公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『関数ドミノ』 / 演出: 寺十吾

ドミノひとつ。

kansu-domino.westage.jp

「ドミノ」について

無意識のうちに人間に付いたり離れたりする超能力のようなもの。以下のような設定・特徴をもつ。

  • 「ドミノ」になった人間が願ったことは、必ず叶うようになる。

    • 無意識下でも発動するため、知らないうちに周囲の人間の人生にも影響を及ぼす。
  • 「ドミノ」になれる時期は選べず、また限定されている。

    • ある人物から去った「ドミノ」属性は他人に転移するのか、あるいは自然発生・自然消滅的なものなのかは特に説明は無かった(というふうに記憶している)。

      • また、「ドミノ」は同時に 2 人以上存在しうるのか、しうる場合どの程度の割合で存在するのか、「ドミノ」の思念は競合するのか、等も明らかにされていない。
  • このような「自身が世界の中心であることに気づいていない特定の人物に、その他の人物は振り回されているだけ」という考え方と、それを「ドミノ」というシステムの存在で説明する体系を「ドミノ理論」という。

    • 理論を知る/提唱する/支持する極少数の人間以外に、「ドミノ理論」は知られていない。

    • 「ドミノ」である人物が、自身が「ドミノ」であることに気づいてしまう事例は、少なくとも劇中においては確認されていない?

2009 年版の再演

イキウメによる作品であり、脚本としては 2009 年版と 2014 年版が存在する。登場人物、特に主人公の属性や、結末が異なる。今回は前者のシナリオの再演にあたる。

観て

  • ソフトにいえば言霊やプラシーボ、あるいはツキ。もう少しきつい感じだと陰謀論。もっといえば統合失調の見る風景に近いか。特に劇中でドミノ理論を支持する主役の真壁[演:瀬戸康史]は極めて病的。

    • ついてない、ということに何らかの系統的な理由付けをしないといけないほど追いつめられている人がこの芝居を観たら、ドミノ理論を現実へ適用してしまうのではないか、と思えるほどにうまくできている。「今回はツキが無かった」程度のことは誰しもがときおり思うことではあるだろうし、ドミノ理論の片鱗は現実のそこかしこに転がっている。こわい。

    • 世界設定は、2017 年に観た中ではいちばんよくできていたかもしれない。

  • 真壁くんという人間は本当にどうしようもない。自分たちはドミノ理論の被搾取側にあたるという被害妄想に取りつかれているが、やっていることはドミノの違法な監視であり、それこそ彼らが本来は恐れるような集団ストーキングの類である。

  • 理論の矛盾点としては、上述したように少なくとも劇中ではドミノがドミノを自認するケースは存在していない。理論の支持者にとっては、このようなことはあってはならないことで、何故なら自認のあるドミノは思うままに世界を動かすことができてしまうから。では、理論の支持者はなぜ一度もこれまでドミノになれていないのか?というのがこの話の肝。

    • ドミノというシステムそのものが、精神をおかしくした人たちの他愛もないたわごとのようにも描かれる一方で、冒頭で世界観の提示に用いられる不可解な交通事故の存在、そして終盤、客席の観衆にも聞こえる“高周波音”と直後に起こるドミノ理論なしには説明できない事象、といった演出は、対照的に「イメージすることの強さ」という、フライヤーにも書かれているテーマの側を強く想起させる。ギミックは非常に面白い。
  • 最終盤、ついにドミノであることをドミノ本人が知ってしまうという展開があり、しかしながら知ってしまう前の無意識下における陰の感情が、意識的に念じる陽の感情を覆せないままドラマは幕を下ろす。ドミノは一体誰だったのかということが明らかになってから顧みる、冒頭の事故において働いていたであろう感情とも対比があり、ラストシーンは悲壮感が増す…

    • …はずなのだが、絵面としては瀬戸くんが、ブッ倒れた女優1の尻をさすり回しまくっているなか舞台が暗転していく、というものであり、それが尻をさすっているという光景にしか見えなったのがなんだかどうしようもなかった。なんであそこだけ演出が浮いて見えてしまったのか。
  • こういった若手の座組にベテランが入ったときの引き締まり方は相変わらず良い。例えば 『超、今、出来る、精一杯。』 における新谷真弓であり、 『キルミーアゲイン』河野まさと。今回のそれは千葉雅子ではなく勝村政信だった。

情報