赤銅色に煤けた小道具たちを残った朝鮮の人びとがその穴に仕舞っていく。そしてユニット床で完全に蓋をしてしまうのではなく、舞台装置に使っていた純白のスクリーンを不完全に上に被せることで「片付け」終える。

静謐さの後ろに流れる感情を隠しはしないこの演出が匂わせるように、日韓関係において完全に片付けることは難しいであろう何かが存在はする。それが尾を引いているからなのか、あるいは別の観点(例えば配給側の的を得ないことこの上ない「韓流」コマーシャルなど)からなのか、「韓国カルチャーだから、観ない」という選択をしてしまっている人も少なくない。人間である以上、感情の問題は切っても切り離せないので仕方がないといえば仕方がない。けれども創作からかけがえのないエッセンスを得るためにはそういった感情の捨象は必要で、感情の、自己のある程度の客体化があってはじめてたどり着ける祈りのステージがあるのも実際ではなかろうか。感情を拾うためには感情を捨てるプロセスを経ないといけないことが少なくなくて、だから創作を観て心を動かされるからといってそのひとにすべての感情が兼ね備わっているかというと全くそういうわけではないと思う。このあたりの心の断絶みたいなものに対しては依然として複雑な思いがあるのだけれど演劇は自分にとって、少なくとも公演中はそういった(自己の内面に起因する)ものから客体の側に良くも悪くも自分を引き抜いてくれる。そこに劣等感を抱く理由は多分ないのだけれど、全体としてのバランスを欠かないようにしないといけない気がしている。

いずれにせよ「文化を受容する」って、「(その文化を育んだ)社会の病理を受容する」ことだと思うんだよな。前者を行うにあたって後者の存在を忘れないっていうこと。


KAAT×東京デスロック『外地の三人姉妹』

日時

『もっとも大いなる愛へ』 / 月刊「根本宗子」第18号

spice.eplus.jp

2020-11-07 19:00

言葉から逃げているような、あるいは言葉の力そのものを蔑ろにしているのではないかと思えるような他者に出会い、憤りのような、あるいは失望のようなものをおぼえてしまったことがあった。自らの言葉で綴ることに、綴ったものに責任をもつことに対して向き合えと思った。誰もが当たり前のようにそれを為せると期待したかったのかもしれない。

そこから間もなくして、自分も世界も激変することになる。世間の退屈は言葉を奪い、まず活字がそれまでほど頭に入ってこなくなった。それは、自らも言葉を綴ることに拘泥することがなくなってしまったことを意味する。あれほどまでにヴォイスに拘れと憤った過去がありながら、しかし本当にオリジナルなヴォイスというのは極めて稀有なものであって、自分のヴォイスだと思い込んでいたものも食い散らかしてきたテキストや音声、あるいはそのほかの五感から意識的/無意識的を問わず行った接ぎ合わせだったのかもしれないと、深層で知覚したのだろうか。己のヴォイスがパッチワークの範囲を出ないのか、血肉とできているのかは、何を指標や閾値として区別できるのか。その区別の基準すらも付け焼き刃になっていないか。そんなことも考えつつ、いつの間にか随分と言葉に対して疎遠になっていた。

劇場やライブハウス。あるいは美術館もそう。表現を受け取る「集会所」がかつてのように機能しなくなったいま、それはインターネット配信といったパーソナルなプラットフォームを通してより直接的に、1 対 1 で人に入り込み、個々人その人限りの解釈を引き出す可能性を強めたようにもみえる。少なくとも自分は意見を分かち合える機会というものを悉く喪った。そこで薄々と、言葉に向き合ってほしいだとか、同じものを観て価値を共有したいだとかいう望み自体が説教くさい預言者然としていたであろうことに、感づいたのかもしれない。チャネルが外に開かなくなると残るのは己の思索だけなのだから、否が応でもその独善性に自身が突き当たるときは遅かれ早かれやってくる。

自身の言葉への信頼がゆらぎにゆらいだそこへ更に、踊り子が袖を引っつかみにくるのである。

個々人の解釈の、1 対 1 の時代であるのならば、たとえば手帳のような完全に閉じた場所へそれを書けば良い。けれども自分がそうならない、そうなれないのは独善の残滓か、あるいは伝達手段としての言葉を信じたいという呪いか。

共有したいものができたとき、死ぬまででいいから観てみてほしい、読んでみてほしい程度の長期的で希薄な望み程度のものは誰しもが持ち得るものだ。しかし演劇の場合、そのシェアが可能な期間はきわめて短い。だからこそ、そこで本当に必要なのは執心じみた推薦では決してなく、鑑賞後に自らに残った余韻を血肉とする努力と、その血と肉をもってその後を生きていく覚悟をすることなのではないだろうか。それは、その表現を引き受けて他者へ共有するということの、広い意味での実践だということ。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。不義をよろこばず、真実をよろこぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

愛は決して滅びない。

コリントの信徒への手紙 13 章

2020-11-08 13:00

改めてカメラワークが途轍もない。独りよがりになりすぎない画角とピント。観ているものがあくまで芝居であるということをメタに意識する余地のないほど、違和感のない視点と焦点。本多劇場の空間的な奥行きまでわかる。

sugarbeans アレンジのベースが入ってくるところでピントがにじむ。そして昨日と同様、斜めに断ち割られたイエローとピンク…床と壁紙が形づくった二者の世界を分かつ境界線に、カメラの射線が一致する。

『コリント人への手紙』の一節を諳んじるシーンで、少女の顔をおおう睫毛の深い陰影。伊藤万理華、1 年前に新国立で観たときとは何もかも違ってみえる。ここまでのものが観られるとは。


『もっとも大いなる愛へ』

  • 作・演出・企画 根本宗子
  • 出演
  • 撮影監督 二宮ユーキ
  • 無観客生配信

配信版『超、Maria』 / 超、リモートねもしゅー3

qjweb.jp


幼少期の父兄参観(このことば自体がなんかもはやすごくなった世相ではある)でユウとカナが導き出した「お父さん観」と「会えないということは、想像する余地である」という昇華。劇場で見た時は子どもなりの誇り高さや眩しさがやけに響いたような憶えがある。見返すと結局それは母親からの受け売りで、母(たち)はどういうポジションからその言葉を発したのかみたいなことを考えると呪いそのものだし、「想像の余地」が結果的にユウとカナにどう作用していったか、はその後の彼女たちの人生に寄り添うようにトレースされているので…それどころかしっかり『さぞかしすご~いお父さん!』の唄の直後の独白で説明されてた。

「想像の余地」の魔法は解けざるを得ない昨今の状況を考えると、初演のときに眺めることのできた「お父さん」の多様性も、その披露の場である授業参観も、それどころかユウとカナの物語すらも最早とらえどころがないのだろうか。

シスヘテロ的執着に基づくファザコンがこの芝居のテーマであったとするなら、今春再演されようとしていた岩井秀人の『ヒッキー・カンクーントルネード』周辺も似たようなにおいを感じて観に行こうとしていたはずだし1、ハラサオリの『Da Dad Dada2』もそうだし、盆休みに一気見してしまった『愛の不時着』も家族の中で期待されている立ち位置から「つくられた自認」の殻を破るというテーマを複数の人物を通して描いていた。そのような広くを包括した「家父長制」とその類縁に対する洞察やアンチ・パターン的表現が目立つ年だった気がする、まだ 2020 年は終わってないけど。解像度の悪い言い方をすれば創作なんてそういった、父と子の相克という普遍性の繰り返しだと言ってしまえるのかもしれない。けれども今年は敢えなく世に出ることができなくなってしまった公演も含めて、これまで追いかけていたものや、伏流のようにあたまを擡げてきて刺さったようなものたちが、フォーカスされた観念を指向しているように感じる。何かがシンクロしているのかもしれないし、単純に自分(あるいは自分が追いかけてきた界隈…世代的には絶妙に分散しきっていないんじゃないかとも思っている…)がそういう時期なのだという可能性も否めない。

表現者の傾向がそうだとして、では実際のところ受け手や世の中の実情はどうなのだろうかと思ってみても、こういう話、興味深くはあれど何の創作的文脈の共有もなく話題に出せるかというとだいぶセンシティブ。流石にいきなり「ファザコンですか?」とか訊くようなメンタリティでもない。訊けるものではないので、教えてほしい。懺悔のように。こちらは何でも赦せる聖母の慈愛をもって聞きたいとおもいます。

KAAT 上演版 と比べると、観た回での座席からは「母」の陰に隠れてしまいまったく見えなかった舞子がしっかり二宮ユーキの映像に切り出されていてよかったし(休憩前のメインテーマでとるバイオリンソロ素晴らしいですね…)、 『Whose playing that "ballerina" ?』 からのアディショナルなコンテクストでごしゃっとなってて最高だった縷縷夢兎の舞台美術とは真逆の静謐でミニマルな視覚と、それに呼応するように閉塞的な音響で鳴るカンカンバルカンのサウンドもよかった。「母」のマネキン演出そのものがごっそりオミットされていて、それゆえに配信版の母が初見となるとどう映るのかはわからないけど、KAAT での母の「灯り」が落ちた表現だとかの一度の鑑賞だけでは見落としていたニュアンスを時間をおいて咀嚼・再認識できる機会を与えられたことが、初演で拾いきれなかった言葉の節々を対比的演出の上で解いていく感覚につながった。最初の方に書いた「会えないことは想像する余地だ」の真意についてもそう。一回性やオーラの力で圧倒される「上演」とはまた違ったこの体験…その期間だけで喪われてしまう戯曲たちが「オーラ」から切り離された状態で出てくることには、良い側面も多々あるのではないかと思っています。期間中に何度も観るのではなくて、じゅうぶんな時間をおいて臨むいうのも効いたと思う。劇場での再演とも違うのではないだろうか。いちばんよかったのは、この戯曲のためだけに書き下ろされた、本来なら KAAT 公演の終了と共に二度と日の目をみることのなかったであろう小春の劇伴群3が帰ってきたことです。かきんはすばらしい。


超、リモートねもしゅー 3 配信版
超、Maria


  1. こちらは主人公が男性なので、ホモソーシャル的かあるいはシスヘテロなマザコン的執着のどちらか、ないしは双方だろうけど。

  2. 『Da Dad Dada』 再演を延期します。|ハラサオリ|note

  3. KAAT 公演の「アンコールメドレー」を撮影可にしていたのはこれらの楽曲群に対する供養の側面があったのではないかと考えている。

『Happily Ever After』 / 演出: 根本宗子

www.nikkansports.com


TOHO MUSICAL LAB.

企画が立ち上がった(それでも 1 ヶ月前とたいへんに短期)ときと比べて、状況はより悲観的な方向に進んでいるように感じる。“要請”の解除によって劇場は大手を振って使えるようになった。ここ数週間で観客を入れての上演も復活してきた。劇場上演の形態に執着する限り何もできなかった1「劇場が使えなかった時期」と比べると、進歩があったと捉えるむきもある。一方で、解釈次第とはいえ連日の新規感染者数の推移であったり、全容も明らかになる前ではあるがこの時点で劇場公演におけるクラスターの発生と思しき事象も発生2したりと、取り巻くものと見通しは必ずしも明るくはない。

個人的にはかなり早期の段階から、もう元には戻らないと思っている側で(そもそも「元に戻る」とは何なのか…意味論ではなく)。かといって反復視聴の可能性を削いだストリーム配信上映は DVD 以下の価値しか提供できないと思っているし、Zoom 演劇は早々の飽和を見せて緊急事態宣言の終了と共に姿を消した。その中で、この企画はどちらかというと前者に近いコンサバな視覚を提供しつつ、「ラボ」と冠するようにあくまで実験公演である旨のことわりと、アプローチの発展を模索するという姿勢とをとっている。

果たして「ミュージカル」をもタイトルに冠するこの企画が、劇場での上演以外を選択肢に組み入れるまでに至れるのかどうかはわからない。可否は劇場への感情的な執着にだけ則っているわけではなく、楽器や音響ひいては“広場”を持たない日本の文化システムまで考慮した上で、劇場外でのミュージカルの成立可能性として検討される。最近だと気象の問題も無視できないし、「東宝」まで考慮するとスポンサー/テナントの事情も孕むのだろうけど…。

『CALL』/ 演出: 三浦直之

こけら落としとなる MUSICAL LAB. の初回上映作品として選ばれたこの作品は、無観客で完全な空席となった客席を舞台装置に組み込み敢えて画面に映すという手法で、通常の上演録画ものとは異なる何かを切り取る。観客の咳払い(今やタブーもタブーといったところになったが)や笑い声といった直接的な音声情報の欠如だけでなく、生体の不在をそれとなしににおわせる声の反響の違和感が、未だ元には戻っていない劇場環境をいやでも認識させる3

そういったみせ方も含めて、あくまで“上演演劇”のかつてを知っている演劇ファンあるいは関係者に向けた、喪失と追体験、そして癒しの話だったと感じる。チェーホフ『かもめ』をキーワードに、“上演演劇”の観念が基礎から喪われた世界を使って。


Happily Ever After』/ 演出: 根本宗子

一方で企画の後半を担った本作は、変容してしまった日常生活のベースとそれによって毀れつつあるもの(家庭)、喪われようとしているもの(以前の生活感覚や、“親密”な距離)を題材として、よりパーソナルでアーシーな感情に迫る。「劇場空間/文化の喪失」にフォーカスした前半の作品とは、想定しているスコープが大きく異なっていた。

それがより普遍的だと言いたいわけでもなく。よりリーチが広いとするのならば、それは普遍的だからではない。むしろ現状は全員が特殊な状況下に置かれていて、みえ方は似ていても本質はおそらく全く違う。

その特殊な、集団にじわりと蔓延しながらあくまで個々人に深く入り込んできた“病理”に、あくまで一対一で寄り添うこの肌触りが自分にとっての癒しとなりうる。背景に見え隠れする家庭崩壊とそれが子どもに及ぼす影響は不可逆で、劇中の“現実”もまた悲観的。けれども、悲観と前進は両立しうる。例えば ハラサオリ が「この状況は不安で絶望的な一方で、これから起こるであろうたくさんの変化が楽しみでもある」みたいなことを言っていた4。そういう状況解釈と可塑な適応が成すパフォーマーのクリエイションが、やっぱり見ていて楽しいじゃないですか。

現実と同じ夢なら、寝てる意味がない。

あくまでどこかしらに世相を織り込んでいないと古典かあるいはファンタジーになってしまう戯曲芸術に対して自己免疫疾患のように作用しかねない言葉であるとともに、作家がかつて劇場を訪っていた人々に手向けていた祈りの言葉。物理的に立ち現れてしまった第四の壁を突き抜けるもの。

ひとつ気になったのは、舞台上では同時に走っているポリ・フィーリングであるはずの riko の、カメラに入ってくる時間が極めて限定されてくるところ。上演芸術の特徴ともいえるポリ性が撮影配信で殺がれる部分は完全な解決をみていなくて、これは今後「ラボ」において研究を進めてほしい課題のひとつ!


  1. 一方で、脱劇場を志向した試みを模索する集団だったり、極端な例ではコロナ禍以前からの取り組みではあるが今となっては「自粛で劇場が使えないのはそれが公共物だからで、家が劇場なら使えなくなることもない」という論拠をまとう、自宅である長屋が劇場の貌も持つ個人のプロジェクト「家劇場」( https://iegekijyo.tumblr.com/ )といったものも存在する。

  2. https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2007/11/news032.html

  3. LinQ もラジオで、「(客の有無のステータスが視覚的に一切変わらないから)通しリハと本番との差を感じることができない、(本番特有の)視られることで分泌されるアドレナリンがない」と表現していたっけ(Buzz!!LinQ 2020-06-24)。

  4. ラジオ桃原郷 #8『家ラジオ meets 家劇場』