『夜会行』 / 鵺的
万人に観る準備ができているようなテーマではない、というと語弊があるかもしれないけれど、そこまで世界が進んでいないからこそ今、2021 年という劇中設定1で本作が上演されているということに違いはない。かつ、準備ができているのと鑑賞前後で価値観に変化が加わるのとは全く独立の事象で、後者は実現され得ないのではないかという気もする。あくまで予てから内在化されていた価値観を漸く意識的に視ることになるか、既に意識はしているものをわかりやすい形で咀嚼する機会を与えられたか、程度にとどまるのではないかと。
というのも、鑑賞した後に会場の外にて、きっと変わらなかったであろう人々の会話を聞いてしまったからだ。劇団が従前より使ってきた演出ほかの技法が今回でてこなかったことに関して茶化しともお道化とも取れるような斜からコメントすることが作法2とでもいうような、その解けない呪いのような語り方が、慎重で真摯な考えを積み上げて作られたであろうこの創作の意図していたものを見ないようにしてしまっているように思えた。視線を逸らすという積み重ねが「空気」となって彼女らをああさせざるを得ない状況を作り出しているのではないかということに、あそこまで記号化された「電話の声」という人物を作中に出すということを以ってしてもなお、気づかないことがある。
というわけで「電話の声」の話もしてみる。自分の(元)交際者が現在、同性と付き合っていると分かった瞬間に「ゲイの友達がいてレズビアンにも理解がある」ロールに翻る過程が、ある種の失笑を呼ぶほどの(実際その役回りを作中で笑里が引き受けている)情けなさで描かれるわけだけれど、この危うさを一言で表すなら「価値観のアップデート」ではないだろうか。価値は外からパッケージのようにやってきて自分にインストールされるものとでもいったような、その無責任さがこのことばに集約されはしないか。とらえどころのない外部化された責任所在が「空気」で、それが現在のマイノリティを取り巻くものの実体なのだとしたら、冒頭で言及したように鑑賞前後で価値観に変化が加わるというのは本質的に実現され得ないどころか、仮に実現された場合、その変化は却って「空気」の強化に加担しかねない。そのくらいきつく警告を発していたような気がする。当然、作り手には受け手らの感受性にレンジが存在することもわかっているはずで、だとすると外で聴こえてきたようなあの会話も須く上演の延長に配置される…されてしまうのではないか。ある意味で、舞台上でわかりやすく描写される暴力表現なんかよりもよほど沈鬱とした後味を引き出すことを選んだのではないかと疑ってしまうほど、本編での演出は(湿ってはいながらも)静謐さを湛えていた。
作中ではその役回りの大部分を遼子が引き受けていたように、マジョリティがマイノリティを攻撃するようなことがあってはならないのと等しくマイノリティがマジョリティを、あるいは異なるマイノリティを裁くようなことがあってもならない3…ここがしっかりと描かれていたことで芝居が立っていたような感覚があった。座組が決してマイノリティだけで構成されていないことこそが真摯さの証明(それどころか居たのかどうかさえ判然としない)。福祉課の窓口に立つ人間がそこを訪ねる人間と完全に同質の境遇であってはどうしようもないことも、差別的な価値基準とは別にどうにもならない身体的区別が存在すること(廣川と理子の間に如何とも埋めがたい身長差があったのがギミックとして効いている場面があった)も、どれも生々しかった。