公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『ホーボーズ・ソング ~スナフキンの手紙 Neo~』 / 虚構の劇団

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スナフキンの手紙』は 1995 年に岸田戯曲賞を獲ったということもあって、鴻上尚史の代表作的な知名度を持つ作品となっていることと思います。ただ、演劇として観ると(DVD での鑑賞ですが)そこまで刺さりませんでした。DVD コメンタリー等では当の鴻上自身による「(それまでにも受賞の機会はあっただろうに)なんでこれだったのか?」といった感じの言及を見聞きもできたと思います。これらは単に、岸田戯曲賞は戯曲単体に対する選考と授賞であるからなのでしょう。基本的には板の上で演出された芝居を以って作品を享受することが第一歩である純粋な鑑賞者にとっては、観劇体験との齟齬を真っ先に認知することとなるため、そのギャップを受賞への疑問に変換しがちなのかもしれません。鴻上に関しても、彼は作家であると同時に演出家でありますから、どうしても切り離して考えづらい面はあるかと。

この『スナフキンの手紙』は、(岸田賞受賞とは関係ないと思いますが)後に『ファントム・ペイン』という続編が制作されるなど、基本的に“観かえす”ことが容易ではない演劇界においてもなかなか特異な立ち位置にある作品であるともいえます(しかも間は 5 年以上あいている)。

未鑑賞の『ファントム・ペイン』から 15 年。この状態で『スナフキンの手紙 Neo』という副題を備えた作品を観に行って、果たして楽しめるのか?地方公演ということもあり、例えば東京公演の期間に感想などを漁れば、前 2 作との関連性の有無も判明するのかもしれませんが、チケット前売り期間においては大概開幕すらしていない状況なので、漁ろうが漁らまいが関係はなかった。


「理想の 60 年代」「内戦の 70 年代」を経て連合赤軍が革命に成功、そこから「流血の 80 年代」を経た平行世界における「希望の 90 年代」での、とある数日間を描いたのが『スナフキンの手紙』。そして『スナフキンの手紙』の登場人物が、異なる平行世界(少なくとも「スナフキンの手紙」が存在しない)である「孤立の 2000 年代」を生きる、というのが『ファントム・ペイン』の舞台設定とのことです。そして今回「憎悪のテン年代」についてですが、結論からいうと平行世界ではあるものの『スナフキン…』やそれに続く『ファントム…』とは異なる歴史を歩んだ日本のようでした。予習・復習は必要なかったんですね。どういう経緯にしろ、何らかのテロあるいは革命を契機に、本作でも日本は内戦に突入しました。各作品の初演時点での日本の社会背景を契機として発生しうる内紛、その状態下におけるリーダーから下っ端そして市民に至るまでの、当事者たちの動きを描くということが『スナフキン』シリーズの共通基盤みたいです。

では副題にある「スナフキンの手紙」は存在したのか。具体的には存在しませんでした。「内戦の 70 年代」を経た世界でないから、「スナフキンの手紙」そのものは発生しえなかったということでしょう。ではそれに対応する何か具体的な要素は?そもそも『スナフキンの手紙』における「スナフキンの手紙」とは、シルクロードをさすらう日本人の間でやり取りされる、彼らの「語られなかった本当の言葉」が綴られた一冊のノート。あるいはそのノートの内容が書き写されたインターネット(時代によってはパソコン通信か)上の書き込みを指す名称でした。これはおそらく『深夜特急』その他に影響され急増した、当時の日本人バックパッカーの行動動機を具象化したアイテムでしょう。現実であろうが劇中の平行世界であろうが、当時の日本の象徴的な状況(内戦が発生しているかしていないか等)の違いに関わらず、彼らはさすらいに希望を求め、場合によって沈没する。

一方で、本作ではそのような“外界”あるいは“希望”を想起させるような要素はほとんど出てこなかった気がします。右翼と左翼とに分裂し内紛する日本に、否応なしに巻き込まれていく若者たち。彼らには外の世界を夢想する余裕も、飛び出すという選択肢もない(のか?)。あるいは、20 年前よりもグローバル化が進んだ現在、バックパックを背負って海外をあてどなくさすらうボヘミアン的な生き方は、希望とはなり得ないということかも。それでは現在、「スナフキンの手紙」に代わる希望はパソコン通信やインターネットの果て、SNS に存在するのでしょうか。かつてはそうだったのかもしれませんが、今やあまりにも開かれすぎている。希望どころか「テン年代」の憎悪の温床になってはいやしまいか。

どの言葉も内戦や流血を語ってはいなかった

という「スナフキンの手紙」。だとすると劇中で複数の登場人物が摂取した、幻覚を催すキノコ…あれがテン年代の「スナフキンの手紙」になるんでしょうかね。妄想は文通のように直接的に共有しえるものではないので“手紙”とは言いづらいですが、何かを打開するための自己暗示のきっかけになりうるという点に共通性を見出すことはできるかもしれない。実際『スナフキンの手紙』劇中では(冊子としての)「スナフキンの手紙」が存在すること自体が、「希望の 90 年代」を生きる一部の人々にとっての活力になり得ました。現在を彷徨う日本人にとっての「スナフキンの手紙」は、過去の「スナフキンの手紙」よりもさらに内的なところにあるのかな。しっくりきませんが。まあでも、終盤の主人公の妄想は内戦する日本と密接に関係していましたし、その彼の幻覚(?)がキノコによるものだったのか記憶があやふやですけど、薬物推奨演劇!というわけではないでしょうから、何かもっと違うものが「スナフキンの手紙」なのかもしれません。あるいはそんなものは、はじめから劇中に無いのかもしれない。全体を見返すと、敢えて『スナフキンの手紙』を冠する理由も薄く、コマーシャル的な理由で副えたのではないかという気もしてくるので…。

「語られない言葉」をテーマとした鴻上演劇には、『スナフキン…』以前に『ピルグリム』という芝居があります。『スナフキン…』ほど外的でもなく、かといって本作ほど夢にもオチていない『ピルグリム』の絶妙な描かれ方は本当に好きなのですが、そこで「語られない言葉」を伝える手段となっていた伝言ダイヤルも、やはり現役で通用するアイテムではありません。もう、『ピルグリム』や『スナフキンの手紙』に類する芝居を時代に沿って再生産し続けることそのものに、限界があるのかもしれないです。むしろそういうことを言っている芝居だった?何にせよ着地のさっぱりしない、ある意味で“いま”っぽいオチでした。