『桜姫』 / 阿佐ヶ谷スパイダース
退屈がこわい安定してしまうことがこわくてしかたがない一度停滞するとそこで私の人生は完成してしまうのではないか死を以って完結する人生ならばそれまでは未完成であり続けなければ私の人生はきっと退屈で退屈でしかたのない時間が大半をしめたまま失意と後悔のうちに幕を閉じることになるだろうそれならばそうならないための何かを私にください幸せが安寧であるのだとすれば不幸せでありつづけることで私の人生は充足を求め続けるそれによってその間の生は彩られることでしょうですから不幸せな方へ不幸せが保証される方へ人形へと語り掛けながら私は歩き出す走り出す音楽の鳴る方へ音楽の鳴る方へ、音楽の鳴る方へ。
こういった感じの女 吉田が出てきて、周囲の男その他を巻き込みながら突き進んでいく。男色の気のある老齢の有力筋 岩井清玄のトラウマ、白菊君
しッ白菊くーーーーーーん!白菊くーーーーーーーーーーーーーーーーん!!!!!!!
を、許婚である入間善五郎のプライドを、その他何人かの人生を、蹴倒し突き破り籠絡しながら、望んで不幸街道を突っ走る。楽隊音楽の鳴る方へ。導かれるように。
まあいるよね、望んで不幸体質。これ鶴屋南北原作って聞いたけど江戸時代の歌舞伎でもこんなクラッシャーを取材した作品が存在するの?あの時代もこういう女の子やっぱりいることろにはいたの?と思いきや、だいぶ長塚圭史による翻案が入っているようである。舞台設定も戦後っぽかったし。その長塚圭史、胡散臭い中国人みたいな見世物サーカス団長の役にあいすぎでしょ。あと座席案内してくれてありがとうございました。中村まことは不幸なおっさんとしても、コメディリリーフとしても(あの顔で叫びながら客席に突っ込んで来られるのは仕込みでもなければだいぶ恐いと思うが)、死んでからの超怖い背後霊としても、八面六臂の役者であって、桜姫吉田の物語というよりは、清玄と権助の物語のようでもあった。この二人の鏡映しの演出がいまいち難解で分かりきらなかったところが何というか、っぽかった。
不幸、やりたいならひとりでやれって思うけど、自分が不幸かどうかをどうやって判断するのかというと、やはり人間関係の中で相対的に決定されるというか。特に不幸体質であることをアイデンティティに駆動したいのであれば、その確認作業が定期的に必要になるのであろうし、そうなると清玄先生や入間善五郎のような人間が発生してしまうんだよな。不幸体質、存在すること自体が貴いね罪ですね。しかし物差しとしての男たちが、舌を噛み切り、惨殺され、周りに誰もいなくなったとき、自分の不幸度合いを規定してくれる人はもういない。術を失くした吉田は女郎としての退屈な人生へ、いつの間にか自らを押し込めてしまっていた。不幸への道しるべを示してくれていたはずの音楽はもう聞こえてこない。あの楽隊はどこへ行ってしまったの。
♪~
停滞した運命を打開すべく旋律隊が再び目前へ現れようとしたそのとき、スコップを持ってアイツがやってくる。
本当に「生きたい」と思ったとき、目の前で輝ける花火の煌めきを強く欲したとき、それまでの不義理も、入間の銃口のかたちをとって、こちらを向いている。
桜姫 ~燃焦旋律隊殺於焼跡(もえてこがれてばんどごろし)~
- 原作 四代目鶴屋南北
- 作・演出 長塚圭史
- 出演
- 藤間爽子:吉田(桜姫、不幸体質クラッシャー)
- 中村まこと:岩井清玄(有力筋のおじさん、白菊と心中を図ったが生き残ってしまった)
- 伊達暁:権助(腕に釣鐘の刺青を持つ男)
- 中山祐一朗:三月(清玄の側近、ただし裏切る)
- 村岡希美:長浦(吉田の出身孤児院の師、ただし清玄を嵌める)
- 大久保祥太郎:入間善五郎(吉田の許婚)
- 坂本慶介:松井(清玄の弟子)/邑井(女衒)
- 富岡晃一郎:狐の七郎(狂言回し)
- 長塚圭史:ドブ川の頭/勘六(見世物小屋の頭)
- 志甫まゆ子:ドブ川の女/見世物小屋の座員
- ちすん:楽隊の女隊長(ウクレレ)
- 李千鶴:楽隊の女(クラリネット)/見世物小屋の座員
- 森一生:楽隊の若い男(パーカッション)
- 木村美月:楽隊の若い女(ピアニカ)/白菊(清玄と心中を図った学生)
- 開演 2019-09-27 19:00
- 於 吉祥寺シアター