公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『ラッキーフィッシュと浮かぶ夜』 / こわせ貯金箱

stage.corich.jp

浜辺に一頭のクジラが迷い込む、というポートレートが脚本家(演出家を兼ねている)の頭の中にあり、そこから話を組み立てていったようだ。クジラが好きなのかな?と思ったが、劇中で2回ほど船舶と衝突する。もちろんクジラは無事では済まないだろうから、好むのはあくまでそういった情景であって、クジラそのものではないようだ。

話は、「ラッキーフィッシュ」と呼ばれる魚の形をとった何かが人に取り憑くことで人が幸福になったりならなかったりするという都市伝説の蔓延る、海沿いの街から始まる。超常現象の取材なども扱う地元の占い師と TV 制作(?)、同じく街の女子高生グループ、街の外から来たと思しきオカルト雑誌ライター、大学デビューに失敗した女子大生、など幾つかのグループが白衣の秘密結社のような集団に攫われ、元あったグループ毎に密室に監禁される。意識的か無意識的かの違いはあれ、拉致された人物あるいはグループには、「ラッキーフィッシュ」が出現したと思われる日時・地点にそこに居たという共通点があった。「ラッキーフィッシュ」とは何か?秘密結社の目的とは?そもそもこの監禁状態を抜け出すことができるのか?そういった謎解きのエッセンスを含むストーリー仕立て。

…なんだけど。やっぱり冒頭のポートレート先行で書きはじめたのか、ほか、言ってしまえばそのポートレート“一枚絵”以外のすべての“動画”がものすごく上滑りしている。ミステリー要素の大きなところで言えば、監禁場所が陸地からそれなりに離れた外海を航行する客船であり、無意識的にでも船酔いを起こす人物が居るほどなのであれば、その揺れの特徴から自身の置かれた場所を類推できる登場人物は出てきて当然なのではないか、とか(出てこないんだな)。そんな外洋で停泊したところで、果たして揺れが収まることがあるのか?とか。海洋生物との衝突と船舶火災の複合事故についてどの程度状況を揉んだのか?とか。あるいはそのような外洋で星空を見上げたとき、北極星から北斗七星をたどる、という星探しの過程は現実的なのだろうか(逆では)?最近の大学工学部は実習でラジオ受信機を作るのか?

キリが無い、細かい、と思われるかもしれないけど、つまるところ脚本を書いた人は、おそらく船に乗ったことや星を探したことが無いのではと思ってしまうのである。少し外に踏み出してみれば体験することのできる要素にも現実感が伴わないとなると、その上で行われる人物の所作も全て魂の入っていないものになってしまう1。だからこそ“切り売り”が大事であって。無論、切り売りが全てだとは言わない。ただ最低でもまず自分が何を伝えたいと思っていて、それは自身のどういった体験に基づいたものなのか、それは普遍的にはどういった話に落としこめるか、というプロットがないと、本当に生きているものが何も居ない舞台になってしまう。

唯一生きていたと思えた演出は、冒頭の『溺れる鯨2』合唱で、ここの座組の一体感はとても興味深かった。多分この歌が本当に好きなんだろう。

枝葉は置いておいて、主題の「ラッキーフィッシュ」について考えてみる。「ラッキーフィッシュ」は欲望の強い人間を宿主とし、取り憑き、渡り歩く。宿主がその欲望に費やすエネルギーを糧に成長する代わりに、宿主の欲望を満たしてやる。宿主は願いが叶った、ラッキー、ということになる。一方で、その欲望の実現に強引に巻き込まれることになる人間は、必ずしも幸せとはいえない。幸不幸は、世界全体で言えばゼロサムゲームなのだから…といった感じの設定。

こういった、幸不幸を司る要素を具象化した芝居には、ほかにたとえば イキウメの『関数ドミノ』 がある。欲望を具象化するだけあって、細かい設定もそこそこ似ている。大きな違いは、『関数ドミノ』では精神異常者のたわごととして片付けられかねない、あるいは言霊・まじないレベルの自己暗示として一般には説明のできる「ドミノ」にあたる存在、すなわち「ラッキーフィッシュ」が、本作中の世界ではほぼ確実に実在していて間違いがないということ。秘密結社もとい二ツ森家は祖父の代から「ラッキーフィッシュ」の鹵獲を試みており(という話だったはず)、人間に良く似た器である「アンドロイド」に擬似的に人間の感情(欲望)を表出させ、「フィッシュ」が引っかかったところで器の人格を全て消去して内部にロックインし、「フィッシュ」の移動が二度と起こらないようにする、といったような手段を保有して動いている。そして、最終的にその試みはうまくいく。ではそれが完遂されて、世界は変わるのか?幸不幸のゼロサムゲームは終わりを迎え、欲望で駆動する人々の様々な感情が熱的に死んだ世界でもやってくるのだろうか?それこそ現在の二ツ森家が、半ばアンドロイドの寄り合いとなってしまったように。

あるいは、「ドミノひとつ」ならば「魚一匹」である。人の幸不幸の機微が、そうも明確に具象化された外部要因(しかもただひとつ、乃至は一匹)に集約されるのだとすれば、夢も希望も無い話すぎやしないか。試みが上手くいっていたかどうかは置いておいて、これは擬似人格をもったアンドロイドの二ツ森樹と、彼女しか友達がいないといってよかった大学生ミチルとの友情が「ラッキーフィッシュ」鹵獲に伴う樹の人格の消去で終わりを迎える、喪失の物語である。だとしたらミチルはあのとき、惨めで仕方が無い思いにとらわれるのではなかろうか。アンドロイドとは思ってもみなかった自分の友人が、こうも理不尽に奪われることに納得がいかず、無二の友達が消えてしまう規定路線を変える手だてはないか必死に考えるかもしれない。あるいは樹の AI が、長いフィードバックとアップデートの間に、真に人間の感情に肉薄し「欲望」を体得することがあってもいい。ROMカセットやら何やら無しでも「ラッキーフィッシュ」を宿せるような人間性の獲得。現代のピノッキオみたいになってきた、クジラもモチーフだし。でも、この二人の引き裂かれることに対する反撥が、マザコン仲井君の「ママの淹れてくれた紅茶が飲みたい」に勝てないのだとしたら、やっぱり悲しすぎる。

書き手にはメインストーリーと何も関係の無い『School Days』オマージュのようなサブプロット(切断した恋人の頭部をバッグに詰めて船で外洋へ発つ女)の話なんか挿んでしまうことよりもまず、自身にとっての友達、あるいは友情について棚卸しをしてみるといいのでは。そんなことを思ってしまうのである。児童文学みたいな良い話にも化けそうなものだけど。

  • 作・演出 川口大
  • 開演 2019-05-05 14:00
  • 於 甘棠館Show劇場

  1. 被災地や被災者への取材なしに『美しい顔』を書き上げる北条裕子のような化け物もたまには出てくるのだけれど(あれはあれで議論があるというのは織り込んで)、やっぱりあれはレアケースだと思う。ただし『美しい顔』主人公である女子高生サナエの膨張し収縮する自意識に躍る読点の無い文面なんかは、少なからずは“切り売り(後述)”なのではないか、とも。

  2. https://www.youtube.com/watch?v=-R71CkSfE38