公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『ヒッキー・カンクーントルネード (2010)』 / ハイバイ

natalie.mu


現在上演中の最新再演版を観にいこうとチケットも取っていたが、昨今の状況があまりにも悪かったので代わりに(というのもなんだが) Prime Video で配信中の 2010 年版 を観た。

「あいうえ」

後半の圭一と綾との会話に出てくる単語。意味するものやそこに当たっている字については台本が手元にないから分からないけれど、登美男への思いやりのつもりだった「愛」に対して常に自分が必要とされているという見返りを期待していたのではないか、という綾の告白の内容から考えるに「愛飢え」「愛餓え」あたりなのだろうと思う。10 年前といえばまだ承認欲求という言葉も広く定着しきっていないような時期1で、もしかすると昨今の再演では承認欲求のような、より親しみのある言葉に翻訳されているのかもしれない。厳密にはベクトルとその作用の順が「あいうえ」と承認欲求とでは異なる気がするのと、前後の言葉の関係や韻のニュアンスまでを含めると、分かりやすい言葉が出てきたとしてもなおここは「あいうえ」であるべきなのかもしれない。

韓国での上演時には韓国で「引きこもり」という観念に対応する言葉が無かった2らしいという話もそうで、戯曲自体が「今まさに古典にな」ろうとしている中で、時世の変化に敏感なこういった部分がどう変容していくかを追うことも再演の醍醐味のひとつだろう。だからこそ、できる事なら今回のバージョンを見たかったところではあるのだが。

圭一は何者なのか

過剰適応症「飛びこもり」の患者にして実験体、といった設定がどこまで(劇中の)真実なのか、みたいな点は気になった。圭一の行動をトレースするに、過剰適応であること自体はおそらく事実。団体によって実験対象にされているのかどうかについては、黒木が圭一を連れ戻そうとしているときの会話における前提(「4028 番」「部屋でまだ実験が残っている」)そのものに対する否定を圭一はしていないことから、少なくともそういった設定が彼に刷り込まれている(これも圭一の過剰適応の一側面かもしれない)ところまでは読み取れる。が、これだけでは事実性と、そのように刷り込んでいる出張お兄さん/お姉さん側の目的が分からない。それもこれも黒木が最後まで何者なのかよく分からない演出になっているからで、これに関しては演じているチャン・リーメイの表情のつき方が悉く秀逸。

  • 「お買い物療法」に飛びこもりの楽園をみた圭一が、出張お兄さんという属性を使えばどこへでも飛びこもれるうまみを知り、本物の出張スタッフがいない隙に正規スタッフを装って登美男の母と面会した
  • 正規スタッフたちは圭一の行動を制御するために、突拍子もない設定をいくつかでっち上げている

といった線が妥当だろうか。

どう「古典にな」ろうとしていたのか、あるいは「し」ようとしていたのか

ステイホームということばの下に家から出ないという選択的行動が正当化・推奨され始めた、いわゆる「第 1 次緊急事態宣言」。その布令下に公演延期が決定されたのち、一年越しに上演にこぎつけたのが今回 2021 年版の再演である。初回の宣言解除という出口に人々が夢みた再び外に出ることのできる世界像は、本作のラストで観客が登美男にみる希望と非常に近いものを持っていたのかもしれない。宣言下で巣ごもりを余儀なくされた多くの「引きこもり」たちに、何らかのより普遍的な意味を持ってラストシーンは響くであろうことは予想できる。

一年の順延を経てもなお、この芝居の持つその精神性は喪われないはずだった。少なくとも公演の振替日程が決定したころまでは。しかし、感染第 5 波の急速な拡大と上演日程とが運が悪いにも程があるタイミングで重なり、「それでも我々は外に出るべきではないのか」という芝居のテーマと、今「外に出る」選択するという行為が招きうる結果との間に大きな乖離が生まれかねないという非常に歪な構造の中、上演は決行されることになってしまった。

少なくともしばらくの間、人々はステイホームを忘れることはないだろう。引きこもりを描いた作品もこれを機に古いものになるかもしれない。ただ、どのように古典化できるかという過程と文脈は作り手には制御できないし、するべきでもない。それは多くの場合、受け手によって決まっていくことが多いのかもしれないが、図らずも今回のそれはウイルスによって決まるとでもいったような様相を呈している。そんな中で上演が決行されることによって引き起こされかねない副作用というものが、きっとある。

最終的に人々は外を向かなければならないが、それでも今はそのような時期ではないということ。あまりにも展開が劇的で、しかもそれらがオリンピック開催まわりの政治判断によって曖昧になってしまったという背景もあれど、その政治判断に際して問題視されたものと同じことを結局、上演芸術もずるずるとしてしまってはいないか。あまりにも酷いタイミングになったという側面はあれど、今まさに変質しようとしている観念を扱う作品の作り手として、もう少し別の手段も模索できる可能性は無かったのかという思いを、引きこもることを選択した側の視点から馳せてみる。この考えもしかしながら、作り手ではない=「レスラーじゃない」人間による、多数の人々が関わる興行というものへの思慮が充分に足りているとは決していえない視点であろうことも、忘れてはいけないのだと思う。


「ヒッキー・カンクーントルネード」の旅 2010

作・演出 岩井秀人